『prayer/s』※ワーク・イン・プログレス公演 公演情報 RAWWORKS「『prayer/s』※ワーク・イン・プログレス公演」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    モノの怪たちの祝祭
     タイトル『prayer/s』の「/(スラッシュ)」が気になっている。
     登場人物たちが、お互いに関わりたいと願いながら関わることができない、一人一人が「遮断」されている象徴として、この「/」が置かれているように感じるからだ。
     彼らの言葉が「pray=祈り」であるのならば、その祈りは誰にも届かないようにも思える。もちろん「神」にも。

     半裸の男女たちは、めいめい、何かに向かって、誰かに向かって語りかけてはいるが、その意味内容も抽象的で、果たしてそれが本当に「祈り」なのかどうかも分からない。
     しかし、そこにはこの時空間に、現実に、肉体に縛られ追い詰められて、自由になれない人間の精神の、根源的な「痛み」があり「叫び」がある。
     その叫びを口にできただけでも、彼ら、彼女らは幸福なのだろう。特にストーリーのない点景のみの舞台で、陰鬱な暗闇の中で演じられていながら、そこには人々が織りなす「物語」があり、苦しみの後にささやかな開放感が漂っている。

    ネタバレBOX

     舞台は穴蔵のような、細長い小部屋。
     照明はなく、床のそこここに、グラスに入った蝋燭が置かれている。十人ほどの男女が、床や壁や椅子に、死体のように転がっている。彼らはみな半裸だ。
     灯火があるのみの暗闇、裸の死体の群れと言えば、どうしても芥川龍之介『羅生門』を想起してしまう。あの小説は、固定された舞台設定と時間経過において、二幕ものの「演劇」を強く意識しているが、あれをそのまま舞台にすれば、こんな感じだろうかと思わせる。
     実際に彼らがぶつぶつと呟く言葉の中には、宮澤賢治の心象スケッチがあり、中島敦の『山月記』があり、といった具合で、本作の「文学志向」は随所に見られる。しかし、それは必ずしも脚本・演出の永山智行の志向と一致しているわけではないようだ。本作は演出家が、役者たち一人一人と対話する中で、台詞や演技を作り上げていったと聞く。
     となれば、この舞台の「文学性」は、役者たち一人一人の「生き方」が必然的に産み出したものだということになる。
     「文学は死んだ」と言われて久しい。しかし、役者たちの「生」への探求が、「演劇」という表現形式に内包されている文学性を引き出すことになったのだとすれば、人間を描くための手法として、文学はまだまだ有効であると言えるのではないだろうか。

     一見、前衛的なアングラ演劇のように見えるが、『prayer/s』の演劇としての構成は、ミュージカル『キャッツ』とほぼ同一である。
     T.S.エリオットの詩集に登場する猫たち、“月の猫”ジェリクルキャッツに選ばれるべく「祈り」を捧げる彼らを一匹一匹紹介していく形式、意識してか無意識的にか、『prayer/s』は、それを模倣している。しかも登場人物一人一人が、ジェリクルキャッツとなった娼婦猫グリザベラのように、自らの「叫び」を語り終えた後、この穴蔵から扉の向こうに、光の世界へと旅立っていくのだ。
     いや、『prayer/s』を『キャッツ』の模倣である、と捉えることは乱暴に過ぎるだろう。ではなぜ両者は似通っているのか。
     むしろ『キャッツ』のあの「祈り」の形式が、古代から連綿と続く「神殿での祝詞」、日本ならば「神楽」の形式を踏襲したものだと考えれば、その類似性に妥当な説明を与えることは可能であろうと思う。
     「祈り」こそが、全ての「演劇」の原点なのであり、『キャッツ』も『prayer/s』も、「演劇の原初に還る」ことを目的として作られた、文字通りの「モノ・ガタリ」であるのだ。

     一人の女は、「私、生きてる」と呟いた。しかし、扉の向こうでも彼女が生きているかどうかは分からない。
     また一人のは、「私、生きたい」と呟いた。しかしそれは「逝きたい」の意味だったかもしれない。
     彼ら、彼女たちの「言葉」は、ともすれば抽象的になり、何について語っているのか、その叫びを産み出した背景となる事実が何だったのかは曖昧で、ただその言葉に込められた「感情」ばかりが暗闇の中に浮遊していく。
     だが、彼ら、彼女たちのことばは、決して空を漂ったまま消えたりはしない。たとえ語られることはなくても、彼ら彼女らには確かにその叫びと祈りを産み出すに至った「過去」があり、苦しみと痛みの中で常に「死」の影を纏いつつも、彼らが紛れもなく、そこに「実在」していることを訴え続けている。

     だから哀しい。
     しかし、だから彼らが、彼女たちが愛おしくなる。
     神殿も仏閣もない、現代の「祈り人=プレイヤーズ」にとって、彼らの願いを捧げる「神」はあってなきがごときあやふやな、それこそ一本の「藁」にすぎないのかもしれない。
     しかし、彼らの「実在」だけは決して否定することはできない。彼らの祈りと叫びは観客の胸に直接、呼応する。そして我々は、自らもまた「祈り人」の一人であることを自覚するのである。

     『prayer/s』の「/」は、舞台の役者たちと、我々観客の間にある「垣根」かもしれない。もちろんこの「垣根」は、たやすく飛び越えることが可能なのである。我々の「祈り」も、「誰か」に届くことがあるのだろうか。
     
      「ワーク・イン・プログレス公演」ということであるが、演劇は元々、公演の度ごとに進化するもので、現在は常に通過点であり、同時にその時点における完成形だろう。つかこうへいの諸作など、毎日のように演出を変えたこともあったと聞く。
     再びこの舞台を観る機会もあるかとは思うが、そのときはまた印象は一変しているかもしれない。それも楽しみなことである。

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    2011/06/01 22:21

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