「吉林食堂〜おはぎの美味しい中華料理店〜」 公演情報 特定非営利活動法人 劇団道化「「吉林食堂〜おはぎの美味しい中華料理店〜」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    罪を作るのも許すのも人の心
     中国残留孤児の帰還事業が最も活発だった1980年代初頭、巷では、帰国、肉親との再会を称揚するニュースばかりが流れていた。しかし帰国者たちの言葉も通じぬ日本での生活の苦しさはなかなか報道されなかった。問題が顕在化してくるのは80年代も後半になってからだった。
     物語は、福岡で吉林料理屋を営む元残留孤児の一家を通して、「あの時、何が行われたのか」を浮き彫りにしていく。深刻な問題だが、それを鬱々と描くのではなく、すれ違い・勘違い・その場しのぎのウソによるシチュエーションコメディとして構成したことには好感が持てる。深刻なものを深刻に描くのは簡単なことだが、人間はもう少し複雑なものだろう。最も悲惨な目に遭った時に笑いもする。そうした要素が随所に散りばめられていて、むりやり作られたわざとらしい笑いも少ない。おかげで全編を微笑ましく観ることができた。
     しかし、反面、喜劇としての構造が弱く、俳優の演技にもやや難があるために、クライマックスに向けてのドラマが生まれ損なっていることも否めない。

    ネタバレBOX

     博=ケンミンさんはマサばあちゃんの息子だが、中国人の養父母に育てられて、生活感覚は中国人。日本語はカタコトで、「タイジョブ、タイジョブ、没問題(メイウェンティ)」が口癖だ。大丈夫な根拠なんて全くないから、息子と娘はハラハラするばかりだが、観ているこちらは何が起きても本当に大丈夫になりそうな大らかさを感じる。逆にほぼ日本語を習得している新一と純子の方が、逆境に弱そうで、物語を子細に見ていけば、事態のドタバタは、実はこの二人が引き起こしていることが分かる。
     最近になって消息が分かって帰国してきた博の妹・さと子は全く日本語ができない。この妹の存在を母のマサには隠しておかなければならない、という状況がすれ違いとウソの喜劇を産む。
     その「娘の存在を母親には隠さなければならない」事情が、残留孤児の問題に詳しくない若い人にはピンと来ないものであるようだ。マサはさと子を中国に置き去りにしただけというわけではない。軍命で「足手まといにならないように」殺そうとした。自分では殺せずに中国人の隣人に殺害を依頼した。娘が生きていたとしても、その自分の罪が消えるわけではない。いや、生きていれば、その罪を自覚せざるを得ない。娘から責められるかもしれない。
     新一たちがマサばあちゃんにさと子を遭わせられなかったことには納得できる理由がある。

     喜劇仕立てになるのは、ばあちゃんとさと子を遭わせないために、家族が相談をするあたりからだが、時間がずれて会わないですむはずの二人が出会ってしまう。とっさに純子は、さと子を博の恋人だとウソをつく。そのウソもいずれはばれることになるが、喜劇として弱いのは、このあとの二転三転、といった展開がなく、あっさり事態が収束してしまうことだ。
     ばあちゃんが「生きていてくれてありがとう」とさと子に頭を下げるのも、実は婆ちゃんの心の中で様々な葛藤が既に解決済みだったのだろうと想像はできるが、舞台上の展開としてはどうしても「はやすぎる」という印象を拭えない。前半をカットして、このあたりの展開をもっと重層的に描いた方が、ドラマとしての深みは増したのではないだろうか。

     「そのうち、日本人も中国人もない時代が来る」。
     お婆ちゃんの述懐は、心が洗われるが同時に切ない。そんな時代はまだ来ていないし、多分これからも来ることはないだろうから。

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    2011/05/03 10:26

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