KeisukeKiritaの観てきた!クチコミ一覧

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mimimal

新宿眼科画廊(東京都)

2011/08/26 (金) ~ 2011/08/31 (水)公演終了

満足度★★★★

セカイと少女をめぐるメタポップな口語演劇
まず、このチラシの宣伝文やタイトルからは想像できない内容。
しかし個人的には、口語演劇史の教科書に1例として記載されて
良いと言えるくらい、史的価値のある現代戯曲という印象。

てっきり「電波系アイドルの苦悩をポップに描いてみました☆」
的な痛い小劇場演劇を想定していたら、実際は濃密な現代演劇。

いまの時代を生きている人だからこそ経験的に理解できる、
「あーいるいるこういうやつ」というキャラクターを用いて、
少々ありがちな悲劇設定を、これでもかというぐらいに
ポップかつシュールでブラックにぶっとばしたような構成。

くわしくはネタバレになるため言えないが、
役者の容姿とキャラの要旨がシンクロしすぎていて切なくなった…。

また、現代演劇のいろんな方法論を援用しつつ、
mimimalなりに再構成している努力がそこかしこに見て取れる。

それゆえに破綻やご都合主義的なとこもあるにはあれど、
それは今後の伸びに期待、というところで回収可能なレベルかと。

今のところはmimimalは演劇史の1例に留まるだろうけれど、
新しい方法論を打ち出せる素地はあるように思う。

ネタバレBOX

[内容について]
有り体に言えば、
「宿命的に不幸な非モテ女が、人生を肯定するまでの話」。
むずかしく言えば、
「スクールカーストや恋愛カーストにおいて構成された幸福と不幸の
 格差を、原子論的・生殖的な宇宙観を用いて救おうとする物語」。

この宇宙観を支えるためにか、物語がほぼ百年間という長いスパンを
軸に構成されているが、個々のエピソードはどうということもない所作
から繋がったり離れたりして、比較的うまくサンプリングしえている。

主に物語は、モテ階層の「冨士子、茂手木」が、
非モテ階層の「こさめ」を搾取し続ける展開となる。
この背後にスクールカーストや恋愛カースト、
それを形作る容姿やオタク性、宗教などの日本的マイナー文化、
それらを拡大再生産するメディアに対する視線があることが興味深い。

彼らのパーソナリティを筆者なりに述べれば、以下のように言える。
「自分が相手を認めてあげる」が出発点の茂手木と、
「自分を相手に認めてもらう」が出発点のこさめ。

「器用にうわべを取り繕うことによって、
 相手に難を押しつける(傷つける)方法を知っている」富士子と、
「不器用さを誠実さと取り違えていることによって、
 自分を傷つけかつ無様に振る舞う他ない」こさめ。

そして、この対立項の間をゆらゆら揺れ動くその他の人物たち。
特に名前も謎な「男」「女」はこの物語の語り部でありつつ、
女はこさめを崇める信者であり、男はこさめの孫であるという点でも、
重要な役回りをしている。

こさめの嘘の物語をまつりあげた宗教を享受し幸福に暮らす女と、
こさめのその後家族を得て子孫を得る幸福の証となる男。
彼らがゆきずりの愛を行う。
それは以下で語られる宇宙論と比較するとき、(ご都合主義とも捉え
られるものではあるが)興味深いエピソードに映る。

その宇宙論は、原子論的宇宙観(すべては原子で出来ているのだから、
すべての存在は等価値)と、それに基づいた生殖的幸福観(宇宙が
出来たときから続く生殖関係のなかにいることが幸福)というもの。
これは死生観から倫理を導いている点で逆説的だが「宗教」的である。

その意味では、現実の影に隠れている格差の是非や消費の価値を、
コスモロジーで救うといったあたりはキリスト教的ともいえよう。
現実的な解決を求められなかった人を救うという関心のもとでは
比較的妥当な解答だと、個人的には思う。

ただ物語の前半はポップに時間と空間が行き来して楽しめたが、
後半になるとご都合主義的な展開が増えていたように思う。
前半部に後半いきなり出てきた情報の伏線をいれておくなどすると
良かったのかもしれない。

[形式について]
構成要素を自分なりに解析してみると、
【口語演劇類における、ロスジェネ世代の混合種】、という印象。
青年団やチェルフィッチュ、五反田団やままごとなどの方法論を
再構成しており、多時空間、多次元の舞台空間を構築している。
さらにそこに近しい世代としてのポツドールやヨーロッパ企画などが
用いているメディアと対峙する日常性やゲーム性といったモチーフ
との類似性が見られる。時間と空間を飛び越えつつ、未来の設定を
どうということもない台詞から立ち上らせている点で、オリザの
時空限定の口語演劇の方法論を今的に昇華していて好印象。

本公演の本質的な様式、史的価値として
述べることが出来そうなものは、その「超時空間口語演劇」と、
おそらく「セカイ的少女」の文脈を取りいれたことだと考えられる。

より厳密に言えば、浅野いにおや西島大介、
相対性理論や東京事変、椎名林檎などに見られるような、
自分の感情と世界(時空間)とがシンクロしている世界観の中、
汚くともニヒリスティックでも少女的な主人公であろうとする、
処女性とは別の虚ろな潔癖さを巡る葛藤を表現に取り入れつつ、
それをポップに(底の無さに自覚的に)展開している形式。

おそらくそれをコアとして、多様な方法論を構築しているような
気がする。公演終了後に流れていた相対性理論や東京事変の曲は、
それを証左しているのではないかと言ったら、言い過ぎだろうが。

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