小説家 鯉実ちと紗さんによる、演劇コラムを限定公開中

2019.03.05

誰の意思で、誰のために生きるのか
西藤そう演出・脚本演劇が描く悲喜劇的な現実
                        鯉実ちと紗(小説家)

『銀輪』で脚本・演出を手掛ける西藤そう(旧名:西東そういち)の作品群は、荒唐無稽なストーリーと、ダンス・歌唱も取り入れた不気味な演出、そこにコミカルさを添える雑多なパロディが特徴的だ。観客は時として、それらの作品の“不快”な世界観に眉をひそめることもあるだろう。

『虫の女』(2011年)は、いくつものアルバイトを解雇され続ける青年が、医師に処方された一粒の種を飲み込んだことで、虫たちから“生命の源”として求められる「木」になっていくという内容だ。青年は、木になりたくてもなれなかった医師からの期待を背負い、「あなたを必要としている」と主張する虫たちの要求に押しつぶされる形で、最後には身も心も人間性を失いながら、その現状を無言で受け入れる。

『ウブメ』(2012年)では、子宮を失くした若い女が、夫や義母らから「子ども/孫が欲しい」というプレッシャーを与えられるなか、“神の子”を身ごもるひとりの女性との交流をきっかけに、性交渉のない妊娠・出産を果てしなく繰り返すようになる。世間から親へ、親から子へと「希望」が押し付けられる逆ピラミッド構造のなかで、若い女は「私の産んだ私の子どもたち」の育児に全生活を捧げていく。

人間は誰の意思で、誰のために生きるのだろう。人に必要とされたい、必要とされる生き方をしたい。でも、人のために生きる自分は、まるで自分自身ではないような疎外感がある。そもそも、どこまでが「自分のため」で、どこまでが「他者のため」なのだろうか。私は、本当に自分の意思で自分のために生きているのだろうか。自分の意思で他者に尽くす生き方のほうが、他者に強制される自分らしい生き方よりも、よほど生きがいを感じられるのではないだろうか。しかし、そもそも「自分の意思」とは何だろう。

自分のために生きようと頭ではわかっていても、なかなか感情が追い付かないことがある。逆に、他者に貢献する生き方は望ましいと理解はしていても、それに心から賛同できるかは別だということもある。そして「自分のため/他者のため」「自分の意思/他者の意思」の境界線は、決して明確にならない。そうしたアンバランスさや曖昧さが、逆説的に個人の生き方のバランスを取り、そこに現実的な輪郭を与えているのだろう。しかし、この問題が初めて顕在化するのは、本来、二者択一でないものが、トレードオフの関係になったときだ。そして、その曖昧なバランスのとり方が異なる人同士が、いつもどこかで傷つけ合っている。それこそが、人間や社会のグロテスクで悲喜劇的な「現実」なのではないだろうか。西藤脚本・演出の作品を観て、私はそう考えさせられる。

同氏の手掛ける演劇がどこか不快なのは、そのモチーフや演出のためだけではない。それらがあまりに非現実的でありながら、同時に残酷なまでに現実的だからだ。その核心に触れたとき、同氏の演劇作品はより恐ろしく、より美しいものとなるだろう。

鯉実ちと紗(こいみ・ちとさ):広島県出身。2013年から小説の執筆を行う。代表作に『単語帳と狐のしっぽ』『さようならイーハトーヴ』など。2019年より小説投稿プラットフォームにて、大学の演劇サークルを舞台にした作品『西瓜の名産地』を連載中。

全文は以下のサイトから。
https://drive.google.com/open?id=13narVJBvWYshWiKNgyAAHI8gv6O2LpgUzLHe8MYQ1VU

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