ジーザス・クライスト=スーパースター エルサレム・バージョン 公演情報 ジーザス・クライスト=スーパースター エルサレム・バージョン」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.0
1-1件 / 1件中
  • 満足度★★★

    感情表現が足りないのでは
    ジーザス・クライストとユダの苦悩、そして2人のぶつかり合いがもの足りない。



    “ロック”ミュージカルではなかったね。

    ネタバレBOX

    『ジーザス・クライスト=スーパースター』と言えば、ロック・ミュージカル。
    映画はもちろん観ている。
    好きな映画だ。

    今回の四季版は、歌詞をきちんと聞かせようとしているためか、妙にはっきりした発音で歌っている。
    そのせいか、歌にビートがなくなっている。
    したがって、ロック感がほとんど感じられない。
    バックの演奏も同じようにビートがなく、ふんわりした感じなので、余計にロック感を感じない(音も籠もっていた?)。

    ロック・ミュージカルを楽しみにしてきた者にとってはそれは残念なのだが、ま、しょうがないか。
    ロックなしのミュージカルとして楽しむことにした。

    『ジーザス・クライスト=スーパースター』は、ジーザス・クライストと、ユダの苦悩が2本の柱である。そして彼らの絡み合い、ぶつかり合いでその苦悩が表現される。

    ユダは、ジーザス・クライストに対する疑問があるからこそ、彼を裏切り、居場所を教えてしまう。
    だから、冒頭でユダがジーザス・クライストについて疑問を投げかけるシーンはとても重要だ。
    しかし、四季版では、冒頭、ユダが独り言を言っているようで、強い気持ちが感じられない。つまり、ジーザス・クライストにぶつけていないから。
    したがって、彼の裏切りが唐突に感じられてしまう。

    また、ジーザス・クライストを演じた神永東吾さんは、声とルックスはそれらしいのだが、感情が表に出てこないのが気になる。
    まるで、もう「達観」してしまっているようだ。
    だから、彼が苦悩していることが伝わってこない。

    特に「ゲッセマ」のシーンで、神に「なぜ自分は死ななくてはならないのか」と歌い上げるときに、歌はうまいのだが、感情が見えてこないので、悲痛感が伝わらないのだ。そこはこのミュージカルの肝ではないのか。大切なシーンなのに。

    十字架を背負って歩く彼に対して、ユダが現れ、「スーパースター」を歌うシーンがあるのだが、ユダはすでにこの世になく、ジーザス・クライストの中の亡霊(幻影)として現れ、ジーザス・クライストを悩ませるのだが、このときも、ユダは舞台上手の隅にいて、ジーザス・クライストとは絡まない。
    だから、幻影を見ているはずの、ジーザス・クライストの感情が見えてこない。

    最初に書いたとおり、ジーザス・クライストとユダは、大切な2本の柱であり、彼らが、悩み、それを吐露し、重なり合うところに物語が生まれるのだから、もっと2人を、演出の上でも絡ませ、感情をほとばしらせてほしかった。

    ジーザス・クライストや他のソロが歌っているときに、群衆がそれを聞いているシーンがいくつかある。
    その群衆シーンがよくない。
    何がかと言えば、歌を聞いているときに彼らは身体を揺らすのだが、多くが曲のリズムと違う動かし方をしているからだ。
    それがもぞもぞと舞台のあちこちで動いていて、リズムと合ってないから気持ちが悪い。
    敢えて全員の動きを揃えない演出なのだろうが、歌を聞いているときには、リズムを感じながら、あるいはリズムを取りながら聞いているので、違う動きが視覚に入ると違和感を感じる。

    全体は1時間45分で、とてもスピーディで、手際のいい演出だと思う。
    ダレるところなんて一瞬もない。
    そこはさすが四季だと思う。

    セットの荒野もいい。群衆シーンもいい。なにより自由劇場のサイズがいい。

    ただし、観た回は、舞台の前半はノリが悪く、後半からやっと盛り返してきた印象がある。

    ジーザス・クライストを演じた神永東吾さんとユダを演じた芝清道さんも(途中よれて残念すぎるところもあったが)後半が良かった。
    問題は「感情」と「2人のぶつかり合い」だろう。

    それさえなんとかなれば、いいミュージカルになると思う。
    できれば、もっと「ロック」して欲しいのだが。

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