トランス 公演情報 トランス」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★

    うまいんだよねぇ
    やたらと上演される「トランス」
    高校生とか大好き

    そういう意味では、陳腐になったホンを、
    といっても、才人の多田には、普通に上演された舞台なんかは
    問題にもならんだろうが、

    やっぱ、たくらんできた。

    でも、そのたくらみに、少ない稽古時間で(アフタートークより)
    こなしちゃう役者陣のすごさ。

    だめだって
    役者ができちゃうと、演出家はどんどんエスカレートするから(笑)

    利口な演出をみるのもたのしい

  • 満足度★★★★

    多田の巧妙。
    多田淳之介は本当に意地の悪い演出家だ。
    フランケンズに施した“目隠し”という枷を見て、改めて思わされた。
    そして、それがあらぬ効果を生み出すのだから、困ったものである。

    まあ、あらすじは上演前に多田によって語られてしまうのだが、
    それでもなお、見るべきものがあるというか見せつけられるというか。
    多田の読解力には舌を巻くばかりである。

    フランケンズの面々も、どこか中フラの印象を残しながら(喋り方とか)、
    多田フラならではの面白みを出しきれていたことに満足。

    演出家を入れ替える公演が、どこの団体でもあっていいと思う。
    今回の企画で、「うちも!」と思う団体があるといいなぁと思うことしきり。

    ネタバレBOX

    手法についてもう少し詳しく。
    登場人物3人のところに4人を当てることにより、離人症の表現が面白くなる。
    1人を2人で、3人を1人で、と台詞の分割・結合は留まるところを知らない。
    最後のどんでん返しに次ぐどんでん返しで誰が正常なのか判らなくなる
    場面への効果的なアプローチとなっており、圧巻の一言である。

    そして、ベタな配曲も読解力の賜物。実に馬鹿馬鹿しくて結構。
  • 満足度★★★★★

    タダフラだ!
    横浜へ足を伸ばしただけのかいがあった!
    確実にそう思わせてくれる舞台でした。
    東京デスロック多田淳之介さんとフランケンズ4名がガップリと組み合った傑作で、どちらの色も良くでた、演劇の楽しさ、魅力がギュッと詰まった75分でした。
    演劇が好きだったら、この演劇の可能性を追求した舞台は必見!(と言ってももう終わってしまってますが・・・)

    ネタバレBOX

    既に江古田公演のレビューでも記されてますが、最初多田さんが開演前の挨拶をされて、その時に「では、この『トランス』という作品のあらすじを説明します。」と始まります。
    まずここで客席から笑いが!
    で、そのまま登場人物と作品解説を続けて、「それでこの作品のオチは・・・」とオチを説明しはじめます。これには場内でまた笑い!
    「・・・で、最後は何となく良いことを言って終わる、という話です。」という前説でした。
    あらかじめ物語をオチまで説明するデスロックで良くみられる方式で、見るべきは物語ではなく、舞台そのものだ、という多田さんの意図が凝縮された前説でした。

    舞台はほぼ素舞台。小道具もセットもなく、ライティングも非常に簡素です。


    今回は東京デスロックの「ジャックとその主人」の時に取上げた「目隠し」を掘り下げて、最初から最後まで役者は目隠しです。
    入ってくるときからアイマスク着用で、手探りで入ってきます。
    アフタートークで語られていましたが、目隠しした上に更に目をつぶっているそうです。

    おそらく江古田より狭い空間のSTスポット。
    ここでの上演しか見ていないので比較できないのですが、狭い空間を目隠しした役者さんたちが4名でしっかりと埋めているところはさすがでした。
    演技は近代のアメリカ戯曲をよく取上げるフランケンズらしい、骨太のしっかりした演技で、見ていて安心感があるのだけど、そこに目隠しという不確定要素を足すことでなんとも言えない緊張感を生み出す事に成功しています。

    3名の登場人物の「トランス」を4名のフランケンズでどのように上演するのか気になっていましたが、それを解決する方法が目隠しだったそうです。
    最初は誰がどの役、というのは決まっています。
    登場人物の語りをしていきます。

    途中で二重人格の男のもう一方の人格が現れます。
    これが別の役者さんが演じられて、それで舞台上に4名の役者が登場することになります。
    「私は天皇だ」と語る彼。
    「自分は南朝の第○代天皇であり、皇居に行かなければならない。北朝の間違った血筋がいる場所ではないのです。」と語るあたりは鴻上さんの書いた戯曲ですが、かなりヤバい、天皇の血筋と系譜の問題に触れていて、今でも渡辺文樹監督の「天皇伝説」という映画でも触れられているタブーの問題でもあり、これが15年前に書かれたというあたりはかなり衝撃でもあります。
    この、天皇として登場する方は、最初しばらく隅で怯えているだけですが、アフタートークでは、あの何も語らずに怯えているシーンが実は一番疲れるそうです。(笑)

    その後3名の人間関係が複雑に入り乱れ、多田さん得意の抽象的な演出と
    フランケンズの骨太な語りが組み合わさって、緊迫した舞台が続きます。

    そして、だんだんと「誰がどの役」というのが崩れていきます。
    このあたりは戯曲のクライマックスで、実は精神を病んでいたと思っていたひとが医師で、先生と思っていたのが患者だった、というドンデン返しが繰り返されてゆくのですが、このあたりは誰がどの役になっているのか見ていてわからなくなってしまって、役によって喋り方に特徴ががあるわけでもないし、小道具を使って「これを持っているのがどの役」と言うわけでもなかったのでドンデン返しの効果がうまく伝わらなかったと思います。

    目隠しを最後に外して、まぶしそうな目線をのぞかせたところで舞台は終わります。
    見ていた側からすると、全てが夢だったような、そんな印象を受けました。


    アフタートークは中野茂樹さんと夏目慎也さんによるもので、それに多田さんがリアルタイムでダメ出しをするという企画で、楽しみにしてました。
    でも、これはちょっと不発だったかな?
    いや、夏目さんのトークという時点で既に面白かったのですが、ダメだしが生かしきれてなかった気がします。
    ダメだしというのは、「そこは違うからもう一回こんな感じでやってみて」というダメだしの仕方でした。

    「もしこの『トランス』で、鴻上さんと多田さんと、両方から同時にオファーが着たらどちらを選ぶか」という中野さんの質問に、夏目さんが「そうですねえ・・・、鴻上さんかなあ」というのに、「それは正解なんだけど、多田と答えるバージョンも見たいのでそっちでやってみて」というのは面白かったです。
  • 希望ではない演劇
    5年くらい、となり町に住んでいたことがあるのに、江古田の町は初めて。なんだか、下北沢みたいな、雑多な感じの駅前。劇場はどこ? とさがすと、なんと、八百屋さんの上に。わりと見つけにくいところに案内が。でも、ちょっと、楽しくなる。

    なんだか、演劇が、ひっそりと、生活にまぎれこんでいる感じがした。

    多田淳之介さんは、有名人。ファンも多いみたい。僕の後ろの席に陣取った、演劇人らしき人々も、「多田さん、カッコいい」という話をしていた。パフォーマンストークのゲストとして、何度も見かけたけど、演出をみるのは初めて。ここでのレビューなんかをみると、かなりアグレッシブなことをする人みたい。

    舞台は、真っ暗。雑居ビルの一室にしては結構広くて、がらーんとしているのは、セットもなにもない空間だから。

    席について、開演を待つ間、みんな、熱心に、字がびっしりの冊子を読んでいる。なんだ? と思っていると、それは、多田さん主催の東京デスロックの、次回公演のチラシ。思うところがあって、東京デスロックは、次回公演で、東京での公演を休止するとある。そして、次回公演の予備知識として、ひとつ、評論が、全文掲載されているのだ。小さい字で、びっしり。みんな、これを読んでいたのだ。

    東京公演を休止とは、残念。デスロック、観たことなかったから。そして、多田さんという人は、なんだかストイックだな、と思った。周囲を振り切って、走る、そういう才能を持った人なのだろう、とも。

    それは、今回の「トランス」を観終わった今、とても感じることだ。なんだか、ストイックで、観客を振り切って、独走。もがいて、苦しんでいるような舞台だったのだ。

    ネタバレBOX

    開演前に、多田さんが出てきて、「トランス」の物語を説明する。

    これが、身もふたもない説明。「……というシュールな設定の作品で」というところで、笑いが起こる。「……というどんでん返しがあって」「……という、さらなるどんでん返しがあって」と、どんどんネタバレして、「……となって、みんな、なんとなく、いい話をして終わる、そういう話を、いまからやりまーす(チェルフィッチュみたい)」と終わる。

    つまり、「トランス」を知らない僕のようなものへの配慮なのだろう。そして、この舞台は、物語の面白さを追求しない、ということの表明でもある。これは、形式をみせる、演出をみせる舞台。僕らは、そういう条件付けをされて、舞台の世界に向き合わされる。

    作品そのものも、誰かの、語り、という構造。「93年の作品なので、それを考慮して下さい」という、多田さんの解説があったけど、それにしては、今風だ。

    役者は、パジャマに、目隠し。手探りで、よろよろと、歩く。台詞は、抑揚のない、機械的なもの。客席と、舞台との温度差が、じっくりと準備されて、観客は、最後まで、観察者として、舞台の、作品の、批評をさせられる感じ。重苦しい雰囲気に、客席はよどむ。

    中盤あたりから、4人の役者たちは、3人の登場人物を、入れ替わり始める。この入れ替わりは、結構唐突で、しかも、二人の会話を一人で、棒読みでやったりするので、区別がつきにくい。あえて、そうしているような感じ。とことん、わかりにくい。僕は、あらかじめ教えられたあらすじをたよりに、力なく、見つめるのみだ。

    多重人格者の治療のはずが、実は、医者が患者で、患者が医者だった、というのが、説明されたどんでん返し。そして、さらに、もう一人が、実は医者だった、と告白する、さらなるどんでん返しも。

    これが、不気味に、演じられる。誰かが、「実は私が医者です」というようなことをいうと、もう一人が、「でも、それは妄想です。実は私が医者です」。するとさらにもう一人が、「でも、それは妄想です。実は……」。終わることのない、妄想のスパイラル。みんな、必死に、でも抑揚なく、目隠しで、声をからして、叫ぶ。異様。

    そして、「いい話」。「でも、あなたが私を必要としていることは、真実です」とか、そういうもの。とても空っぽなものとして、見せられる。役者の声をかき消すような、大音量の音楽(空虚なJポップの不気味な寄せ集め)が止まって、暗転の後、明るくなって、目隠しをとって、幕。

    なんだったのか。やっと終わった、という安堵の思いがあった。解放されたような感覚。脱力感。無力感。

    最新の流行の形式が、93年に流行した演劇の形を借りて、痛烈に批判されている、そんなふうに感じた。そして、それだけではなくて、なんだか、演劇そのものに対する、無力感みたいなものを、感じた。目隠しされて、真実がなにかわからないまま、必要としてくれるものだけを信じてすすむ、役者たちが、演劇そのものみたいに(今、後付けだけど)、映る。

    僕は、もともと、小説とか、詩とかが好きだった。でも、なんだか、あちらの世界は、今、どうしようもない閉塞感に苦しんでいる。そして、演劇の世界から来た人たち(前田司郎とか本谷有希子とか岡田利規とか)が、そんな世界の希望として映った。演劇の世界には、まだまだ可能性があると、盲目的に、信じていた。

    でも、ずっと演劇の世界にいる人たちから見れば、そんな演劇の世界にも、ある種の絶望を感じることもあるかもしれない。

    今、演劇界は、なんだか、お祭りのような感じ。演劇そのものの可能性を疑う人は、少数派だろう(自分の可能性を疑う人は多いけど)。そんな中、多田さんのストイックな、演劇そのものに対する無力感は、熱にうかされた演劇への、鋭い批評として、重要かも。周囲の狂騒を振り切って、ずっと先のほうをみているみたいだ。

    その分、多田さんによって、観客としての僕らには、結構多くのものが求められている、あるいは、(あきらめて)求められないでいるのかもしれない。

    今回は、かなり、きびしく、苦しく、つらい、観劇だった。気休めの希望は、与えられない。うすっぺらなJポップにも負けてしまうような、演劇というものは、そもそも何なのか。そんなことを、知らないうちに、考えさせられる、舞台だった。

    <追記>
    他の方々のレビューを読ませていただき、血の気が引いた。なるほど、最後に役者たちが目隠しを取って、目をしばたたいているところに、希望のかけらをみることもできたのか、と。

    僕は、舞台よりも、自分ばかりをみてしまっていて、舞台にこめられているものよりも、自分が先に(目の前の舞台を観る苦しさから)解放されてしまい、それで、安心してしまっていたのかも。

    まだまだ、正面から、舞台と向き合うことが、できていない証拠。目が覚める思いがした。それだけ、この舞台が、真摯な姿勢で作られているということだと、思った。

    (満足度の評価は、留保させていただきました。)
  • 満足度★★★★

    気楽に多田演出を楽しむw
    かつて、鴻上尚史・第三舞台派か、野田秀樹・夢の遊眠社派かということが問われた時代があり、それはある意味で演出派か戯曲派かの争いでもあったと思うのだけど、まあ、自分は後者で、しかも完敗で、それはふたりがおなじく英国留学した直後に作ったKOKAMI@networkとNODA MAPのその後の知名度の差に明白に現れていて、そんな鴻上尚史の『トランス』が、現代の演出派急先鋒的存在の多田淳之介演出によって甦ったことだけで劇中、けっこうそうそうに落涙。
    もちろん、戯曲も押し付けがましいぐらい、いい話だからということもあったけど(笑)。また、多田演出を我慢とか覚悟とか勝負とかを強いられずに気楽に楽しく観られたのも嬉しい。軟弱者、それでもあなたは多田ファンですか、物足りないという声もあるだろうけど、そういう人は年末の東京デスロック本公演に期待すればいいのであって、タダフラはこれでいいのだ、って感じ?

    ネタバレBOX

    前説で『トランス』のストーリーをすべて説明してしまった後、冒頭で、舞台中央に目隠しをした女優が立っていたときには、ふたたび『Castaya』で、しかも『ジャックとその主人』付きか! と、じつは少しビビッたのだけど、今回はけっして戯曲の物語性を剥奪して身体性だけを強調するスタイルではなく、結末を明示することで物語の求心力を高めるシェークスピアみたいな作品になっていた気が。

    そしてなにより、目隠しという手法が前公演からの単なる継続ということではなく、『トランス』という作品理解をより深めるために機能していたことが素晴らしい。とくに最後、目隠しを外すのだけど(ここまでは誰でも予測できると思うけど、その効果は予想以上!)、そのときに強い照明を当てることだけで、眩しさに目をまともに明けられない役者たちが、孤独と不安感に溢れた生まれたての赤子のようにみえ、母の乳を必死に求めるように、互いを視線で探し合い、みつめあっていた姿が強く印象に残る(ただ、役者の目を痛めないかと少し心配にもなるのだけど)。

    一方、不満点をあげるとするなら、やはり十数年前の作品という中途半端な年月ゆえの古臭さを完全には拭えていなかったこと。しかも、句読点抜き平板棒読みスタイルのなかに、ときおり挟まれる第三舞台的な台詞廻しがやけに魅力的に感じ(馴染んでいることもあるだろうけど)、じつは戯曲を最大限に生かす演出ではなかったのではないか、なんて疑問も。演出力で時代差を埋めるよりも、古典劇とおなじように、徹底的に現代口語に研き直す作業のほうがこの作品の場合には最適な方法だったんじゃないかなあ、とは思いつつ、これがわずか2週間で作られたことは知っているので、そこまで贅沢はいえないか。
  • お腹いっぱい大満足。
    個人的には今年観た多田さんの演出作品で最も面白かった。以前の手法が踏襲されて、「なんだこれ!?」よりは「そうきたか!?」な心境。そもそもの「トランス」を未見でも楽しめるはず。
    今後のフランケンズにも期待。

    ネタバレBOX

    「倦怠期」の目隠しがベース。表情が見えない分、観る側は余計に読み取る。耳に入る鴻上さんの文体はイメージを沸かせ易い。脚本と演出と役者が「+」ではなく「×」になる、理想的な形式でした。

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