地獄谷温泉 無明ノ宿 公演情報 地獄谷温泉 無明ノ宿」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.8
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★★★

    美術、照明、音響と圧倒的なレベルの高さ。
    しかし肝心のストーリーはそうでもないという印象だった。
    時間が経つにつれどうも気になり、無明、三助、ホムンクルスと次々に調べていしまった。
    そして自分の無知を認め、その話の面白さに気が付いた。
    後からあのシーンはこういう比喩なのかと考えたり思い出したりできる作品。
    こういうことが本当の面白さなのかもしれない。
    誰かと作品について語りたくなる。
    きっと受け取り方も三者三様のような気がする。
    初めて星を5つ付ける作品。

  • 満足度★★★★

    地獄谷温泉 無明の宿
    グッズ付きのお得な公演前半を鑑賞。淡々と積み上がる物語を覗き見。諦めたつもりでも、まだ夢や欲に執着する人々の本性がじわじわと。人形遣いの親子の会話から、果たして私自身は人間なのか?と問うことに。凝った装置に耽溺する幸せ。最後切ない。

    ネタバレBOX

    温泉宿、湯治、銭湯の使用人(三助)、温泉芸者…。消えてなくなっていくものたち。
  • 満足度★★★★★

    つげ義春
    もの凄い舞台を観た。固唾を飲んでみた。目を凝らして見た。
    温泉宿。時代設定はあったようだが、昭和の半ばあたりか、ちょっと古い設定だとは後の方で気づいた。緻密に作られた装置は回転式で90度の壁で区切られた4つのエリアそれぞれが趣き深い。誰もいない玄関ロビーに人形遣いの父子がやって来る。暗転の後、案内された部屋に変わっており、度肝を抜く。岩風呂の場面では人が普通に裸で入ってくる。脱衣場もあってそこで「脱ぐ」所作もあるから役者は大変だろう。だが普段私たちも銭湯や温泉では他人に裸を見せている、その感覚が、この舞台での光景を奇異と思わせない。
     人形遣い役をやったマメ山田の、異形に見合う舞台。息子が唐組の辻孝彦。今回初めて見た勝手な印象だが身体で覚えるタイプで、愚直に俳優を続けてきての「今」という雰囲気を醸し、作品での「学校にも行かず人形師の父に付いていた」息子という役柄に符合するものがあった(あくまで勝手な想像)。小人症の父の異形と、「空っぽ」の息子が、他の登場人物に初見でのインパクトを与える。
     芸妓役の久保亜津子と日高ボブ美の三味線は相当練習したのだろう、勢いのある曲をちゃんと盛り上げて終わらせた。三助がいる。父は「おう」と驚き、背中を流してもらう。その感じ。相部屋となった盲人の松尾、二階に住む老婆も、皆(三助以外)風呂に入るので、裸をさらす。かくして夜には妖しい気配が漂ってくる。声の出演田村律子は老婆の呟きで、折々に入る語りが良い。
     鄙びた温泉のあるこの地には来年新幹線が通るという。立ち退きも間近い(らしい)温泉には、まだ喧噪のけの字もなく、追われ行く身のうらぶれた雰囲気が勝っているが、それでも生活があり、自分の生きる土地である。若いいく(日高)が三助との性交で子が授かる事が、この界隈の者にも望みとしてあるらしい。多くは説明されないが、三助とは婚姻関係にはなく、ただ子種を求めているようだ。つげ義春が漫画に描いた、鄙びた土地で暮らす人たちの原初的な生態に近い感じが全体に漂う。狂気を宿す夜は『ゲンセンカン主人』だったかの雰囲気に近い。
     その日、酔った芸妓二人が勢いで父子の部屋に入り、人形遣いを見せてほしいせがむ。その声を二階で聴く老婆の中にやにわに嫉妬心が燃え上がる。三味線を手にした小さい時分、しかし自分は芸妓になる器量でないと、三味線を置いた。部屋へ押し入るが、結局そこで異形の父子の異形の人形遣いを観る。息子は胡弓を鳴らし、父は大きな首と手を持つ自分のサイズに近い人形とじゃれ戯れる。 これに一同はそれぞれに強い衝撃を受ける。ざわついた夜となる。いくは皆が寝静まったと思い三助の元へ行く。よがり声が響く。松尾は「触りたい衝動」を二人に喚起され、懊悩して浴場に走り込む。女二人は玄関ロビーに出て煙草を吸う。空っぽで深淵でつかみ所のない「息子」は、ゆっくりと回転する舞台の各部屋を、煙草を吸いながら扉を開けて巡り、眺めるともなしに眺める、という場面が終盤にある。二周目、ロビーでは文枝が老婆の胸に顔をうずめて泣いている。松尾は湯船の脇でお経を唱えている。お湯の流れる温泉場の湿った音が鳴り続け、客席には無機質な椅子が並んでいるのに、すぐそこにグロテスクにリアルな、昭和の鄙びた温泉宿と、湯煙に浮かんで彷徨う魂が、見えた。
    「つげ的世界」が、舞台として出現したと感じた。蠱惑的で、離れがたいアトモスフィアは、舞台装置と役者の存在感による。こいつは心の何かに引っかかってくるが、その正体はつかみ所がない。

  • 満足度★★★★★

    明るい怪談 浸る舞台の 面白さ
    北陸の山奥の思わせるすっかりひなびた温泉。観光客も訪れない温泉宿に、「人形芝居」を生業とする父子が訪れる。父倉田百(もも)福(ふく)は82歳、息子の一郎(辻孝彦)もそれなりの年齢のようだ。トランク一つの身軽な二人は、この宿の主人から余興の依頼を受けてやってきたのだった。しかしこの名もなき宿にははるか昔から主はおらず、村の数人が湯治宿として利用しているだけだ。タキ子という常連客らしき老婆(石川佳代)に一泊していくように勧められる二人。帰る手段がないので仕方なくその通りにする。ところがタキ子が泊まる部屋以外の部屋は病気で失明した若者、マツオ(森準人)との相部屋だった。やがてタキ子の部屋には芸姑のフミエ(久保亜津子)とイク(日高ボブ美)が三味線の練習の稽古にやってくる。唯一この宿の管理をしているものと言えば、無口の三助(飯田一朗)だけだが、誰一人として倉田父子に余興を依頼した手紙の主が思い当たらない。執拗に親子に話しかけ続けるマツオ。無言のまま客たちに奉仕する三助。離れた街へ余興に出かけていた芸子の二人が酔って帰宅すると、酔いに任せて倉田父子に「人形芝居」の実演をねだる。百福の異形と、一郎の虚無のような目に震撼していたタキ子も現れると、父子は人形芝居のさわりを演じ始める。その芝居を目の当たりにした一同は、それぞれに強い衝撃を受ける。ある者は感動し、あるものは恐怖し、ある者は欲情し、ある者は…。

    ネタバレBOX

    名もない宿で名もない人々が過ごしたなんでもない一晩を、静かに、しかしどことなく背筋に冷たいものを感じさせながら描いた舞台だった。人々が文字通り裸の付き合いをしながら生きている田舎の、怠惰で終末観すら漂う停滞した空気。その反面、常に首元に剃刀の刃を突き付けられているような、緊張感。それはあきらかにこの異形の父子の到来に端を発しているのだが、冒頭ではあくまでユーモラスに、むしろ観客はこの異形の父子に感情移入しながら、ぽつりぽつりと現れる、身体的というよりどこか心に欠損を抱えているように見える人々に対して警戒する。マツオは見えていた瞳が見えなくなったこと、三助は言葉を話さないことという特徴が与えられている。しかし決して盲と唖は安易な対になっているわけではない。マツオの触覚への欲求は、次第に視覚の補完を越えて、性的欲望にも似たものへと変化する。それを残酷にも煽るのが百福と一郎の親子であり、彼を凌辱することで、父子はある種の支配欲を満たす。一方三助の無言は、義務的な労働と、本人の意志による献身的な行為に忙殺された結果ととらえることが出来まいか。実際演じた飯田は「動作が多くてしゃべる暇がない」「しゃべっていないことに違和感を覚えない」と述べている(デジタルパンフレットより)。言葉を持たない彼が人一倍性欲に振り回されるのは、その動物的な性質に起因するともいえる。
    それに対して女性三人は親子孫の三世代にわたって自分の子供を持たないことへの後悔や不安、コンプレックスといったものが現在過去未来の三様に描かれているように見える。細かく特徴を見れば、タキ子の芸姑の夢への挫折が物語後半の女性陣の「回復」に強く影響を及ぼすのだが、全体としてはマツオ、三助に対してはやや曖昧で画一的な印象を受ける。タニノクロウはインタビュー(デジタルパンフレット)で、「今回は女性を丁寧に描いた」と言っていたが、もう少し明確に三人の、異なる心の闇が描かれていてもよいのではないか。特に年齢的に中間にあたるフミエの個性がやや埋没している印象を受けた。
     倉田父子の存在感が絶大だ。マメ山田は実年齢のひと回り上を演じているが、その年齢はおろか性別すらも観る者の判断力を失わせる妖艶さは恐ろしい。その繊細で柔らかな動作が時にユーモラスでもあり、セクシーでもあり、またグロテスクでもある。仙人のような長髪を束ねるしぐさを、部屋で、脱衣場で、露天風呂と三か所でする度に、それぞれ別の人物が目撃して、全く異なった感情を抱く。三助は柔和な動きと髪をかき上げるその背中を見つめて勃起してしまうのだ。タニノクロウは俳優にも観客にも本当にサディスティックな演出家である。ひとつの事象を多面的にとらえること。演劇にとってそれは極めて重要なことだ。しかしそれはしばしば図式的で説明的な空間づくりに陥りやすい。この作品では、それを見事に視覚化しつつも、そのまま観客に見せることに成功している。それが今回の舞台の特徴でもある、巨大な回り舞台として作りこまれた舞台装置である。宿の玄関、居室(二階家・上がタキ子の部屋、下が倉田・マツオの部屋)、脱衣場、岩風呂の4杯飾りはやはり圧巻だ。近年これほど作りこまれた舞台美術をスタジオ公演で観ることはない。舞台美術に感動することが出来るのも演劇の魅力である。本水を使用した岩風呂の意匠には多くの観客がどよめいていた。裸の俳優たちが次々と風呂に入ってくる。舞台の上の「ウソ」に手加減が見られないからこそ、演じる価値がある(美術=稲田美智子)。
     この芝居の中心はやはり倉田一郎である。タキ子が出会った瞬間から本当に戦慄したのは小人症の父ではなく、「普通」の男であるはずの一郎の瞳の奥の闇だった。異形の父を持ち、学校にも行けずに胡弓を弾きながら厳しい父の人形芝居の伴奏を続けてきた。しかし彼の心の闇の、さらにその奥でブラックホールのように渦を巻いているものは、その人形芝居の人形に対するコンプレックスではなかったか。父の身の丈ほどもある人形は、顔と手が以上に大きい、グロテスクな赤ん坊だ。フミエはあれも百福の子供なんだと気付くと、怖くなって目を逸らし、イクは食い入るように見続け、その興奮は三助とのセックスへと彼女を駆り立てた。異形の人形を息子になぞらえて戯れる父を、胡弓を弾きながらじっと見つめてきた一郎。心の闇は異常なほど奥の深い寛容を作り出す。無関心ではないが、すべてに関して無感動に見える彼の心の深淵は常人のものではない。ほとんど心の動きを見せないが、無感情ではない人間、一郎を演じた辻は相当な苦労をしたに違いない。好演だった(あえて怪演とはいうまい)。
     常に聞こえる虫の音や沸き続ける温泉の水音など、この舞台を支える音は極めて繊細だった(音響=さとうこうじ)。ひたひたと声の湿り気を感じさせる抑えたエコーが世界観を決定づけるほど効果的だったのは語り部の老婆によるナレーションである(田村律子)。前半はメタシアターの効果を、後半には芽生えた恐怖心によって舞台から抜け出ようとする観客の意識を無理やり引き戻すような、いわば桶につけた顔を上げさせないような腕の役割を果たしている。
    文明から取り残されたような過疎の村が、タニノの執筆の契機になった新幹線の開通によって、迷い込む機会すら奪われてしまった日本全国の「忘れられた場所」が描かれている。開発が押し寄せるはずだったが、結局取り壊されることもなく、そのまま存在している、という「何も起こらない」チェーホフ的な明るい残酷さが最後まで尾を引く。唯一惜しむらくは公演期間の短さ。また、夏に観たい芝居である。
  • 満足度★★★★★

    際立っていた
    この劇団を見るのは2回目。
    高尚というのではないだろうが、ち密に計算されている。知らず知らずのうちに作品にの飲み込まれたようでである。見事であった。

  • 満足度★★★★★

    お得でした
    あの森下スタジオの中に大がかりな舞台が!観た人にしかわからないこの悶々とする気持ち、どうしてくれよう(笑) 自分も一緒に温泉に入っている気分でした。

このページのQRコードです。

拡大