『TABU タブー ~シーラッハ「禁忌」より~』 公演情報 『TABU タブー ~シーラッハ「禁忌」より~』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.2
1-4件 / 4件中
  • 満足度★★★

    終盤の展開がなかなか。
    装置の壁が、映像を投影したり、前後左右に動いたり、2階部分が開いたり、使い方に感心も。橋爪さんもお疲れ様です。

  • 満足度★★★★

    さすが橋爪功さん
    さすが橋爪功さんの自然な演技に、こちらも自然と引き込まれます。
    (2時間ドラマのようでもあり…)
    物語の形式は、ミステリー法廷劇であり、しかしテーマはもっと奥深い。
    謎解きのヒントとなる「アイテム」が、次々に現れる。
    そして真相が明かされる時、それまでのパズルのピースがカチッと
    ハマる快感が得られるはずなのですが、今一つ分かりにくかった。

  • 満足度★★★

    罪と真実とは
    ミステリー仕立てで、問い掛けた(はず)。
    この作品は、フェルディナント・フォン・シーラッハの最新長編作の初舞台化らしい。
    彼の作品は、読んだことないけど。

    ネタバレBOX

    気鋭の写真家(真田佑馬さん)が、女性を連れ去り殺害したのではないかと疑われ逮捕されてしまう。
    彼は取り調べで自供してしまうのだが、その自供は不当な強要によるものであることがわかってしまう。さらに、連れ去られたのが誰かがわからず、死体も見つからない。
    青年の指名により弁護を引き受けるのが、橋爪功さん演じる弁護士であった。
    彼は事件の真相を語ろうとはせず、弁護士に指示を出すのみ。
    事件の謎を探っていく、ミステリー仕立ての作品。

    橋爪功さんが、狂言回しの役割も務め、軽やかに弁護士を演じているので、物語の進行はとてもスムーズである。
    なんとなく、テレビの2時間ミステリーモノを観ているような感覚さえある。

    「彼は本当に犯人なのか」「弁護士は真実をどう暴いていくのか」にストーリーの焦点があるものと思っていたら、ラストでそうでないことが明らかになる。

    弁護士が青年と交わすやり取りの、冒頭のシーンがラストに繰り返される。
    ある画家の話だ。その画家は90歳をすぎての死ぬ間際に、やっとわかったと語る。彼が描いていたのは自画像だ。

    それがこの作品の核となる。

    法律によって裁かれる「罪」とは何か。そしてそれは「真実なのか」ということに対して、この青年は、まるで自画像を描くように、妹の手助けを借り、「女性の誘拐・殺害事件」という、自分の生活や人生までも塗り込めた作品を仕上げた。
    その作品には、裁判が必要であり、被告人となった自分を弁護する弁護士が必要不可欠である。
    そこで、「真実と現実」を意識している、弁護士をこの作品に加えることで、作品を完成させようとする。
    いわば、時間と空間を使ったインスタレーションのようなもので、自分と妹による準備、逮捕、弁護、裁判を経ることで作品が完成する。

    法廷は、無実の者へ「罪」が被せられたり、あるいは犯罪を犯した者が「無罪」になったりという「罪」を生み出すこともある。不法な取り調べもさることながら、法律に則った弁護でも、法律を使うことでそれは行われる。
    つまり、彼の作品のテーマは、「法律で裁く」ということへの「タブー」を炙り出すことではなかったか。
    舞台の弁護士も、何も語らない青年の弁護をするのだから、真実でるあるかどうかは問わないのだ。

    日本語訳の「禁忌」には、道徳的な意味合いがある。
    つまり、触れてはならない「タブー」というよりは、もっと内面的な「タブー」について触れている作品ではないか。
    シーラッハも弁護士らしい。

    被告人となった写真家の青年は、彼の作品(つまり、事件とその顛末のこと)を通して、そのテーマを描こうとしたのだろう。
    一番それが響くのが彼を弁護した弁護士であるはずだ。

    弁護士は、青年の指示通りに動き、真相に迫っていくのだが、それは自分自身の精神を追い詰めていくことになるはずではないのか。
    舞台の上では、ミステリーのごとく進行しながら、そうしたラストへつながっていくわけなのであるが、芸術(写真)家である青年の深みが見えてこないので、有名人が人騒がせなことをした人にしか見えてこない。

    彼の審美的な感覚が、この作品(事件)を作らせたのだと思いたい。そして、追い詰められていくはずの弁護士の姿がそれに重なっていくはずなのだ。
    例えば、「裸のマハ」のエピソードなど、いろいろ散りばめられたエレメントは、たぶん彼が企てた創作の伏線になっているはずなのだが、残念ながらそこが見えてこない。

    開演前の舞台で行われていたことで、ストーリーの全貌を語っていた。
    そこには、まるでテレビか何かのスタジオのような動きがあった。
    蛍光灯の設定や、衣装が吊されたハンガーが左右に動き、舞台上にはテレビのカラーバーなどが投影されていた。
    まるでこれから始まる舞台が、「つくりもの」であるかのような印象を与えるのだ。

    確かに、舞台の上がそうした「虚構である」という大カッコにくくられていることで、舞台で語られる事件についてはわかるのかもしれないが、「虚構」ではなく、芸術家の彼にとっては切実とも言える作品ではなかったのか。「虚構」「真実」「現実」という狭間がポイントであるだけに、この演出は、余計なことだったと思う。

    舞台では、映像が多様化されることでストーリーへの理解が高まり、スピーディな展開を可能としていた。
    ただ、やや多すぎる感はある。

    気になったのは、「文字が色で見える」ような特殊な感覚を持った青年の設定は特に活かされるわけでもないところだ。そういう感覚が彼の行動にどのように影響したのかが、原作ではどう描かれているのかは知らないが、演劇という限られた枠の中で語られるならば、彼の性格や行動への影響を匂わせてほしかったと思う。

    また、彼の作品である「裁判まで」が完結した後に、冒頭のシーンが繰り返され、「罪とは」の問い掛けに対して弁護士はきちんとした答えが出せないのだが、出せないということが非常に大切なことではないのか。
    そこをどう描くかが、この作品のキーではなかったと思うのだが、その扱いが軽く感じられた。

    橋爪功さん、大空祐飛さんはさすがだった。

    会場に行く前に、上演時間等の確認で、オフィシャルサイトを確認したら、「真田佑馬さんへのプレゼントは受け付けません」というようなアナウンスがあった。
    どうやら彼は、ジャニーズの人らしい。
    会場は、若かったり、それなりだったりの女性が多く、終演後も出待ちの人数も多かった。
    彼もよくやっていたとは思うが、とらえどころがない青年が、後半に行くに従って、観客の前で変貌していく姿までを見せてくれれば、この作品がもっと心に響くものがあったのではないかと思う。
    そこが非常に残念だ。もちろん、そこには演出の問題でもあろう。
  • 満足度★★★

    何が禁忌なのか
    約2時間。弁護士役の橋爪功さんの軽妙な話術に導かれ、推理サスペンス、法廷劇として楽しんで観劇。複数役を演じる俳優の作り込みも良い。でも結末に辿り着いた時、自分は何も受け取れなかった…と思った。面白いと思って観るだけの話(小説)じゃなかった。貴族で弁護士で小説家でもある、原作のシーラッハさんのトークも拝聴。

    ネタバレBOX

    ゼバスチャンの父の自殺、資料館の十字架などの意味がわからないままだった。シーラッハさんご自身が主人公のようにアルファベットや感情に色がついて見える方だそうで、「TABU」はつまり私小説なのだと考えると、もっと深いところにテーマがあったんじゃないかと。

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