リアルリアリティ 公演情報 リアルリアリティ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
1-4件 / 4件中
  • 満足度★★★★

    Nibroll『リアルリアリティ』
    ニブロール「リアルリアリティ」、訳が分からないけど腑に落ちる、という感じ。妙に神々しいオブジェ、記憶の波紋を思わせる映像、映像を映えさせる美術、緊張感ある空間をさざめかせる音楽。それらと、調律された人体との美しい調和。街中には、全く周囲と繋がらない人体が多過ぎる…

  • 満足度★★★★

    楽がいい
    大量に生産され消費し余ったら捨てる。いつまでも繰り返されるこのシステム。その中にいるわたし。音と黒い雨に恐怖を覚えた。近くで観たかった・・・

  • 満足度★★★★

    生きる実感
    この世に占める割合からいえば、死が大多数で、生が少数であることは間違いなく、そこに正義も悪もない。ただただたその場所においては、無意味な衝動、生活サイクルが大半を占めるという、非合理的な現実があり、技術進化による合理性とは真逆。虚しい。

  • 満足度★★★★

    私たちは、「何かの分岐点」にいるのかもしれない
    脱ぐことで進化できるのか
    目を閉じ、耳を塞いだままで

    ネタバレBOX

    Der Planというドイツのバンドがある。
    彼らが80年代に東京で行ったライブがある。

    バンドなのに、音楽はテープを流し、バンドのメンバーはひたすら着ている物を脱ぎながら踊るというものだった。それは、無生物の石(の着ぐるみ)から始まって、サボテンのような植物になり、は虫類にになって、それが人間のような姿となって、さらに機械になっていく(すべて重ね着された衣装を脱いでいくことで現れていく姿)というパフォーマンスでもあった。

    その後、そのときの曲がアルバムになった。
    タイトルは『Japlan』。
    日本語タイトルは『進化論』。

    彼らの、そのときのパフォーマンスは「ストリップ進化論」などと言われた。

    着ている物を脱ぎ捨てて進化していくのだ。
    進化することを、「付けていく」「重ねていく」のではなく「脱いでいく」「捨てていく」というところが新しいと思った。

    前置きが長くなったが、Nibroll『リアルリアリティ』を観ながら思い出したのが、Der Planの「ストリップ進化論」であった。

    今回の舞台では、中盤からダンサーたちが着ている物を脱いでいく。

    その前にたくさん着ている彼らに、「文字化け」の文字が投影されたりする。
    歪んでいく風景なども。
    その姿と、舞台の後方にそびえ立つ、机などが積み重なった、まるで文明や文化の象徴のような舞台セット。

    そこから「進化」という言葉が、頭に浮かんだのだ。

    舞台の後ろにそびえ立つ、机などが積み重なったセットからは、ひたすら書籍やイス、照明に至るまでのあらゆるモノが下へ投げ落とされる。
    その「音」が、嫌になるほど耳障りなのだ。
    あえて「音」が響くようにしてあり、舞台の上をその音が覆う。

    さらに「黒い布」を舞台の上に投げ入れる。

    舞台の上が人々の生活圏であるとすれば、舞台の後ろのバベルの塔は、社会であり、システムあるいは体制のようなものではないか。「上へ上へ」と積み重なっている。

    「生み出され(生産され)」「消費」し、「廃棄」される。
    その一方方向のシステムがある。
    「リサイクル・リユース・リデュース」なんてものは「ない」。
    それが現実だ。

    その結果、生活圏には「黒き禍々しきモノ」が降り注ぐことになった。
    それは、肉体だけでなく、精神を犯すものではないか。
    公害のようなものから、社会システムに乗れない者がはじき出される害も含む。

    ここから、私たちはどう逃れ、進化していくのだろうか。

    舞台の上にあるのは、古めかしい衣装をまとったダンサーと若々しい姿のダンサー2人。それには、若者と老人、あるいは新しいモノ(体制)と旧来のモノ(体制)の接触とかかわり合いを感じた。

    若者たちは率先して、着ている物を脱いでいく。
    そして身軽になろうとする。
    老人も脱ぎ捨てていくのだが、結局は、システムや体制から落とされた、黒くて禍々しいモノに埋もれていく。

    若者たちが、「黒いモノ」を「古い者」の上に重ねていくのが象徴的だ。
    「古き悪しきモノ」は、「古い者(体制)」に戻せ、と言わんばかりに。

    これが現実なのだろうか。
    「進化」することとは、「脱ぐ」ことなのだろうか。
    体制やシステムが生んだ「黒いモノ」は、こうやって捨て去るのが正しいことなのだろうか。

    最初のシーンに戻って考えてみる。

    冒頭の映像シーンは、吐き気を催すほど、ショッキングだった。
    首を吊った人々が、「本当のことは何もわからない」「知らない」という、否定的な台詞を言いながら、ブラリとぶら下がり、ぐったりする。
    そして、リアルにゆらゆら揺れたりする。

    しかし、もっと気持ちの悪いことに、その首つりの姿を多く見ることで、それに慣れてしまう私がいる。
    「そんなものか」と思ってしまうのだ。

    「人身事故」で列車が止まらない日はない。
    それは「なぜなのか」と思い詰め、自分を問い詰めてしまうことは危険すぎる。それは危険である、と思うほどのところにまで来ているとも言える。
    人身事故のアナウンスを聞き、「列車が遅れるのか」ということで思考を止めてしまっている人が大半ではないだろうか。

    舞台の映像では、首を吊ってぶら下がる人々は、「本当のことは何もわからない」「知らない」という、否定的な言葉を吐いて、首を吊る。
    この「言葉」は、首を吊っている人ではなく、「見ている」側の言葉ではないのか。

    「人の死」にも無関心になっている、いや「無関心にならざるを得なくなっている」私たちは、目を塞ぎ、それでも彼らに、一定の言葉を与えて心の平和を見出している。「何もわからない」と。

    しかし、彼らはいつまでも私たちの眼前にぶら下がり、揺れている。

    「生産されたモノ」は、「消費」され、「廃棄」されていく。
    そのとき「とても嫌な」「耳障りな“音”」を立てる。
    システムが生む、「黒い部分」が「音」を立てているのだ。

    ぶら下がる人々に「目を閉じ」、そのの「声」に「耳を塞ぎ」、彼らには「自分」たちが「安心」する「言葉」を与え、「生産から廃棄」までのシステムが放つ「騒音」にも「耳を塞ぎ」、「黒き禍々しきモノ」をひたすら後処理するだけなのが、「現在」の私たち。

    「黒いモノ」は、「古い者」に被せて「処理」する。
    それも、ぶら下がる人たちに、一定の言葉を与えて心の平和を見出しているのと同じだ。

    「システムが悪い」「体制が悪い」と言うこともできる。
    「それを作った古い者たち」が「悪い」からだ、とも言うこともできる。

    「脱ぐこと」を覚えた「新しき世代」が出てきたとしても、やっぱり、目の前には「人々がぶら下がり」、そして「生産システムは黒いモノを吐き出す騒音」を立てている。
    「無関心」と紙一重のところに、まだいる。

    それへは、「対処療法」的な対応しかできていない。
    つまり、対処法はまだ見つからない。

    私たちは、今、「何かの分岐点」にいるのかもしれないという「予感」がある。
    しかし、現実には、まだまだ越えなくてはならない、いくつかの「高い障壁」があるのだ、ということを感じた。
    そして、それには、まずは「脱いでみる」(それはストレートに「(己の)身体(肉体)に戻る」ということと同義語なのか)というところから始めた(始めよう)という、ことなのかもしれない、と舞台を観て思ったのだ。


    小山衣美さんと鶴見未穂子さんの2人がとてもシャープで良かった。

このページのQRコードです。

拡大