満足度★★★★
名作『赤毛のアン』を観た。
浅利慶太は,若いときから「演劇の問題など何もない!」「当たるか,当たらぬかだけだ!」と豪語していた。劇団四季のミュージカルは,ブロードウェイで大ヒットしたものをリメイクして,NYまでいけない人の欲求を満たしている。今も,東宝は東宝で,ミスサイゴンをやっている。こちらもすごい。
ミスサイゴンは,オペラの蝶々夫人とどこか似ている。アメリカ人が,兵役でアジアに来て,恋仲になるが,本気にはならず捨てる。そして,母国アメリカに戻って,正妻を得るが,このことにヒロインはショックを受ける。アジアの人間は,なんかバカにされているという感じもしないでない。(でも観たい!)
浅利慶太は,「僕らの生は無目的だ!」「人間にあらゆる先験的な価値などない!」などと言う。かっこいい!スタニラフスキー・システムを目の敵にするが,これは,少しずれたものだったと言われる。浅利慶太は,劇団四季のストレートプレイの劇場を,「自由劇場」と名付ける。
浅利慶太は,哲学者で,サルトルの実存主義とか,カミュの不条理哲学にくわしい。パンフレットを作ると,父浅利鶴雄の『築地小劇場』と似ていた。彼は,自分のまわりに知的コミュニティを形成することを得意とした。1933年に生まれた浅利は,1954年に姉の自殺を経験している。
劇団四季は,1953年に慶応の仲間でたちあげた。メンバーには,日下武史もいる。当時の,気分としては,演劇活動が,過去の反ナチ,反軍国主義ばかりじゃ,それは,逃避と同じじゃないか!ということだった。
劇団四季の歴史的大ヒットは,『キャッツ』だ。左翼活動とは,距離をおくようになる浅利慶太であるが,国家権力,それと歩調をあわせる連中を嫌う。心の中で,政治的には革新をひめてもいる。
1960年前半までは,日本のミュージカルは,東宝一極だった。そして,そこは,スター中心であった。当時の劇団四季にいて,今は,東宝に移ったのは,鹿賀丈史・市村正親である。東宝は,その後,『レ・ミゼラブル』『屋根の上のヴァイオリン弾き』がある。 商業主義であるから,劇団四季やら,宝塚を嫌う意見もあるが,芸術に値する俳優養成やら,研修がほかにあったか,というと何も言えない。
今日の,日本演劇界は,哲学がない。演劇表現の確立に失敗している。知的コミュニティもあいまい,演劇人を職業的に自立させることにも挫折している。となると,市場原理では断念して,公的助成はないものか,ということになる。
浅利慶太は,助成金無用でやっていこうとした。そこに哲学があった。つまり,『キャッツ』は,T.S.エリオット原作であるし,『美女と野獣』は,ジャン・コクトー映画化のものである。
娯楽のために,劇場に足を運ぶ人間には,哲学などどうでもいい。たとえば,ベケットの『ゴドーを待ちながら』が,よほどの人気二俳優でもない限り上演で人は集まらない。市場で通じる演劇をめざすことは,浅利の真意とは遠い。
参照文献:戦う演劇人(管孝行)
劇団四季の自由劇場で,児童文学の名作『赤毛のアン』を観た。
物語の最初は,「男の子と間違えて女の子を引き取った夫婦の話」だ。赤毛で,そばかすのアンは,マシューに気にいられる。そのマシューは,アンとほんの少しの時間を過ごした思い出とともに,病死してしまう。マシューには,アンにあった粗雑な部分も愛すべきメリットに見えたにちがいない。それまで,ひとなみの愛情を注がれたことなどない孤児であったアンが,少しずつ暖かい世界で健康な少女に育っていくさまが楽しく描かれている。子どもむきの作品にはちがいないが,スーパー明るい『赤毛のアン』に,すべての者が救われる。これも又,良い作品。
満足度★★★
マシューおじさん♪
話のあらすじをすっかり忘れて行ってしまいましたが、とても楽しめました。思ったよりも泣けるシーンが多くて最前列でボロボロ泣いてしまいました。
お子様がいる方なども気負わずに観れると思います。
満足度★★★
赤毛のアン
子供向けのミュージカルでしたが大人も結構面白かったです。四季特有の大規模なセットもなく落ち着いて見れました。お客が結構入っていないので当日でも切符は取れそうです。