正義の人びと 公演情報 正義の人びと」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.4
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★★

    感情、情熱、熱量、哲学
    会場の入り口から、演技がおこなわれるスペースを通って客席へ。
    席につけば目に飛び込む鮮烈な赤。シンプルながら、目をひきつける赤い布の湾曲が美しく、静かに流れるピアノ曲(クラシック/不勉強で作曲家はわかりませんでしたが、おそらくロシアの作曲家なのでしょう)と共に会場の空気を醸成している。美術は非常にシンプルで、不可解な木組みの部品は天井から垂れ下がっている…。

    その不可解な部品は当然ながらうまく使われていました。開演前にそれをどうやって使うか、予想するのも楽しみの一つですよね。

    椅子は小さいのにつめつめで置かれていて、たしかにちょっと不便でした。おとなりの方と必然的にお話しすることになるので、それはそれで嫌いではありません。

    出演者の方はほとんどが初見の方。最初からエネルギー量多くテンション高く始まるお芝居で、あまり得意なパターンではなかったんですが、じわじわしっかりと芝居へ引き込んでもらいました。
    感情が根源にある哲学的な長いセリフが多くて、役者さんは大変だったろうなと思います。とはいえ、すでに宇都宮と東京での公演を終えて大阪に来られていたわけで、かなり練り上げられている印象を受けました。
    主宰のコロさんはさすがの存在感。素晴らしい色香と、狂いとを味わうことができました。コロさん演じる大公妃がいるあいだは、会場がものすごく緊張感ある空気でした。あと、いい香りがしました笑。客席と役者さんが至近距離に存在するゆえに味わえることでした。

    終演後、しずかに余韻を感じたくなるお芝居でした。
    そして、小難しい岩波文庫を手に取りたいと、そう思ってしまうくらい、しばらく影響をひきずりました。ありがとうございました。

  • 満足度★★★★

    観てきました
    内容難しいかなと思っていたのですが、元を知らなくても分かりやすい演出になっていました。
    赤を基調にしたステージで革命という題材を強く感じることが出来、シンプルだからこそ役者さんそれぞれの感情がストレートに伝わってくるいいお芝居でした。

    スペースとそこにいれる人数の問題だと思いますが、3列目の椅子の配置が少し狭すぎて隣の人と常に触れてしまっている状態で、時々集中が途切れてしまったのが残念です。

  • 満足度★★★★

    台風
    そんな中、観劇。カミュの芝居は初めてでしたが、非常に楽しめました。ドーラの谷野さん、詩人の林さん、パワフルで繊細でよかった。若い人の迫力、刺激もらえます。

  • 満足度★★

    相対的な正義の尺度
    ロシアの革命勢力の物語で、正義とは何かを考えさせられる内容でしたが、途中での軽い感じの演技が作品に合っていないように感じられて、物語の世界に入り込めませんでした。

    大公を殺害しようとする革命組織のメンバーが、いざ実行となると、それぞれの「正義」や「潔白」に対する考え方の相違があらわになり、さらに「愛」という要素も加わって葛藤する物語でした。

    部屋の出入りを特徴的な身体表現で表す以外はストレートな演技スタイルで演じられていましたが、中間辺りで新たに登場する役が、それまでとかなり異なる、おどけた要素を強調していて、せっかく高まっていた緊迫感が壊されて以降を集中力を持って観ることが出来なくなってしまいました。重い内容なので観客の集中力がに途切れないように笑いを入れる意図だったのならば、逆効果だったと思います。
    開演前の注意のアナウンスがあるより前からマイム的な動きが行われていましたが、劇中では出て来ない様な現代的な動きがあったりして意図が良く分かりませんでした。

    ドアをノックする音や馬車が走る音といった効果音や、転換時の音楽を役者が生演奏で出していたのが良かったです。
    邸宅の広間の様な高級感があるギャラリー空間の奥に赤い布を上部から垂らし、そのまま床に水平方向に敷いただけの質素なセットが劇場とは異なる雰囲気を醸していて、新鮮でした。

    正義の為ならテロリズムも肯定する役を演じた濱仲太さんが迫力がありつつもうるさくなく聞き取りやすい台詞回しで、急進的な革命家の雰囲気が良く出ていました。

  • 満足度★★★

    正義とは
    部分的に特殊な演出もあり、その点も面白かったが、基本的には正攻法で作品と向き合っていて、その誠実さがとてもよかった。

    ネタバレBOX

    冒頭、無言のダンスのような動きで、芝居が始まる。導入にしては長い。まさか、このまま最後まで行くのか、、、と思っていると、やっと対話が始まる。

    その他、場面転換を、役者自身がカスタネットのようなもを叩いてする演出や、牢屋のシーンで、椅子を客席の前に積み上げて、檻のように見せたりと、特殊な演出も施されている。

    と言っても、中心の芝居はとても正攻法。

    私はカミュの『正義の人々』を読んだことがないので、コロさんによってどのように脚色がされているのかよくわからないが、芝居自体が正攻法の芝居故、脚本もそれほどいじっていないのではないかという気がする。

    革命を目指す社会革命党のメンバーが、ロシアの大公をテロで殺害し、その後つかまり絞首刑になるという話。その過程で、社会正義を実現するためには、暴力は是認されるのかということが問われている。人民の平和のために為される殺人は許されるのか?
    そこは、カミュ、どの立場が正しいということではなく、正義が何度も反転する形で描かれている。例えば、同じ革命家の中でも自由を愛する詩人のメンバーと、一度捕まって政府に拷問を受けたことで、甘っちょろい理想論とは決別した厳格な革命党員とを対比させたり。または、社会正義の理想と現実の葛藤を描くだけではなく、恋愛関係を描くことで、公の幸福と個人の幸福(愛)の問題なども描いたり。敬虔なキリスト教徒でもある大公妃を出すことで、今までの話を更にひっくり返したり。正義とは何かを深く考えることができた。

    ただし、この作品が、今社会で起こっている問題と重なって見えたかというと、私にはそうは見えなかった。
    むしろ、どちらかと言えば、昔の議論だなと思ってしまった。勿論、昔の戯曲だから仕方ない部分もあるし、普遍的なものを語っているのだと言われればそうだとも思うが、脚色・演出:コロとなっていたので、現代社会にある正義の問題と重なる形で脚色されているのではないかと期待していた。
    (現代社会の事象を入れ込んだらよいなどという表面的な意味で言っているのではない。)

    現代、正義の問題を考える際に、私の場合は原発問題を抜きには考えられない。原発事故を境に、考え方や立場の違いから、様々な正義が林立し、その正義同士が暴力をふるい合うような様を目の当たりにしてきたからだ。

    そもそも、ロシア革命前後であれ、1968年前後であれ、この戯曲にも描かれている通り、正義の問題は極めて難しいものを孕んでいた。それでも、この作品の構造がそうであるように、ある程度の図式化は可能であった。
    だが、今日の社会に存在する権力や暴力の問題を、この図式化によって物語ることは可能ではないと私は考える。
    大きな括りでの権力構造は昔と変わっていない部分もあるが、どこからが権力者、つまり搾取する側であるかという線引きは、かつてより曖昧である。

    更に、この問題は、日本では、原発事故以後、更に複雑な事態になったと私は考えている。もう全く図式化できない程に。

    原発問題では地方と中央の問題などもあるが、ここでは放射能の影響から派生する正義と暴力の問題を例に出す。
    放射能の影響については、国家の息のかかった研究機関やそこが出すデータはすべて信用できないという立場もあれば、そのように主張する者は左翼的バイアスがかかり客観的に見えていないだけだと主張する者もいる。それも単に二極に別れているだけではなく、論者によって様々な判断がある。その科学的な認識がそもそも一致していない状態で、どこで安全だと線を引くかという議論をする。その線引きも、健康面を重視する者もいれば、経済面を重視する者、理想から考える者、現実的なことから考える者など、この問題の正義は論者の数だけあるといっていい。さらに学者ではなく一般の人がこの問題を考える際には、どの説を信じるかという問題に加えて、その人がどこの土地に住んでいるか、子供がいるか、経済的にはどうかなどの条件によっても、更に多様化する。そうして、その多様化した正義が、別の立場の者を罵倒する様は、ツイッターなどで痛々しいまでに見てきた。ネット上だけではなく、この問題が元で家族関係や友人関係に大きくヒビが入ったという例は枚挙にいとまがない。権力者でもなんでもない者同士が、正義を振りかざして傷つけ合う。それも、特定の政治思想を持つ持たないも関係なく。いったい、誰が誰と戦争をしているのだ、この国では。

    時間の経過と共に、このような罵り合いは減っているが、それは問題が解決した訳ではなく、単にそのことを忘れるか、考えないようにしているに過ぎない。

    また、原発問題、中でも放射能に端を発するものを例に出したが、これは必ずしも原発問題だけに限らない。
    ネットメディアの発達と共に、正義と暴力の問題はあらゆる分野で危機的な事態となっていると感じる。

    何か、このような問題に触れるもの、重なって見えるものがあるのではないかと期待して観に行ってしまったが、それは感じられなかった。

    ただ、それは私が過剰に期待をしていたのが悪いのだと思う。

    芸術表現は科学的な見地に立った現実的な貢献もできなければ、判断も下せない。ならば、そこで生じた心の問題や人間関係の問題などに、表現が切り込むことはできないだろうかと、私自身が日々考えているので、観劇の際もそういうものを求めてしまっているのだろう。

    このように書きながらも、この作品を観たことで、上記のようなことを考え直すきっかけになったのだから、それだけの問いかけを受け取っているといるという言い方もできるのかもしれない。
  • 自由が丘で演劇!
    脚本を立てるシンプルな演出でした〜。

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