BSSは歴史に作用する作品か。
矢継ぎ早に次回公演で、とりあえずどうやら、作品が間違ったものではないことがわかりだすと、どうにも真摯に、自分たちがこの作品で何をできるかということなどを考えだしてしまう。
チェーホフやモリエール、もっと言えばアリストファネス、笑いをやるからにはそのあたりまでライバルとして視野に入れたいという心持が、どうにも、俺にはある。敢えて言えば、面白いのは当然だ。面白くないものなど意味はないし、存在価値がない(面白いの定義はもちろん様々である。カフカだって、面白い)。だから、面白いか面白くないかというよりは、それで、なにができるか?ということを考えなければならない。
矮小かつ無力であることが前提で呼吸をしている我ら神の被造物たる愚かなる人間ではあるが、それでも、心は偉大であり、そして表現というのは、その心たるものにもっとも強く作用することのできるものであると俺は信じる。
そして、歴史を創るのは、心だ。人を殺すのも、世界を平和にするのも、みんな、おしなべて、心だ。
今日、公園の砂場から放射能が出てきてエライコッチャというニュースをみた。砂場にあるんだったら、まあ単純に考えて、いたるところにあるんだろうと思う。どうする、21世紀。もはや不安になるのもやめようぜ、というくらいに、暗い。そんで、I cry!!なんて下らないダジャレを申し上げたいほど、毎日は現実逃避したいくらいにシビアだ。
笑ってごまかす、現実を忘れる。
もちろん、そのためのツールであってもいいのだが、そこからもう一歩、なにかでありたい。
ありたい、つったって、俺らにできるのはただただ演じていくことなのだけれど、作品内容ももちろん、俺らが演じ続けるということごと、作品でありたい。なにせ、ワンステ30人だぞ。こんなに効率の悪い公演をやるなんて、ばかやろう、あんたらのことを好きで好きで仕方がないからだ。