山脈(やまなみ) 公演情報 山脈(やまなみ)」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
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  • 満足度★★★★

    若い世代にこそ観てほしい名作
    「夕鶴」「蛙昇天」「子午線の祀り」「オットーと呼ばれる日本人」などで知られる劇作家・木下順二の追悼公演。
    木下は「山脈」で、反逆と不倫を描いた。木下の言葉を借りれば、「本質的に非常にエゴイスティックな恋愛」を通して、生涯のテーマである「個人が抹殺されることによってでなければ、歴史ってのはつくりだされてこないだろう」という主張を浮き彫りにしている。東京演劇アンサンブルの芝居は、いつも観た後に深く考えさせられるものが多く、本作もそのひとつ。
    戦争中、軍人でない市民たちは、いったい何を思って生きていたのかを追体験でき、やはり、若い作家が想像で描く戦争とは違う。その点で、若い人に多く観て貰いたい作品。所見の日も、いつもと違い、若い観客で満席だった。
    上演時間3時間(休憩こみ)だが、まったく長さを感じさせない。

    ネタバレBOX

    ストーリーは公演情報に詳しく載っているので、そちらをご参照ください。
    「不倫」をする女性がよく口にする「たまたま好きになった人に妻子がいた」という言葉。この劇のヒロイン、村上とし子もそのひとりである。婚約者村上省一(劇には登場せず)の親友、山田浩介と出会ったとき、山田には既に妻子がいた。が、2人は互いに強く惹かれあい、恋に落ちた。
    とし子の夫となった省一は出征し、東京大空襲のあと、「とし子を安全な場所に置いておきたい」という思いから、山田はとし子と姑の村上たまに山村への疎開を勧める。農村経済研究者の山田は東京に残り、疎開先にときどき、訪ねてくるが、2人の関係を知らない姑は、妙な噂が立つと困ると警戒する。
    「あなたは出征兵士の妻なんですからね」ということに縛られ、息をひそめて生きているとし子は、山田の研究の一助になればと、農村の風習の聞き取り調査を続けることで、苦しい恋に耐えていた。調査はノート5冊分にも達している。とし子は山田に「もうここに来ないで」と言い、山田は偽名でとし子に何通も手紙をよこしたが、とし子は返事を出さなかった。やがて、とし子の夫が戦病死した報が伝えられた直後、突然山田が村に来て、「赤紙が来た」と伝え、広島に入隊するので、ひと晩泊まって明日の朝早くここを立つと告げる。それを聞いて、とし子の中で緊張の糸がぷつんと切れる。「残された30時間、山田と一緒にいたい、自分も広島に行く」と。
    山田は何度も拒絶するが、とし子は聞き入れず、姑を捨て、駆け落ちしてしまう。しかし、広島に原爆が投下される・・・・。
    そして終戦。村では、出征していた疎開先の農家の長男富吉が帰還し、妹のよし江の婚約者マサハルもまもなく帰還できるという。「石にかじりついても生きて帰りたい」と言っていた山田は亡くなってしまったのだ。
    とし子が村にやってくる。自分らしく生きた証のあるあの山脈の村をめざして。疎開先の農家で原爆のことを聞かれ「あなたはどうして助かったのか」と聞かれても、とし子は答えない。「君を安全な場所に置いておきたい」という山田のことだから、そのとき、山田はとっさにとし子を物陰に隠し、約束どおり、「守った」のではないか。そう思うと切ない。
    村に清らかな思い出と救いを求めて訪ねてきたとし子だが、背を向けて帰ることを決意する。役場で働く原山と再会し、あの日の山田との語らいを述懐する原山。彼らの前にあるのは紛れもない「戦後」。残された者は生きていかねばならない。とし子が「歩けば歩くほど向こうに行っちまうような」山脈は、日本人のめざす戦後の理想をも象徴している。
    とし子の久我あゆみは、いまは亡き劇団主宰の広渡常敏が桐朋短大時代に発掘した秘蔵っ子で、本作が産後復帰作となった。第1部の耐える女より、第2部でヤミ屋の顔を持ち、米をめぐって富吉とわたり合うときの度胸の良さにグッときた。とし子はこの先、きっと逞しく生き、男性社会でも成功するにちがいないと思わせた。もしかしたら生涯独身かも?(笑)こういう生死を賭けた恋を経験したら結婚はできないかもしれない。
    山田浩介の公家義徳はいつもながら誠実で魅力的な好男子ぶり。村上家の姑たま・志賀澤子は、いかにも東京の良家の奥様らしい風格。農家の姑ミツ・原口久美子は、前回「桜の森の満開の下」で妖艶な魔性の女を演じた人とは思えない変身ぶり。ミツの何気ないひとことに客が笑う。それは真面目な台詞なのだが、彼女の「間」の良さからきているのだ。農家の嫁きぬ・町田聡子の凛とした実直さが印象に残る。町田には「青年団」の女優の雰囲気がある。きぬは町で働いた経験があり、姑にきつく当たられていた。戦後も農家の嫁として、粗暴な夫の妻として耐え忍ぶ半生が待っている。富吉の松本暁太郎はこの日、どうしたことか2度ほど台詞のとちりがあったが、その際、稽古でもないのに首を振るのはいただけない。とちっても役になりきるべきだ。演出もする人だけにしっかりしてほしい。この芝居で一番よかったのは原山の竹口範顕。山田への共感ととし子への思いやりを感じさせ、玉音放送を聴いた後の心情の揺れを語る場面が秀逸で、作品のテーマを観客に強く訴えかけた。彼の実直な演技が、芝居に厚みを持たせた。原山が語る、帰還してきた農村の若者の終戦直後の虚脱感を聞くにつけ、戦後の減反政策、自給率の低下などによる今日の日本の農業のゆくえに思いを馳せざるをえなかった。いつの世も為政者によって振り回されつつも、したたかに生きていく農民の姿を感じる芝居だった。
    演技以外で気になったのは、まず舞台装置。本水のせせらぎを設けてあるのは感心したが、いくつかの段差の台に無造作に白い布がかけてある。最初は残雪なのかと思ったが、中央の台が室内という設定で、そこも外部と同じく中途半端なサイズの布が敷いてある。ここだけうすべりを敷くとか、室内の感じを出す装置にしてほしかった。いつもは凝った舞台美術を作る劇団なので疑問だ。
    また、大空襲にあい、疎開してきた村上家の嫁姑がこの時節でもんぺを穿いていないのは不自然。農民との対比を示したのかもしれないが、たまが言うように都会者が目立たぬよう暮らすなら、なおのこともんぺを穿くだろう。たまが山の手の奥様のように大島紬の着流しというのはいくら田舎が安全地帯とはいえ、空襲警報はあるので、のん気すぎる。

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