ロはロボットのロ 公演情報 ロはロボットのロ」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
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  • 満足度★★★★★

    初演の頃地元の鑑賞会だかにたまたまやってきたのがこのレパートリーでこんにゃく座を知った始め。新宿梁山泊くらいしか劇団というものを知らない私が脚本・鄭義信の名に気付かなければ、出会いは10年遅れたろう。宝石のようなこの作品は音楽萩京子の曲・うたと鄭義信の本との稀有な出会いの賜物とも言え、特にテーマソングにも当たるあの曲(題名を知らない)は、明るく笑い合いながら涙する鄭作品情緒の真骨頂がこよなく反映された楽曲で、日常を取り戻した大団円で歌われる。
    2001年の初演からブランクの後、ここ何年にまた一般公演からレパに上がり、池袋、そして一般人可能な鑑賞会に埼玉くんだりまで足を運んで十分に楽しんだのだが、最初のインパクトには届かなかった。埼玉公演では心無しか隙間風が吹くのを否めず、それもそのはず自分の鑑賞眼が肥えてしまったのだ、と思っていた。
    が、今回の(演技面では)ほぼアマチュアに等しいキャストに拠る「ロはロボットのロ」に、初演時の感動を呼び起こされたのだった。
    歌は大変良いが演技は拙い。演出はこんにゃく座の大石氏でこれが健闘だったが公共ホール(2~300席の中規模)の限界は否めない。こんにゃく座の役者だったらこの台詞ではああやるな、など勿体無い取り零しに一々引っ掛かりながら観ていたのだが、後半は演技の方もキャストの「地」の力がプラスに転がる(だけの物語説明がしっかり為されていたのだろう)方向に転じ、区民ホールという場で、架空の町ウエストランドの物語が濃密に、そして蜃気楼のように、浮かんで見えたのである。
    おとみっくの出自は音楽畑、正しくオペラという事になるが、この感動の要因はいずれまた。

    ネタバレBOX

    本家を貶めるつもりはないのだが、うた(音楽)と芝居(演技)の兼ね合いである。
    こんにゃく座の復活「ロはロボットのロ」では、演技は格段にうまい。痒い所をしっかり掻く。佐藤(敏)氏のドリトル博士ともう一役を白髪のカツラの「早替え」で登退場を繰り返すなどは典型と言えるが、幾つかの箇所で初演ではこうだったかな... と思う所があった。主役の佇まいも重要、再演でテトを演じていた若手はのほほんとしたおおらかさはあったが何かピースが足りなく感じさせた。役が担っていた「役割=機能」を何か落としている感覚。初演となるとかなり古い記憶だが、ロボットの動きが見せる(人間基準では)素人なたどたどしさと、生への躍動と恐れが混在した初々しさ、知らなさゆえの大胆さといったものが、これから起こる事の伏線になる。ぼんやりでは必ずしもなく、人間基準では足りない諸々を補うべく脳内は目まぐるしく回転し、しかし選択された動作は無駄なくシンプルという、人間種ロボット属らしさのリアルとでも言うべきもの。
    これも随分前だが「アルジャーノン」の知恵遅れの主人公と共通するものがありそうだ。テトの繊細さが、ココという存在を発見する。ロボットの動きも、言語に訛りや不自由さがあるのも、鄭が好んで用いる片足を引き摺る女性も、イノセントである事や優しさや被虐の運命や、そうしたものを引き受けるドラマ上の仕掛けであり、かくありたいがあれない自分の代わりに存在する者だ。この無実性が揺るがなく感じられる事が重要で、それを上回る「笑い」は不要だったように思う。
    もう一つは言うまでもないが音楽、うたの比重の大きさ。結局はうたの説得力が、オペラでは物語説明の説得力となる。前半は芝居(演技)部分で冷や冷やするが、後半は音楽が凌駕し、芝居も引っ張る。
    おとみっくの役者は歌を専門とする故に、声が澄み、演技では汚れ切れないが、佇まいそのものがイノセント。若さゆえに嘘が無く、恐れがあり、不安に打ち克とうとするひたむきさがある。素人だから成った舞台であり、次は演技をもっと旨く、と意識したら崩れてしまうバランスの上に出来上がった舞台だ、という気がする(無論うたの力は絶対的だが)。

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