公演情報
「秘密の花園」の観てきた!クチコミ一覧
満足度★★★★★
伝説の初演とかいう話を聞いて何か難しいものかと思っていましたが、ストレートに驚き楽しめました。田口トモロヲさんはナレーションのイメージとはまるで違うユーモアと迫力に溢れていました。寺島しのぶさんは二人の女性をあるときは区別し、あるときは曖昧に、片乳を出しての熱演です。柄本佑さんは最初の早口長ぜりふを見事にこなしながらも、田口さんに「DNAが…」「奥さんが…」とかいじられると素に戻ってはにかむなどベテランに押され気味でしたが好演でした。
後半では暴風雨ということで下手奥から盛大に放水があって、とくに上手前方席にはかなりの水が届きます。そのため休憩時間に前方席にはビニールシート(1m?x2m?)が配られます。放水を防いでも役者さんが溜まっている水をわざと蹴とばすのでそのたびにビニールを持ち上げて防ぐことを繰り返します。次回の公演のときには上手最前列が絶対のおすすめです(笑)。
内容については東京芸術劇場の広報誌「芸劇BUZZ Vol.22」P6から、演出の福原充則さんが唐十郎さんの作品に初めて出会った時の印象を引用しておきます。
* ここから *
躍動的で詩的な長ぜりふ、理屈では追いかけられないストーリー展開、思いもよらないスペクタクルな演出、生活感と妄想が一体化したビジュアルなど、静かな演劇とは真逆の世界が目の前に広がっていた。
* ここまで *
いやあ全く今回の私の印象もこの通りです。さすがにうまく表現するものですね。
満足度★★★★
言うまでもなく、唐十郎の代表作。本多劇場こけら落としの伝説の名舞台である。
柄本明、緑魔子 版を見ている者にとっては、見るのが怖いような公演である。
日暮里は坂の多い街、駅前には漆の木があって・・・・・と柄本の独白で始まる舞台の記憶はまだ体に残っている。あれからもう、35年も過ぎたのか。そういえば世代も完全に一回りはしている。
時代は変わった。ナマの演劇は時代とともに変わる。作品が古典として残っていくには、何がその芯になっていくのか、と言う事を痛切に考えさせられる舞台だった。
かつて本多で柄本明がやったアキヨシをその子の柄本佑がやる。幕開き、その最初の第一声からして違う。(そのことをあげつらっているのではない) 柄本明のモノローグには、大都会東京の片隅によどんでいるような下町から立ち上がってくるそこに生まれた人間の実在があり、アキヨシに引きずられて舞台に現れる人々にも、リアルな存在、イメージ上の人物などなど、見事に振られた多彩なキャラクターが、現実社会に太古の時代から残っている親子兄弟の人間関係や、天候や地形など人為の及ばぬ環境に操られて舞台の上の秘密の花園に咲き乱れる。めちゃくちゃに見えるようなプロットなのだが、観客の心をしっかりとつかんで離さない。
あれは1982年の東京が見た夢だったのだろうか。
柄本佑のモノローグには、明のような痛切な都会への憧憬もなければ、女性への思いもない。舞台全体も、本多が情念の渦巻く混沌の舞台だったにくらべ、形だけは似ているのにどこか客観的で透明な感じである。重ねて言うが、それをあげつらっているわけではない。それがナマモノの演劇の宿命で、今の「秘密の花園」はこうだ、ということでいいのだ。
それにしては…という感想になるのだが、今回の公演では、そこが思いきれていないのが残念だった。観客は唐十郎に導かれて、新しいいまの日暮里を見たいのである。
当時のものとしては珍しく公刊もされている初演の公演ビデオでも不完全ながらほぼ8割の舞台は残っているし、30年を超える以前の公演にしてはこれまためずらしく当時の多くの関係者が存命だ。今回はスタッフ全員その呪縛から逃れられなかったのではないか。若い演出者にとっては大きなプレッシャーだったのだろう。
思い切って新しい演出でやってもこの唐十郎の世界は壊れたりはしないと思う。戯曲のどこをどうと、いうことには数限りなくアイデァも浮かぶいいホンなのだ。それを舞台の上で実現していかなければ、またホンも生き残らないのだから。
満足度★★★★
テントでも狭い小屋でもなく芸劇で唐十郎をやる。蜷川はコクーンでやったし駅前劇場で所狭しとやった木野花演出のもあった。小屋っぽい場所でやるのは正統、大劇場でたっぷりやるのも趣向、だが芸劇イーストでどうやって・・
作品は82年本多劇場杮落としで初演、少し前の唐組テント上演がバッタ本の中でキラッと光った印象だったが、既成の枠に囚われない福原演出は、適役寺島しのぶを謎の女に配して、恐らく最大限頑張っていた。こうして見ると難しい芝居の世界だと思う。演出も演技も、唐十郎本人、あるいは唐の脳味噌を感覚的に飲み込んだ身体なら自然とやるのだろうそれを、折り目正しい現代俳優に精一杯寄り添わせ、再構成した手触り。忙しなくモード変転する台詞(照明変化と共に)、姿形が似る二人の女の彼女はどちらなのか次第に不分明になっていく過程、そこに絡む奇妙な人たちの奇行・・難物に挑み、現代的な処理もされ笑いを取っていた。