ハムレット舞台の初見は遅く、確か柿喰う客の女体シェイクスピア。以後KUNIOハムレット、新宿梁山泊版、そして今回という所。400年前の作品が、演劇芸術の革新の100年の間にも上演され、今尚上演され続ける驚異。近年見たハムレットはどれも、語り口が明快で、原作をよりよく「解りやすく」伝える工夫の感じられる舞台だったが、原作の普遍的な魅力とこれを現代に上演することの意味、について毎度考えさせられる。
自分が何度目かになる事もあるが、とても分かりやすいハムレットだった。今回の舞台は若い役者が力を存分に発揮し、押さえるべき所を押さえ、テキストが導くべき高みに達し得た舞台、と言えた。シェイクスピアの戯曲は伏線に不足があっても当該の場面、例えば妹の狂態、またその死を嘆くレアティーズの「嘆きの台詞」一つで、観客は彼の嘆きの深さを想像させられ、納得させられる、という面がある。言葉の持つ詩情が多くを語るという点、ギリシャの詩劇に通じる「感情の吐露」のカタルシスであるが、終始「激した」感情を放出し続ける人物ら(日常会話にさえ激情の下支えがある)の言葉に、重みと厚みを与えるのは俳優のやはり力量であるなと思う。それら全てが「伏線」となり、後後にずしずしと効いて来る。それが悲嘆であれ憤怒であれ、これを快しと受け止め感情移入するのが観劇の快楽である。
一方、「思わず乗せられる」ストーリーの構図には、優れて現代的(というか普遍的)テーマがねじ込まれている。ハムレットは叔父の謀反を(状況証拠ながら)知り、報復を為すべき立場にありながら、それに手を出しあぐねている。肉親の「情」は古今東西あれど、その肉親を裏切るのも情であれば、これを制する規範というものがあり、明文化されているか否かにかかわらずそれは法に等しい機能を果たす。近代法以前の法規範に詳しくはないが、天の道理に照らせば、ハムレットの葛藤は「本来外敵から守るべき肉親」が敵として現前した事の納得しがたさと、既に知ってしまった「無法」の事実を正す勇気を持てず立ちすくむ姿にある。
ちょうどそれは同日の昼に観た『ザ・空気』でドキュメント番組の改変の圧力に抗い切れず折れて行く人物達の姿に丸々重なって来る。相似形のドラマを見る感覚さえ覚えた。ハムレットが「悲劇」でありながらバッドエンドでないのは、「悪」と刺し違えて屍が積まれても真実が明るみに出、それを語り継ぐ者と、信のおける新たな王を迎えいれる所で終わっているからだ。
日本では「政府批判をする者」へのヤクザまがいのテロが起こり得てもその逆はありそうにない。この国をどう見れば良いのだろうか・・・
演劇公演を行える劇場としての佇まいを持ち始めた(杮落し当時とは随分風情が変わった)プラザソルを後にしながらそんな事を考えた。
満足度★★★★★
20歳の頃、テレビで白黒の古い映画がやっていた。
ハムレット
かの有名なシェイクスピアの中でも有名な作品
何百年の間にどれだけの人がこの戯曲を作品にしたのか。
20歳の頃の自分は、
そこまで考えるほどのこともなく、有名だから面白いのかな?程度の軽い気持ちで見始め、
白黒の古い映画のせいか、聞きなれない西洋の長い名前のせいか、みんなしかめっ面しているせいか、重くるしく、何シーンか見てやめてしまった。
そもそも言葉が字幕を読んでも何言ってるか分からない。
頭に内容が何にも入ってこない。
五年前、
夫と行ったイギリスでリア王を見た。そもそも英語は頭がシャットアウトしてしまうからか、贅沢な劇場で数分で爆睡。
夫いわく、シェイクスピアは言葉のリズムがキレイな戯曲だから聞いていて心地よく、良い芝居はよく眠れる。
え?そんなんでいいの?
みんな一生懸命やってるのを目の前で観てて、寝ちゃダメだよね。
マンマミーアは英語でもちゃんと内容が分かって面白かったしね。
土曜日川崎ラゾーナプラザソルで公演中のハムレットを観てきた。
面白かった!
カッコよかった。
切なく苦しかった。
生きることへの葛藤
普遍的なもの
言葉が溢れているシェイクスピア
言葉を紡ぐことで、気づきながら、展開する物語
言葉自体はやはり難しいけど、
言葉を飛び越えてストーリーが迫ってきた。
役者たちがこの作品に真摯に向き合って、あの膨大な言葉を心体から発しているからこそ、シェイクスピアに苦手意識しかない私に熱いものが入って来たのだと思う。
そしてやはり生きることへの葛藤は普遍的で、今に生きる我々も同じもの持ってるでしょ?見ないようにしてるだけで、、心揺さぶられないようにしてるだけで、、、ということを突きつけてくる演出。
面白かった。
カッコよかった。
演劇、ってLive
映画とか本を繰り返し観たり読んだりする習慣がなかった。
内容を知ってしまえば繰り返し観る必要が無いと思っていた。
だからみんなが知ってる古典戯曲を演る意味がもともと分かっていなかった。
でも夫が何度も同じ映画、芝居を何度も観る。
受け手は時を経て、また感じることは変わるし、作る側次第で同じストーリーも違う意図をもつ。
映画とは違うのは、ミュージシャンのLiveに何度も行くのと同じように、毎回その日にしか無い面白さがある。
日程を調整して、なんとか一度しか観に行けないのが普通だから、観に行った時には完璧なものが観たい、と思う。
けれど、Liveである以上、同じものはなく、ナマモノだから面白いのだ、
そういう事が少しずつ分かって来た。
演劇を観たことない人、シェイクスピアってどうなの?という人が、絶対面白かった、と思える舞台になっている。
同じものは二度と観られない。観ないともったいない。
だいぶ席も埋まって来てるようなので、興味がある方はぜひ。
満足度★★★★
本公演は、ラゾーナ川崎プラザソルの開館10周年記念公演の第二弾(第一弾は「マクベス」)として上演されている。
「ハムレット」…シェイクスピア四大悲劇の1つ。その作品群の中でも台詞に関しては有名であり、翻訳も色々ある。明治期の坪内逍遥から現代に至るまで翻訳家が原文の意を汲み取るよう腐心している。
本公演でも当日パンフで松岡和子女史が「kin(姻戚関係)とkind(親子・兄弟などの肉親の情)とが同じk音で始まることとか、縁語であることをもっと打ち出す」ことを思っていたと。そして新たな表現は、劇を分かり易くするだけではなく、物語そのものの魅力を引き出していると思う。日本のシェイクスピアの翻訳者は男性が多く、女性は少ないと言われている。昨年亡くなった蜷川幸雄氏は1998年以降、埼玉県の彩の国さいたま芸術劇場でのシェイクスピア戯曲を松岡女史の翻訳を使用して上演していた。
その翻訳劇による本公演の魅力は…観応えがあった。
(上演時間2時間15分 途中休憩10分)
満足度★★★★★
鑑賞日2017/01/28 (土)
ハムレットがオフェーリアを失って嘆くシーンは、古典を越えて、現代劇をみているような感覚で、言葉が心に刺さりました。清らかなオフェーリアが狂気に落ちていく姿には驚愕しました。歌は生ですよね。この世のものとは思えない、澄んだ歌声、別世界へ引き込まれそうになりました。プロジェクターと芝居がシンクした舞台は見応えがありました。シェークスピアには笑えるセリフも満載ですが、反応する暇がなかった。年寄りには早いテンポが辛かった。
満足度★★★★
高校生どころか
ませた小学生(いろいろ失礼ですが御容赦のほどを・・(-_-;)
でも理解がし易いだろうなと思えた舞台ながら
なかなかに熱き情熱も感じる若さも舞台上から受けました
見た目の綺麗さや
演出のインパクトもあったですよ~って感じた2時間15分
(休憩10分)
満足度★★★★
とてもシンプルで分かり易く、普段観劇習慣の無い若い人でも楽しめる作り-
都心の小劇場ではすっかりお馴染みの若手が川崎まで来てくれるのは有難い。
満足度★★★★★
鑑賞日2017/01/26 (木)
蜷川/藤原竜也バージョンをはじめ、お笑いの人がやったローゼンなんとか等、これまでに見た様々なハムレットが走馬灯のように思い出された作品でした。特に後半は群像劇のようにも見えました。