【公演終了】箱の中身2016【感想まとめました】 公演情報 【公演終了】箱の中身2016【感想まとめました】」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.5
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  • 満足度★★★★

    最終日マチネ観劇
    戯曲の「分からない国」は既読、原作の原田氏と当時上演した劇団壱組の大谷氏が監修ということで興味を持ったが、告知チラシをあまり目にする機会が少なかったような。出演女優さんの交代により、チラシもそのままかと思いきや、そこは新しく作り直した模様。終演後、グッズ販売の告知などもしていたが、そこらへんはSNSを活用した方が宣伝価値はあったんじゃないかな、と思ったり。てなことをアンケートに書きたかったが、終演後は劇場内で観客と出演者の面会ありとのことなので書き留める場所もなく劇場を後にすることに。

    パンドラ/もう一ラウンド の二部構成でえみ子という女性がどちらも関わってくるが、謎めいた行動に人生の歯車狂う男たち。戯曲や初演が25年前ということもあり、トラブった時の対応に今だったら携帯電話など出てくると思われるが、そこは原作に徹底していた。男女2人の場面にメロドラマ風BGMは面映く聞こえ妙にムズムズしたが最近ではあまり見られなくなった大人が見て刺激されるような感覚の舞台。
    男性目線で見たら結構重い展開かも。
    約2時間。

  • 満足度★★★★★

    箱の中にあったのは・・・
    「後悔」だったように思えました。25年前の作品と言う事で、もっと訳の分からない(?)話になるのかなと思って行ったのでしたが、そうではありませんでした。アフタートークでわかばやしさんが「ヒロインの描き方が私が演出する事で前の舞台とは違っていたと思います」とおっしゃっていたので、昔の舞台も見てみたかったと思いました。別れるにしてもくっつくにしても覚悟が必要。それがないから後々迷惑をかける事になるのだと現実世界を見てても思うが、それが人間だから物語も生まれて来るのだろう。

  • 満足度★★★★★

    箱の中に最後に残ったものは
     昨日、初夏のような陽気の昼下り、中野のシアターBONBONで、劇団おぼんろのわかばやし めぐみさん演出、ハルベリーオフィス特別公演:「箱の中身2016」を観て来ました。

     人は、心の中に開けてはいけない「パンドラの匣」と、開けられたくない「記憶の匣」を頭の中に持っている。

     その匣が開けられた時、噛み合ってはならない歯車が噛み合い、回らずとも良かった歯車が動き出す。

     舞台の幕が開くと目の前に広がるのは、歯車と振り子のある柱時計の中。

     それは、この物語の開けられたくない「記憶の匣」を開けられようとしている、夥しい血痕を残したまま姿を消してしまった妻の行方に大きく関与しているのではと疑われ、精神鑑定を受けている、無口だけれど、悲しいほどに善良で、切ないほどに妻を愛している時計屋の主人の頭の中であり、記憶の箱である。

     佐藤正宏さんの時計屋の主人佐藤の妻えみ子に手痛いほどに裏切られても、赦し続け愛し続ける姿が、最初から最後まで、哀しいほどに切なく、その切なさは、物語が進行するほどにしんしんと心に降り積もって来る切なさだ。

     さかいかなさんの妻えみ子は、離婚歴があり、子供を産めない自分と結婚してくれた夫に、最初は引け目を感じながらも夫の誠実な温かさに、夫を好きになろうと謙虚であったのに、ある日を境に夫のお金や財物を売ったお金を愛人に貢ぎ、夫を見下し、やりたい放題をする女へと変わって行く、ここだけを切り取ると、「なぜ?」という憤懣やる方ない思いを抱く妻になっている。

     が、この後に続くもうひとつの物語を見ると、そこには別れた夫への一途な想いとその夫が、偶然店番をしていた夫の店に訪れ、再開した瞬間に開けてはならない「パンドラの匣」が開いてしまったが故に、夫の財産を別れた夫へ貢ぎ、大量の血痕を残して姿を消す事へと繋がって行く、哀しい一途さが、夫佐藤への仕打ちになって行くことを知ると、妻えみ子の哀しい切なさもまた、胸に痛い。

     そして、もう一つ。かつては喝采を浴び今は落ちぶれたボクサーの物語へと流れて行く。

     その流れた先は、えみ子の別れた夫であり、愛人であり、今は収監されている大和さんのボクサーの「記憶の匣」とえみ子に再開したことで開けられてしまった「パンドラの匣」をたどって行く物語へと続く。

     そのボクサーと同じ房に入って来た、かつてのライバルであり、引退を余儀なくされた最後の対戦相手のさひがしジュンペイさんのボクサー。

     落ちぶれたボクサーの中に見える、身を持ち崩していない人の一抹の清潔さと生きる力が時々一粒の砂金のように光っていたさひがしジュンペイさんのボクサーが色っぽく見えた。

     終演後、演出のわかばやし めぐみさんとお話しした時、この舞台の作りはやはり、時計屋の主人の頭の中をイメージしたものなのだと感じた。

     それはまた、開けてはならない「パンドラの匣」であり、開けられたくない「記憶の匣」でもある。

     匣とは、ぴったりと蓋を閉じる箱の意味であり、箱はだけで編んだ隙間のあるもの、蓋のないもの。

     開けてはならない「パンドラの匣」が開き、噛み合ってはならない歯車が動き出し、開けられたくない「記憶の匣」に出来た隙間から零れ出てしまった記憶の行き着く果てのどうしようもない切なさと哀しさを描いたのがこの舞台である。

     「パンドラの匣」に最後に残ったのが希望ならば、この「箱の中身2016」に最後に残ったのは、哀しみ、怒り、絶望、苦しみ、憎しみ、痛さ、辛さだったのか、それらを纏った一抹の希望だったのだろうか?

     願わくは、一抹の希望であって欲しいと思って止まない。心にしみじみと降り積もる哀しい切なさに、涙が零れ落ちた心揺さぶる舞台だった。


    文:麻美 雪


  • 満足度★★★★

    氏の演劇魂は届いたか
    がっつり「演劇」人だった(伝聞)という大谷氏のホームグラウンド=「壱組」の名を見て、また役者陣にも心動かされ、観劇した。チラシにもおぼんろの名が見えるのは、この企画じたいがわかばやしめぐみ(おぼんろ)の所属するハルベリーオフィスによるもので、壱組のかつての作品を復刻したという恰好であった。 ポストトークでのわかばやし演出の証言によれば、演出仕事は久々とは言え経験者、もっとも監修協力の大谷氏が大詰め段階で関わり、形を成した(迷いのあった部分が確定した)という事だ。
    芝居は原田宗典による戯曲(初演は25年前)で、構成はA面、B面のLP盤のよう。B面はA面の謎解き編である事がB面の途中で判明し、テイストの異なる二つの芝居を観る気分を残しつつ、一つの完結したドラマを観る事になる、のだが、最後はB面物語としての結語で締められる、よく出来た戯曲に思えた。
     若い(と見えた)演出の今回の舞台でのチャレンジは功罪相半ばしたかも知れない・・と感じたが、基本的には戯曲の世界を構築し、単なる謎解きプロセスを消化するのでない「生きた」人間の芝居を立ち上げていた。
    細部はネタバレ欄にて。

    ネタバレBOX

    なかなかもって奇異なチャレンジは、舞台下手袖に、ほぼ舞台上と言って誤りない場所に客席がある。舞台と客席が渾然一体となるおぼんろのアプローチをこの小屋に援用したとの事だが(ポストトーク)、出ハケは左右両側の舞台手前の鉄扉、舞台上手の袖(奥と手前)だから、下手側は不要であるとは言っても、見た目に異様だ。中央の芝居が進むにつれ、どうやら下手に居るあの人たちは芝居には絡まないんだなと、判る。紛らわしさと、後で判った時のがっかり感は、プラスにはならないように思う(少なくとも、後で登場すると「判った」場合のほうがワクワクする。その逆だから相対的にガッカリである)。

     さて桟敷童子顧客を任じる私としては、原口氏のあまりにジャストな演技に舌を巻いた(これほど出来る役者だったか・・と)。 かなり微細なタイミングを要するA面の世界を引っ張っていた。
     この「引っ張っていた」という印象は、他の役との「力量の比較」から来るのでなく、場面の質感を捉えた上でどういう演技の質が求められるのか、を巡るもので・・、佐藤氏、保村氏の「うまさ」や「味」に感じ入りながらも、「正解」に迫ろうとして難易度ゆえに届かないのか、目標設定の微妙な差ゆえに(うまいのに)迫れないのか、、後者ではないか・・と感じないではなかった。

     A面はよく出来ているが、B面あっての全体という意味では、B面は展開の妙を感じさせる部分もあるが、不足感も多くなる。
    「次第に部分が連結して全容が現れる」ためには、戯曲の「台詞」のみならず役の人物の作りの的確さが必要。役作りの不備があればたちまち淋しげな穴が開いてしまう。
     どうしても気になったのは、両面で妻役を演じた女優の演技だ。二人の男と、愛の形は違えど(後の方の夫には本当の愛情は湧かなかったというがその言葉と裏腹に十五年という歳月が何を表現しているかを思うべし)、寄り添って来た時間的な長さや、元夫との間にどんな関係を求めたのかなど、考慮すべき点が沢山ある。 生きた年数の長さは、一つの行動のもつ背景の重さ、複雑さも意味する。 「死ぬ」動機は、果たして相手の口にした「子供が居る」の一言に対する嫉妬・落胆だろうか。
     これについても演出はポストトークで触れていたのは、壱組版では妻役は徹底して利己的なキャラに描いていたが、今回は女性である自分が演出するに当たり、そういう行動をとった女の背後にあるものを、出したかった、という意味の発言。 私なりに解釈すれば、男の人生を狂わせた女を悪く描くのでなく、感情移入できる(真っ当な?)女性にしたかった・・だろうか。
     壱組の芝居を知らないので何とも言えないが、少なくとも善悪の問題ではなく、たとえ自己中だろうと醜かろうと、自分の欲求に徹しようと足掻く中に人間の等身大を見、その時人間的魅力をたたえ始めるのだと思う。 そしてその思いは遂げられない。 自ら人生を中断させるおろかさ。「他にどうかし様があったのでは・・」と思わせる隙間が、まだある。
     元夫が、突き放す言葉を妻に吐く「理由」も、ドラマ的には重要だ。 これは相手の思いに実は同調しきれていない(乗りきれない)夫自身の気分を、最後は正直に言わずにおれなかった、そんな風に解釈するのが最も妥当ではないか。 そうなると惨めなのは女である。 歳も食った。若さの残り香のあるうちに、失った青春をもう一度・・・その醜い足掻きは、かつての「本当の愛」よもう一度にはならなかったことを予感させる(今回の舞台では、単純に若い時代に戻った様子だった)。そうして初めて、自死も必然に思えてくる。
     一人、トチ狂った現実をわきまえない女の仕業、に落ち着くのを今回の演出は嫌ったのかも知れないが、そちらのほうがリアリティがあり、リアルな人間像こそ観る者の中に入りこむ。
     二人の愛が本当であったと信じさせる前段があって、そんな二人なのに男が「子供がいる」と告げたことで亀裂が入りかけ、元夫はその「亀裂」を見たくないがために、「本当は女房がいて、一緒になれない」などと嘘を言う。 だが、これではとても自死には繋がらないように思う。 子供がいても良い・・ もし自分がどん底にいるなら、相手の「愛」が確かめられさえすれば、そう受忍するはず。でなければ、実はどん底にはいなかった、なのに自死してしまった。これは破綻である。
     二人の会話の「意味的な」構成の問題。

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