「贋作幕末太陽傳」 公演情報 「贋作幕末太陽傳」」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.1
1-8件 / 8件中
  • 満足度★★★★

    重なる想い
    夏の風物詩ともいえる椿組のテント芝居。今回は鄭義信氏の作・演出で、映画を題材にした群像劇だった。

    つぶれかけた映画館。映画の撮影現場。少年時代の思い出。笑いと郷愁、そして映画への愛情を重ねながら描く風景はどこか懐かしさを感じさせた。

  • 満足度★★★★★

    初野外劇
    30周年おめでとうございます。
    野外劇は初めてでしたがこんなに素敵だとは…!
    出演者・スタッフ全ての方の熱量がとにかくすごいです。
    観客として関われたことも嬉しく思います^^*

    恒例の毎日打ち上げも楽しく参加しました♪

  • 満足度★★★★

    夏だ祭だ花園だ!
    映画『幕末太陽伝』に嵌まった一人ゆえ、話のベースになっている落語「品川心中」「居残り佐平次」、特に佐平次キャラが活躍する忠実なる<贋作幕末‥>を楽しみにしていたが‥そこは裏切られ、映画製作現場を舞台とする話であった。監督役の風情が川島雄三をなぞっておらず、訝しく眺めていると、「あの名作のリメイク」とのセリフが中盤で。そういう事かと納得した。
     鄭義信らしい、多彩なユーモアが舞台を丸く包み込んで、今笑える事の幸せに浸らせてくれる。撮影現場の人間模様と、ある寂れた映画館の人間模様の二つが交互に展開する。二つの世界に直接の関連はないが、どこかで繋がっている、という事になっている。似たような構造が鄭義信の梁山泊時代の戯曲『青き美しきアジア』にもあった。 
     撮影現場では、煮詰まって爆発手前の監督がすぐに撮影を投げ出し、彼にたかる女優たちと外へ繰り出す。撮影場面がいつしか往年の日本映画をパロッたセットになっていたりする(ビルマの竪琴など)。それらが「一つの映画」の現場なのか、別個の現場なのか判らなくなるが、おそらく監督の脳内混乱のエスカレート状況を表現していて、フェリーニの『8 1/2』を思い出させる。
     各撮影シーンは、にぎやかしの三年増、お高くとまった主役級俳優、高鼻を付けさせられた外人役、「主役」と聞いて来たんだがせめて名前のある役をくれと言う役者、スタッフ連などなどが笑いを取るためのサイクルを提供する形にもなっている。
     実は「同時代」の二つのシーンの他に、もう一つの場面も並行して展開される。次第に判ってくるのはそれが「私」の過去の話であること。まるで映画の中のシーンのようにノスタルジックでありがちな悲劇へと転がり堕ちる。これを少年時代の「私」が見ている構図が判る事により、ドラマ性が俄然高まるという仕掛けは鄭義信の手腕と言えるだろう。
     最後は川島雄三の決まり文句「さよならだけが人生だ」を誰かが唱え、背後の幕が落とされると、仕掛け花火が燃え、それ越しに新宿の夜空を見やる。祭の終わりの時である。椿組の「夏祭り」にふさわしい舞台であった。

  • 満足度★★★

    夏の風物詩
    確かに自分をはじめお客が求めているイメージのものはやっていてくれるのだが、キャストの多さや雑多な感じは今回の芝居では集中力に欠けてしまった。

    ネタバレBOX

    スムーズな転換方式ではあったが、ずっと同じような感じが続いてしまうので、もう少し工夫が欲しかったです。
  • 満足度★★★

    最終日観劇
    毎年恒例になった椿組による花園神社での野外公演。今年で30回目。
    今回も40人余りの役者が踊って歌って叫んだり、コーヒー豆を煎る香りやアイスモナカが食べたくなったり(開演前だけの販売で残念)、外野の喧騒も余興の一つかと錯覚したり、五感をフル活用した観劇となりました。

    冒頭は題材の邦画から始まるけど、それ以降は「贋作」と銘打っている通り、別物。映画愛と男の年輪がクロスする哀切人生記な話だった。
    笑わせる要素の場面は少し長く感じややくどい。過去を美化したくなる男と未来の現実を見据える女。鄭さんお得意の差別や障害なども下敷きにあったが、全体的に男の人が書いた作品だなぁとヒシヒシ感じた、なんか今回はいい話で終わらせた感がある。
    演出の加減とはいえ、食材を粗末に扱うのも不快だった。周りのお客さんはウケてたので自分の見方の違いなんだろうけど、台詞の中で𠮟咤してくれたらよかったのにな。

    薄幸だが気丈な運命な姉役の紀保さんや、おババの水野さんと伊藤さんら怪演だがよかった。その2人の場面はハブとマングースの戦いみたいで楽しめた。
    野外で見るトバさんは毎年若返っているような感じがする。

    ネタバレBOX

    劇中映画で幾つかの作品が登場するが、葬祭の行列シーンはATG?映画の寺山作品みたいな幻想的で混沌とした翻弄場面だった。
    監督たち、男の頭の中で完成させたと思われる、未完の大作となったあの映画がどんな話になったのか、怖いもの見たさで見てみたくなったりして。
  • 満足度★★★★

    花園神社進出30年目、夏の風物詩
    団扇で風を入れながら、新宿の喧噪をBGMにし、テント芝居を楽しむ。
    椿組の芝居は、内容も濃く、楽しい。

    ネタバレBOX

    鄭義信さんの脚本がとてもいい。
    深みと人の情が伝わってくる。
    「演劇」らしい楽しさがある。

    「脚本家」になりたかった映画館館主と「映画館の館主」になりたかった脚本家が、それぞれを「夢」のように思い出す。つまり、それぞれが、そうなっていただろうという自分を妄想し、呼びかけ合う。
    演劇らしい展開と演出だ。

    テント内の暑さと、明治通りを行き交う車のエンジン音やテントのそばを歩く人の気配と音、花園神社にお参りに来て鳴らす鈴の音など、街の喧噪も相まって、芝居を作り上げていく。
    音を含めた環境が、男たちのノスタルジー度をさらに増していく。

    ただ、気になったのは、すべて「過去へのこだわり」ばかりで後ろ向きなこと。
    2人の登場人物が「なりたかった」と思い出すのは、今自分の仕事がうまくいっていないからだ。
    脚本家は、自分の書いたシナリオを何回も書き直しを命じられ、しかも映画は遅々として進まない。
    映画館は、観客の入りが少なく、手放そうかと悩んでいる。

    想像していたような自分になっていないからだろうか。
    そんな男たちは、「なりたかった自分」を振り返る。
    「もし、そうだったら、どうなっていたのか」と。

    映画のエピソードに登場する監督も同じだ。
    過去に素晴らしい作品を撮ったのらしいのだが、今度こそは自分の思い通りの作品を撮りたいと四苦八苦している。
    迷走する映画制作に、俳優やスタッフたちもうんざりしている。
    資金も底を尽きそうだ。

    監督は、「昔の自分」に囚われすぎているからこそ、「新しい自分の作品を作りたい」と思っているのだ。つまり、過去から逃げられないままなのだ。
    脚本家を含め周囲からは、監督に対して「昔のような」作品を撮ってほしいとプレッシャーを掛ける。

    映画館の館主は、少年の頃の自分と、姉とその恋人になるはずだった復員した足の悪い男のことを思い出す。
    それも「あのとき姉が彼を追っていたら」という想いが募っていく。それは自分への後悔でもある。8ミリフィルムの中にそれを留めていく。

    どうも誰も彼もが、「昔」にがんじがらめに縛られているようだ。

    監督は、結局過去から逃げられずに、映画を諦めてしまう。その結果、脚本家は前に進むことができたのか、と言えば疑問である。
    脚本家は、実は映画館館主の妄想のひとつであったようだ。ラストで館主に集約していくことからそうとわかる。

    映画館の館主は、結局は、映画館を手放すことを決意する。しかし、それで前に進むことができたのか、と言えば、やはり疑問だ。
    唯一、映画館の撮影技師(映画館に引き籠もっていた)だけが、外に出ることができて、新しい一歩を踏み出すことができただけ。

    過去に囚われた館主が見た夢だからこそ、誰もが「過去に囚われている」。つまり、なりたい自分=脚本家になったとしても、彼は(自分は)過去を振り返っただろう、ということなのだ。

    ラストに映画館館主は、自分の過去たちと妄想の自分と、これから取り壊されてしまう映画館の座席に楽しそうに座るのだ。
    これは、「過去の自分」を「映画館とともに」、「葬り去る」のではなく、過去に囲まれた、つまり「過去に囚われたまま」の自分の姿ではないのか。
    だとすると、少々救いがないような気分だ。

    映画館館主のように、ある一定の年齢以上になってしまうと、もう先は、こんな風に「閉じること」しかないのか、と思ってしまう。過去に引きずられ、過去を振り返り、過去に囲まれて……。
    なんともやるせない気持ちだ。

    また、テント芝居の常として、ラストは舞台側の後ろを開けるのだが、意味を見出そうとすればできないこともないのだが、この作品ではイマイチ意味合いを感じなかった。
    ヒマワリの花が座席に咲いていたのだが、もっと先へ広がるような、スペクタクルな、視覚的にも意味合いにおいても、視野が広がるような展開がほしかった。パッと気分が晴れるような、そんなラストが。

    『幕末太陽傳』のタイトルで、舞台のオープニングの印象からも、それをベースに物語が展開するのかと思っていたが、それは外れた。少し残念だ。川島雄三をもじった松島雄三という名前の監督が出てくるだけ。
    川島監督は名作『幕末太陽傳』を撮ったが、松島監督はそのリメイクの撮影自体を断念してしまう。「川島監督と映画へのオマージュである」とフライヤーには書かれていたが、少なくともこれでは川島監督へのオマージュになってもいないのでは。まあ、全体的に「映画」がキーワードとなり、随所に映画のタイトルや映画に関するエピソードが散りばめられていたが。

    演出は、飽きさせないためか、あるいは暑いので舞台への集中度を下げないためか、シーンごとにダンスなどのモブシーンがあり、その都度、舞台の上が華やかになる。暑いのに、衣装も早替えして出てきて、全員の動きもとてもいい。見応えも見栄えもあるモブシーンだった。
    そして、テント芝居なのにセットがとてもいい。
    場面展開もスムーズ。
    ただし、笑いが出るシーンが、役者が声を張りすぎてしまうので、笑えないのは残念ではある。

    映画館館主役の下元史郎さんが、渋いしぼんだ感じがいい。ターザンとのギャップには笑った。
    姉役の松本紀保さんは、変に声を張らなくてもきちんと台詞が通り、ひとり涼しげで、きりっとしていたところに好感が持てる。

    客席はそれなりに暑いが、舞台の上は常に熱く、濃い、いい舞台だった。


    テントのずっと後ろのほうから、台詞の練習のような声が聞こえていて、「今ごろ台詞の練習しているのか」と思っていたら、それは境内で漫才の練習をしている若い人たちの声だった。そうとわかってしまえば、それも楽しい新宿の喧噪のひとつ。
  • 満足度★★★★★

    ひとつの伝統芸能
     私はかつての前衛劇団が、ひとつの様式に収斂し伝統芸能化することに対して批判的であるが、椿組に関してはむしろその点こそが好ましいと思う。
     それは二つの理由による。ひとつは椿組の作風の背景に、河原乞食や村芝居の伝統、祭などの民衆に内在するエネルギーの噴出のようなものを感じるからだ。様式化され高尚なもののようになってしまった伝統芸能ではなく、民衆の中から必然性をもって生まれた芸能の歴史を背負っているように思う。
     もうひとつは椿組特有の演出技術が、形骸化はしておらず、その方法にも有機的必然性が感じられるからだ。群集劇の手法は無名の民への視線であり、脇役は主人公を盛り上げるだけの存在ではなく、脇役も自立した個である。それが群集劇という同時多発性によって、近代劇の物語構造を相対化している。それは主人公中心主義、物語中心主義という演劇表現への批評であると同時に、力を求める(崇める)社会に蔓延する考え方への批評にもなり得ている。

    ネタバレBOX

     ラストは、舞台上に客席が作られ、その客席から役者たちが本物の客席側を見るというもの。これは二重の意味として提示されている。ひとつは、それまでの物語の続きとして「映画を観ている観客」という場面として。もうひとつは、「役者が観客を見ている」というメタ演劇として。ここで同時に屋台崩しも行われ、それまで行われてきた劇空間の虚構性が暴かれる。それによって、観客は舞台という嘘を見るのではなく、自身の実人生、その物語を生きなければならないということを自覚させられる。
     これを後者のメタ演劇としてのみ捉えると、ありがちな「前衛の常套句」のようにも思えるのだが、前者の虚構世界が持続しているようにも見えることによって、虚構と現実が混在したものとして残る。カタルシスと反カタルシスが同時に押し寄せてくる。芝居の内容が「映画における虚構と現実」というテーマをいったりきたりしていたために、それまで積み上げてきた芝居によって、屋台崩しをしても虚構が崩れきらない。むしろ、現実こそが虚構を内包しているというようにさえ受けとることができる。

     芝居の最中、私の少し前の席で、芸能界の人間らしき人(役者とマネージャーだろうか)が、途中から席に着き、芝居の途中で出たり入ったりを繰り返していた。気が散るのも嫌ならば、芝居を観る者としての不誠実さも嫌だった。出ている役者への義理か何かで来ていたのだろう。自己顕示欲の塊とそれを利用して金儲けという人が芸能界にたくさんいるのは自明のこととして認知しているが、椿組の芝居にもそういう人が観に来るのだということにも驚いた。これは愚痴を書いているのではなく、この客席で行われていた一連の出来事が、不思議と舞台で提示されている内容と響き合っていたと(個人的体験なのだが)思った。

     群衆の1人なのに何かとても気になったのは、横山莉枝子さん。注目されない部分でも丁寧に演じていたということなのか、存在感があるということなのか、、、ちょっとわからないけれど。
  • 満足度★★★★★

    相変わらずの熱い芝居でした
    椿組花園神社野外劇三十周年記念公演「贋作 幕末太陽傳」

    芝居が始まる前、何も知らない連れが下元史朗さんからアイス最中を買い、一緒に食べました(笑)

    そして、劇中で映画館に貼り出されていたポスターがフェデリコ・フェリーニの「道」で、ジュリエッタ・マシーナとアンソニー・クインがデカデカと描かれていて個人的にはツボでした。

    フランキー堺の映画を予習していたのですが、内容的には全く(?)関係なく、映画を作る方の脚本家と映画をかける方の場末の映画館主がお互いを別の自分としてシンクロする芝居。

    やりたい放題の監督に翻弄される脚本家、経営難で潰れかかった映画館を愛して止まない映画館主。

    この二人の映画への愛が物語を紡いでいく。笑いあり、涙ありの素敵な芝居。

    ワガママな監督、金策に奔走するプロデューサー、鼻につく売れっ子俳優、映画館に暮らす映写技師、映画館主を支える健気な妻などなど、生き生きとした登場人物が素敵。

    因みに最前列で並びの直ぐ隣にに流山児さんが居てビックリでありました(笑)

このページのQRコードです。

拡大