リア王 公演情報 リア王 」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
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  • 満足度★★★★★

    シェイクスピアにはまだまだ「お宝」が潜んでいる
    文学座の公演で、江守徹さん主演。
    鵜山仁さんの演出なので手堅いだろう。
    『リア王』なので、3時間ぐらいの舞台になる。

    いかにも「正統派」的な舞台が観られるのだろうな、と思っていた。

    ネタバレBOX

    文学座の公演で、江守徹さん主演。
    鵜山仁さんの演出なので手堅いだろう。
    『リア王』なので、3時間ぐらいの舞台になる。

    いかにも「正統派」的な舞台が観られるのだろうな、と思っていた。

    ただし、江守徹さんは、少々呂律が怪しい感じもあるので、そのへんどうかな、とも思っていた。

    休憩15分を含み、2時間55分ぐらいの公演だった。
    しかし、グッと集中して観ることができた。

    舞台は、ほぼ素で舞台の構造が見える感じで、全体が白く塗ってある。
    上手・下手の奥には、天井にも届くぐらいの紙が置いてあり、それ以外はイスがある程度。

    役者を観てくれ、と言わんばかりの舞台セットだ。

    今回の、この舞台を観て、『リア王』はいろいろな手法も含め、何回も観ている演目にもかかわらず、新たな発見、見方があったということに、驚いた。

    文学座という老舗の劇団で、江守徹さんが主演をし、鵜山仁さんの演出なので、オーソドックスなシェイクスピア劇を楽しめると思っていたのだが、そうではなかった。

    いや、これこそが「オーソドックスなシェイクスピア劇」だったのかもしれない。

    それを感じたのは、まずは「台詞」だ。

    シェイクスピアの作品だと、ストーリーを追うために台詞は丁寧に聴いていくのは当然ながら、言い回しや、内面の吐露などが、少し鬱陶しいという印象を受けることも、ときにはある。
    しかし、今回は、少し違った。

    台詞の1つひとつが、きちんと耳から気持ちにも届くことが多いのだ。
    台詞の言葉を納得しながら、聴いていた。胸に響いたりもした。
    これには少し驚いた。

    「なるほど」なんて思いながらシェイクスピアを観たことがなかったからだ。

    この舞台には、若手と古株の俳優さんたちがいる。
    彼らにとって、そこは戦場だ。
    彼らの、前への出方と引き方がうまいのだ。
    そのやり取りには火花が見えるよう。

    だから、台詞の1つひとつが粒だっていて、耳へ、気持ちへ、届くのだ。

    次に感じたのは「老い」。
    リアが娘たちに王国を相続させる話であり、王という立場からの見方しかできないことの悲劇であると思っていたし、その根本には「老い」はあるものだと、思っていた。
    しかし、本当の意味での「老い」とは、「王であろうとなかろうと関係のない」ところにあるということなのだ。

    末娘の反応が自分の思っていなかったことで癇癪を起こすのだが、それは何でもできる「王」であることが理由ではない。
    「老いた」ことが原因なのではないだろうか。
    思い込んだことは簡単に変えられないし、その思い込みもきつくなっている。

    江守徹さんが演じるリアを観ていると、その頑なさが、切なくなってくる。
    「老い」が全身から滲み出てしまうから。
    声もよく出ていて、オーラさえある人なのに、老いには勝てない姿が、舞台の上にあるのだ。もちろんそれは役者の実年齢のみがなせる業ではない。
    演技と演出によって、そう見えてくるのだ。

    息子を信じることができなかったグロスターにもそれを感じた。
    だから、目をえぐられたグロスターが、リアと再会し、手を握り合う2人の姿は、ストーリー以上の哀れみを感じざるを得なかった。

    老いたことへの「報い」はこれであるのか、と。
    2人の老人は、実の子どものことを信じられなかったことで、最悪の罰を受けることになる。
    それが「老い」とは切っても切り離すことができない、と、この舞台を観て、リア王で初めて感じたのだ。

    先にも書いたが、休憩を含み3時間近い上演時間なのだが、鵜山仁さんの演出が、とてもスピーディなので、観やすい。場面展開もサクサクと進み気持ちいい。

    上手・下手に立てかけられた大きな紙を使った演出もうまい。
    激しい音を立てて、紙が取り払われたり、その残骸が舞台の上に残ったり、で大きな効果を生んでいた。

    さらに、細かい付け足し(だと思う)の味付けがとてもいいのだ。

    例えば、目をえぐられたグロスターがドーバーへ向かおうとして、領地に住んだいる老人に案内させるシーンがある。そこへ身元を隠した息子・エドガーが現れ、グロスターの案内を買って出る。グロスターは、エドガーに財布を渡すのだが、その財布から、老人が、金を1枚だけつまみ出して持って帰るのだ。これが面白い。老人が金を抜き取るのが、あまりにも自然で、エドガーも「あれっ」と少し思う程度なのだ。老人役の高瀬哲朗さんのタイミングも見事なのだが、そのシーンを入れたことで、老人自体が活きて舞台に現れたのだ。

    また、姉2人のシーンも、いい。
    特に、次女・リーガンと恋人・エドマントのやり取りと、別れ際、さらに長女が現れてからの、姉妹の距離感と呼吸感のようなものが、見事なのだ。

    長女の執事が功を焦って、グロスターを亡き者にしようと襲ってきたときに、エドガーにあっさりと倒されるシーンでの、エドガーの台詞「弱い」のひと言には笑った。間がいいので笑えるのだ。

    役者ももちろんだが、うまい演出だなと思った。と

    役者さんたちのうまさは安定していた。

    江守徹さんは、やはり少々呂律が厳しいところもあったのだが、最初のほうのシーンで、末娘に激高する台詞が、力強く響き、「この舞台はいいぞ!」とすぐに思ったほど。
    ほかの役者さんたちは、そのリア王に真っ向から立ち向かう。
    この胆力がある、江守徹さんだから、変に気遣ったりする必要がないからだ。

    ケントを演じた外山誠二さんあたりは、リア王を喰わんばかりに、グイグイくる。
    少しばかりカッコ良すぎるのでは、と思ったぐらい。

    道化を演じた金内喜久夫さんも素晴らしい。道化の台詞もきちんと伝わってくるのだ。しかも、笑わせてくれる。
    「今まで観てきたリア王の道化って何だったのか?」と思うほど、リア王へ掛ける言葉が活き活きとして聞こえるのだ。台詞がリアに対する嫌みではなく、「本音」として聞こえてくる。それを受け答えるリアの江守徹さんは、見事に「王」であるのだ。

    リアの長女・次女を演じた、郡山冬果さん、浅海彩子さんのタイプの違う悪女もいい。実にカッコいい。単なる「悪いお姉さんたち」ではない。
    傲慢で、彼女たちの欲望が露わになってきてからの、短いシーンや、台詞がいちいち効いてくる。

    演出については、長女の婿が、グロスターの目をえぐるところから、豹変したように狂ってしまうのと、長女の執事が倒されるときに、言い残したことを言うために何度も起きたりするところは(笑ったけれども)、少しやり過ぎかなと思ったりした。

    この舞台の最大の見せ場はラストにあった。
    それは、末娘・コーディーリアが殺され、リアが嘆き悲しむシーンだ。
    「非劇的だな」と思ったことはあったが、悲痛さをこんなに感じたことはなかった。
    リアの悲しみが、痛いほど伝わってくるのだ。
    胸に迫るものがあった。
    『リア王』を観て、こんな体験は初めてだ。
    これだけで、江守徹さんが凄いと思った。
    多少の呂律なんてどうでもいいと。
    先にも書いた「台詞が1つひとつ胸に響いたりもする」ということが、ここの結実したと言ってもいいだろう。

    シェイクスピアにはまだまだ「お宝」が潜んでいる。
    それは小劇場系劇団だけではなく、文学座のような老舗劇団であっても、見つけることができるということを強く感じた舞台だった。

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