集大成か、実験か。
2劇団の合同公演だが、それぞれの作品は独立しているため一方だけ観劇しても問題はない。とは言え、せっかくひとつのテーマを軸に構成しているのだから、両作品を合わせた全体像として感想を書くことにする。
役者の演技や演出効果については、さすがに安定感のあるレベル。何気なく配置されているように見えた椅子すべてにピンスポットが当たった場面(前日譚)や、CDラジカセから流れている音が次第にボリュームアップしてシームレスに音響に繋がるところ(後日譚)は、さりげなく高度な計算と技術を感じた。
だが、演劇としてはかなり実験的なものだ。物語の中心には廃校式典での殺人事件が置かれているが、事件そのものは描かれない。こういう構成の場合、前日譚で事件の原因が伏線として描かれ、後日譚では真相が解明されるといった形になるのが普通だろう。しかしこの公演ではどちらもほとんどない。
パンフレットには事件を伝える新聞記事が載っており、そこにある被害者や犯人の名前と物語の登場人物名を照らし合わせれば、どの人物がどのような形で事件に関わったかは把握できる。だが、それが作品を鑑賞し理解する上でどの程度の意味を持つかというと、ほとんど意味はなかったと思う。
例えば後日譚に幽霊として登場する女性は事件の被害者だが、彼女がいかにして死んだかは作品の中でさほど意味を与えられていない。後日譚の中心は、妹を失った兄とその友人達の弔意と告別であり、事件の真相などには興味がないしむしろ触れたくもない心情こそが描かれている。
まだ事件が起きていない前日譚において、その傾向はますます顕著だ。1年後に殺される子供や犯人となる男はセリフの中でのみ登場する。解釈によっては事件に繋がる伏線はもちろん含んでいるのだが、前日譚そのものは別の事件が中心であって、殺人事件の原因が明示されることはない。
つまり、前日譚と後日譚は互いに独立した作品であるだけでなく、全体の中心となっている殺人事件からさえも独立している。事件はそれぞれの物語の背景として抜き難い存在ではあるけれど、それはあくまでも背景であり、決して366日離れた時点から事件を描いているわけではなかったのだ。
だから、事件に繋がる多くの背景事情が見え隠れするものの、最後まではっきりと表に出てくることはない。それが企画の狙いだとするなら、それは成功していただろう。ただ、そういう作品であるという心の準備ができていない観客には、多少のストレスや欲求不満が残ってしまう。
現実は常に不完全であり、完成された起承転結が存在することを演劇の嘘臭さと捉えるなら、それを排除するのもまた面白い試みと言えるのかもしれない。けれど現実に生きている私たちは、現実のコピーを求めて劇場に足を運ぶわけではない。だから私はこの公演をあくまでも実験的なものとして受け止めたいと思う。