兄おとうと 公演情報 兄おとうと」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
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  • 満足度★★★★★

    極めた舞台 時代の危機感鋭く
    吉野作造と10歳年下の弟、吉野信次を中心に据え、その兄弟のそれぞれ妻である姉妹、先々で出会う人々を通して、明治、大正、昭和と23年に渡る激動の時代に生きたひとびとを描く。

    大正デモクラシーの時代から関東大震災を経て、軍国主義の足音が聞こえてくる昭和初期を舞台にしているため、国家や法律、天皇と軍など、この芝居のもつテーマはたくさんある。議会の存在感の薄さ、憲法改憲や集団的自衛権の行使容認など、大震災を一つの契機として、「国家の暴走」を危惧させるような世の中になりつつある現在の日本。「普通の人々」が右傾化し、「常識」と言われてきたものが威勢のいいほうに流されていく社会。初演から11年、4回目の上演だが、今回ほどこの戯曲の抱える予言的な警告が、ストレートに観客の心を揺さぶる時代はないかもしれない。

    ネタバレBOX

    井上ひさしの戯曲は常に一種の「近代日本人論」であるともいえる。晩年は特にその色を鮮明にしていった作品が多い。2000年代以降、近代日本を扱った作品がほとんどを占め、この『兄おとうと』と遺作『組曲虐殺』が関東大震災前後、それ以外はすべて戦中戦後が舞台だ。どれも近代の「日本人」が形成されるうえで極めて重要な時期を、繰り返し扱っている。


    われわれはどこからやってきて、どこに向かっているのか。それはとどのつまりわれわれは何者であるかを問うことを意味する。未来を展望するときに過去の過ちに目をつぶっていては同じ過ちを犯すに決まっている。演劇は、古よりひとびとが無意識に忘れ去ろうとしている記憶をつなぎとめる装置としての役割を果たしているのだ。
    いま、単なる盲目的な護憲運動でも、日和見的な平和主義の擁護でもなく、この芝居がこうした社会装置としての演劇の役割を果たしているといえよう。それはなぜか。


    そもそも「憲法」とは何か、なぜ必要なのか、「普通の人々」のしあわせとどうつながっているのか、という根本的な問いが発せられていて、それに誰にでもわかることばで明確な回答がなされているからである。「三度のごはん きちんと食べて 火の用心 元気で生きよう きっとね」という言葉にすべてが集約されている。国民主権の国家の役割は国民が「三度のごはん きちんと食べて」という最低限の人間的な生活の保障と、「火の用心」という、事件や事故によって命を奪われる危険を回避するための「法の下の秩序」を表している。この「国民の願い」を担保するものこそ「憲法」である。


    重要な点は、幕切れ近い場面で、この真理に、民主主義学者の作造と、官僚主義者の信次が同時に気づくことである。同時に気づくがその解釈が正反対である。憲法は国民が国家に下した命令であるべきであると説く兄と、憲法に謳われた国民の生活を守るために、国家が法の網をめぐらせ、法律で管理するべきだと捉える弟。この決定的なズレと溝は埋まらないまま二人は最後に和解し、温泉の湯に浸かりに行くのだ。それはこの兄弟にとって最初で最後の機会だった。なんと愛しくも切ない場面であることか。


    この戯曲で描かれる作造の弟信次は、実際に官僚から大臣や政府の高官を歴任した、いわば「国家」の代弁者でもある。この芝居においてはわかりやすいヒールを担っている。慈愛に満ちた兄のヒーローぶりを際立たせているのは、彼の国家の代弁者としての「正論」と、社会の「仕組み」を重視する「為政者」の論理だ。たびたび災難に見舞われるたびに頭をもたげる信次の論理「ごめんなさいで済めば警察はいらない」はまさに原理主義的な「法の下の秩序」であり、法が犯されることは近代国家の崩壊に直結する、とすぐ大騒ぎする滑稽で大げさな警戒感は、統治装置としての国家のメカニズムをよく表している。


    対して終始飄々として、泰然自若の感がある作造が、憲法の原理を解く場面では、市川の青年会の前での演説練習の体をなして観客に直接講義がなされたり、終幕で直接的な軍国主義政策の危険性、議会制民主主義の危機への警鐘が叫ばれたりする場面では、リアリスティックな時空を超えた独白がなされるなど、ドラマウィズミュージックの軽快な作風の中に、伝えねばならないことは極めて鋭利な手法で際立たせている。演出と俳優の覚悟や決意が観客の胸を打つ。


    ただやや気をつけねばならないことがある。それはこの芝居が、護憲運動のむなしいカタルシスのはけ口になってしまわないようにすることである。再演であるがゆえに、観客のこの芝居に対する改憲や憲法解釈変更、集団的自衛権の行使容認など、「議会の外で行われている横暴」に対する怒りや不安はいつにも増して一層強い。だから幕切れにはそれ相応の演出の変更がなされていた。過去と現代の危険な一致を、芝居のイメージとして抽出できる、演劇の力を信じる者にとっては、やや食傷気味。ただ、特に若い世代など、眼前の舞台と現実のリンクに努力のいる観客にとっては非常に有効な手段なのかもしれない。『木の上の軍隊』でのオスプレイのヘリの音に通じる、今回の時事的な用語の視覚的な登場は、作り手の危機感は理解できるが、(『木の上―は蓬莱竜太作だが)井上戯曲の普遍的な力を信じ切れていない気もして個人的には複雑だった。とはいえ、演出も音楽も、また俳優陣の演じ方も、井上ひさしの眼差しを受け継ぎながら、自分たちの受け継いだ財産をさらに磨きをかけて披露するがごとく、旅公演を重ねて完成された舞台からは、作品に新たな息吹を感じさせるような、熱気というよりも覇気のようなものすら感じた。憲法や国家を論じることは大切だ。しかし実感を伴わないような鷹揚なことばに踊らされることなく、若い世代にもっと劇場に足を運んでほしい。劇場に来て、芝居を観て、感じて、それから考えてほしい。足元のおぼつかない、非常に高齢化した平日マチネの客席に、一抹の不安を覚えたのは杞憂であってほしいのだが。

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