満足度★★★★★
かつて観たことが無い位、美しい舞台。そしてエッジ
この舞台に登場する俳優たちが、それぞれの中に
全く異なる美しい宇宙を持っていることには、疑いの余地がないように
自分には思われます。
かつて近江八幡の古い蔵を使った美術館で、
いわゆる「アウトサイダー」と呼ばれる人々が、
それぞれの中に全く異なる宇宙を内包していると
勉強させていただいて以降、
自分は自分なりに、
この種の名称で呼びならわせられることがある人々に、
自分を超越する宇宙の広がりを湛える人々として、
特別な敬意を払ってきたつもりです。
彼らが一種の天才であることを自分は確信しています。
ただ、この舞台は美しいだけではない。
舞台裏の制作風景をフィクションとして(ドキュメンタリーではなく)上演しながら、
観客の自分たちにも鋭い問いを投げつけます。
「果たして自分はフリーク・ショーを見に来た変態ではないのか?」
自分は考える・・・なんで見に来たのか?
ここに来るまでの道を思い出す。
自分なりの答えとしては、「見たことがないから」
アウトサイダーと呼ばれる人々の美術、演劇、音楽は、
それぞれまったく別の次元の宇宙ではないかと思われるほど
共通点がない。
誰かを見たからと言って、それと同じものが別の団体にあるわけではない。
そもそも、美術作品を見ればわかるように、
この世界には、ひとりでピカソをしのぐのではないかというような
巨大な世界を持った人間が市井に多数存在している。
それぞれがまったく別の星なのだ。
アインシュタインやモーツァルトが同じ舞台上にいる姿を想像してみると良いと思う。
最終的にどんな舞台になるか想像できないハズだと思う。
劇団ノートに、演出家が、彼らがオーストラリアで最も優れた役者、と言っているのは
本気でそう感じていたのだと思う。
先入観抜きにしても、彼らが演技で叫んでいるのか本気なのか全くわからない。
それは、自分たちの目が偏見で塗れているというよりか、
単純に演技が迫真に迫っていて区別できないのだ。
たぶん、ヨーロッパの人々は自信をもってそう言い切れるから、
高い評価につながったのだと思う。
憐憫の心でヨーロッパの人々が高い評価を与えるようなことはないと思う。
「アウトサイダー・アート」の歴史が日本より遥かに長いヨーロッパの人びとは、
彼らの宇宙の深さを良く知っているのだと思う。
満足度★★
複数のレイヤーによる表現
知的(身体的にも)障害を持った役者達が劇中劇の構造の中で演じることによって虚実が曖昧になり、演技におけるリアルさについて考えさせる作品でした。
像の頭を持つインドの神ガネーシャがナチスに奪われた卍印を取り返す為にベルリンに向かうという物語と、その作品の稽古風景の2つのレイヤーが交互に描かれ、知恵遅れのメンバーが虚構と現実を切り放せず役者と役柄を同一視してしまうことから話がややこしくなって行き、後半ではさらに客席にいる観客を取り込んだ(ただし、「今現在」そのものではない)レイヤーが現れる構成でした。
劇中の「演出家」が「権力者」に重ね合わされていて、演出家が自身の思うようにコントロール出来なくなった劇団を去り、メンバーの1人が暗い中でテーブルの下に寝そべって、演技なのか素なのか分からない状態でいるのを長い時間見せるラストが印象的でした。
物語の構成としては良く出来ていて興味深かったのですが、実際のパフォーマンスとしてはあまりメリハリがなく単調(それも意図的だったのかもしれませんが)で、100分の上演時間がかなり長く感じられました。
「障害に負けずに頑張る人々」あるいは「フリークス・ショー」を期待する観客を皮肉った台詞もありましたが、その台詞自体が特殊な形態の劇団であることに負っていて、フラットな視点で作品を評価する難しさを感じました。
背景や建物のシルエットが描かれた透明ビニールのカーテンを何層にも重ねて、もやの掛かった様な奥行き感のある表現をしていたのが美しく、カーテンの複数のレイヤーが作品の物語構造にも繋がっているのが印象的でした。
後ろの方の席で観たこともあって、マイクで拾ってスピーカーを通した声しか聞こえず、生の舞台の魅力のひとつである立ち位置や向きによる声の空間性が全く感じられなかったのが残念でした。