満足度★★
落ち着いたお芝居
小屋の規模に対して予想外の造り込みに驚かされました。
座りも多く、床面で描いている様などもあったので、いっそ八百屋にでもなっていればもっと覗き込めたのかなと。内容も相まって全体的にこざっぱりし過ぎていて、とりたて印象に残りにくかったです。
満足度★★★★
芝居への愛が溢れている
芝居に対する愛の溢れかえった舞台だった。
タイトルの「きさんじや」は北斎の辞世の句「人魂で 行く気散じや 夏野原」から得ている。
が、戯作者、狂歌師の朋誠堂 喜三二などがちらとでも思い浮かんだ人は、何も知らない人より倍以上楽しめる、そんな「芝居好きによる 芝居好きのための芝居」だ。
筋は極めて明快で、若き鉄蔵(のちの北斎)が下駄商「伊勢屋」の婿主人佐七郎(のちの曲亭馬琴)のところに居候している、という設定で、鉄蔵を中心に取り巻く人々の群像劇である。それぞれの人物が重複することなく個性を発揮している俳優陣は見ごたえあり。歌舞伎の女形にある「世話女房」の型に乗っ取ってお百を演じた木下ますみが特に好演。
実在の北斎、馬琴、蔦屋重三郎と、北斎の次女お栄(のちの葛飾応為)を軸に、架空の人物を絡めながら虚実ないまぜの物語が展開する。
史料を駆使し、読み込み、ふんだんに盛り込まれたインテリジェンスを巧みに取り入れた劇作が、安定した会話劇としての構成を生み出している。観客はこの下地を理解して劇世界に入っていくわけだが、最初の段階で了解すべき事柄が予想以上に多く、物語の運びが最初の30分ほど停滞する。やや欲張りすぎた感はある。作者の予防線のような気がして、もう少しのびのびと自由に書いても、と感じてしまった。冒頭の場面の背景である、異常に多い改号の逸話と、終幕の没後の辞世の句を紹介する場面は刈り込んだ方が、中心となる物語により集中できる。
芸術家のスランプ、親子の愛情、すれ違う若者の恋・・・。そして見守る亡霊。物語の運びは「どこかで見た」ようなものが続き、真新しさはない。そう書くと批判に聞こえそうだが、観客は了解すべきことが多いので、それが安心して楽しめる要因ではある。ドラマを構成する様々な手段を次々に繰り出す手腕は優秀だ。独白は多用されず、おかれた状況と表情で心情の細やかな擦れ違いを描くのは、どことなく岸田國士を想起させる。
装置は一杯飾り。鉄蔵が居候している板の間が象徴的に造られた柱や壁で覆われており、全場面を通じて美しく機能的だ。奥行きのほとんどない劇場ではなかなか見られないしっかりした造りだ。欲を言えば劇場の狭さ小ささが残念。舞台空間全体を俯瞰してみることが困難な点だ。間近で観られるということは、舞台の細部まで劇空間を構成しているということだ。最前面の壁を表す太い欄干は裏打ちするなど現代の産物であるビスが堂々見えない工夫が欲しい。
また転換の都合もあるのだろうが、伝説的に「不潔」で有名だった奇人、北斎親子の部屋の異様がいまひとつ感じられなかったのは残念。飾りがこの親子の「奇人」ぶりと同時に「非凡さ」を表現し、俳優を援護射撃してほしい。
時代物を演じる時に問題になるのが、どこまで「時代劇」にするのか、という点である。衣裳は和装をふんだんに用いて、きちんと着こなしている。
ところが(というか当然ではあるが)頭髪に関しては男性は完全に現代のそれで、女性は後ろでまとめる、という一つのコードを形成している。北斎の剃髪というのは史実はどうであれ独自性があるのに佐七郎は、である。髷というのは省略されやすい部分ではあるが、ともすると身分や人物関係を表現するのに大切な「道具」である。江戸時代のコードにこだわった視覚効果にこだわるほど異化効果の役割を担うことになる。よく稽古されていても、歌舞伎俳優ではない出演者には仕草や身振りにも現代人の身のこなしが反映されてしまう。
装置、衣裳、江戸訛りにもこだわった秀作なので、頭髪を含め、衣裳や装置にもこの舞台空間限定のコードを取り入れるという逆転の発想で処理することも出来よう。
総じて優等生的にまとまった印象を受ける。それ故に世話物として安心して最後まで観られる良さはあるのだが、より際立った冒険と挑発、挑戦も見てみたい。