無欲の人―熊谷守一物語― 公演情報 無欲の人―熊谷守一物語―」の観てきた!クチコミ一覧

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    『無欲の人:熊谷守一物語』は,仏教的無の世界
    劇団民藝『無欲の人:熊谷守一物語』は,仏教的無の世界

    西洋には,「無心」はなくて,東洋にはそれがあるという。逆にいうと,キリスト教のひとたちには,「心」がすごくいっぱいある世界なのかもしれない。知識があって,論理があって,理屈をいいたくなるものである。あるから信ずるのでなく,信ずるからある,というのが,宗教だろうが,これが,東洋では徹底している気がする。

    ことばに表して,だれかに,何かを伝えようとする。そうする場合,論理とか,理屈で,その内容がつたわると思われる。一方,寓話などのたとえで,直観的に,意図するものが他者につたわっていくことも多い。演劇でも,これは同じであろう。ほとんどの演劇は,どちらかであり,直観的なものでは,形式美に重きを置いて,内容的には比較的単純なのだが,感動できる演劇もあるだろう

    論理・対立の世界には,それはそれで良いところもある。にもかかわらず,論理・対立の世界に執着し過ぎると,善悪などの価値も絶対のものに思えてしまう。ある,とか,ない,とか言うことを,どこかで超越したい。西洋的論理では,すごくたいへんで,聞いていても,思考のための思考みたいなものに陥る。

    その点,仏教のひとたちは,昔から,論理・対立の世界に埋没するのは,束縛だったり,窮屈だったりとあっさり,思考に埋没しないところがあると思う。絶対的に他者に身をゆだねるとか,自分の意志をもたないこと。そういう仏教徒なら意外とあたりまえに持っている姿勢だ。

    見方かえると,なんだか,いい加減で,無責任にもみえそう。しかし,漠然とそこに自分はいる。でも,人格とかそういうレベルまではいかないかもしれない。つまり,論理とか,文字ばかりにべったり頼ることは,そこではないのだ。こういうひとは,能率至上主義なんか嫌う。なんでもゆっくりやる。

    でも,だからといって,死んだ世界が仏教の世界だともいえない。仏教観では,みんな生きているんだ。庭の中で生きている虫や,花も,確かに生きている。だとすると,ものを考えたり,しゃべったりするような命ではないけれど,広い意味の生きるって意味あるはずです。なので,人間が死んでも,生はどこかに継続されちゃうていうことで,死んでいる人も,死んでいく人も生きている。

    論理・対立の世界観では,まっこと,生きる・死ぬが最大のテーマでもあるが,必ずしもそれだけじゃない。だいたい,その西洋的見方では,客観的に考えたいけど,科学などそういう傾向があるが,自分の見るもの以上に見られないという意味では,真の客観なんてなくて,大なり小なりの主観ばかりが人間。

    というわけで,大胆に,対立の世界を完全に否定すると,どういう人になるかとというと,それは菩薩だったりするわけです。天地とともに,生きるんだ。死んだといっても,まあ,上記のような生は連環して,生きて続いているかもしれないのだ。だれもそれを,確認できないだけなのだと。

    死んでからの往生に留まらず,現在も生きていて,「往生」というものあるかもしれないわけですね。葉が落ちたり,花が散るのを見る。春になれば,また,花が咲く。見るものと,見られるものの間に,「無心」がある。人間は,生物を殺して生きている。でも野菜だって,生きていると考えたら,食べられない。

    春になれば,花が咲き。秋になれば,草や,木の葉が落ちる。天地の心に背きながらも,背かない。有心も,無心もなく,道徳すらも超越する。だいたい,「我」なんて意識は,人間だけにあるのでしょう。これを捨てちゃうと,人間でもなくなってしまうのかしら。いや,仏教は,この「我執」を捨てることをすすめる。仏教の世界は,西洋哲学系のそれともちがうけど,ある種の心理学にほかならないようですね。

    参考文献:無心といふこと(鈴木大拙)

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