公演情報
「虚構喜劇『野外劇 観客席』」の観てきた!クチコミ一覧
実演鑑賞
満足度★★★★
観に行けた。幸なり。四日間4ステージいずれも16:30開演、日照の変化を測っての設定は野外劇ならではで希少感をくすぐる。制作担当に梁山泊ステージで圧倒した女優の名があり、オヤと思う。年齢と共に裏方に回る実力派を散見する劇界の現実を思ったが、ちょっと調べたら引退の齢にあらず杞憂であった(多分だが)。
余談はともかく・・寺山「観客席」だ。
成る程。70年代にこれをやっていたのか・・と驚き。無論「今」が盛り込まれたステージであったが。市街劇など様々な演劇的試行を残した寺山修司が「観客」にスポットを当てるなら当然、安全圏にいる観客と身をさらす俳優との関係の主客逆転を発想するだろう。大枠その通りであったが、これを挑発的に、また面白く視覚化する趣向、アイデアには舌を巻く。
「観客参加」場面がある。これを仕切っていた寺田結美が流石であったが、これを「この試みは失敗であった」の台詞で締める。奇しくも観客参加型というのは巧くいかない事が多い、というより、観客個々人が己を表現するというポテンシャルを持つには、そもそも一つの舞台のために役者も身体を酷使して繰り返し稽古をするのであり、同じ立場にイチゲンの観客を立たせるのは「無理」なのである。
一方で演劇なり「上演主体」が持ち得る影響力は侮れない故に、「観客よ、簡単に騙されるな」という警告は有効と言える。
一時間半の上演の中身は多様で密度が高い。終盤「プロの観客」なる概念が頻出する。心許ない俳優の演技も観客の拍手、笑い一つで生かされる。かつてのTV番組では拍手屋、笑い屋が居て拍手一回に200円、笑いに300円がもらえた。稼ぎになるから私は喜劇が好きだった、等の駄弁がまことしやかに。そして耳が痛くもあるが「観客」の本質を言い当てているのが彼らの「批判」(劇評)であり、「何が上演されようが、たとえ観なくとも、こんな劇評は書けてしまう」と紹介される「いかにも」な芝居を観ての劇評が穿っている。「総じて演出が時代がかっており、身体表現も一時代前を思わせる」「だが役者に光るものあり」「今後に期待したい」・・褒める所がなければ役者は褒める、役者もダメなら美術を褒める、等の身も蓋もない(作り手の寺山氏の皮肉全開の)真実。落としつつ褒め、褒めつつ落とす、すなわち観客という特権のありようは、劇評を書き・公表する行為で体現されているという事のようである。(例えば扇田昭彦の文章を読んだ者は「愛と知性の詰まった劇評」があり得る事を知っていると思うが。)
演劇批評としての「観客席」なる演目は、芝居とは詰まる所「批評」である事を大胆に直裁に言い切った点で特異だが、見終えた今、これは「演劇」であり、本質において何か決定的な差が他との比較であったようにも思えない、と感じている。
戸山公園「演奏場跡」に当るのだろうステージとなる丸いエリアを、一方の傾斜から見下ろす。
客席側にふとどこかで見た姿が、と思い出せばDoga2女優。団員が出演してでもいるのか、と気にしながら観ていると、それでなのか、よく喋る痩せ型の女優が(声や喋りからして)あの女優かな、またこちらはやや三枚目を演じるあの男優か、と。だが後で見れば当ては外れていた(Doga2俳優は出演しておらず)。麗羅なる一見怪優が十全な喋りを繰り出していたりだとか、観客を取り囲むように各所から台詞を出したり、音を鳴らしたり、「外部」に開かれた空間ゆえの自由が(そうやって物理的に広がる事で)具現する感覚。
客から募って男女一人ずつ台本を渡して読ませる時間がある。収容一人だけの劇場=段ボール箱に入る人を募り、終演まで箱の中からのぞき穴で覗かせられた客もある。出席を取ると言って観客の名前を読み上げ、質問を投げて答えさせる時間も。最初に渡された紙に書かれた文字を皆で(何かしながら)発語するという場面も。オーラスで吉野氏が前に立ち、客に一本締めを願ってやった後、俳優らが周囲から「こんな物作りやがって」「時間を返せ」等の抗議を始めるが、観客にも「この際言っちゃって下さい」と促した時は、非難ごうごうが起きた(笑、う所だ)。「観客参加」が成功したのか否かはともかく・・ここまで趣向が詰め込まれた演目だとは知らなかった。確かに、役者に力量が無ければまず成立し得ない演目。鳴り物入りで上演される訳である。