クミの五月 公演情報 クミの五月」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    前回の劇団印象リーディング(鈴木アツト氏の自作)も1ステージのみの公演。確か日程的に断念した記憶だが、今回は行けた。韓国戯曲という点にも背中を押されたが、題材が光州事件とは観始めて判り、身が引き締まる。
    伝え聞くにこの事件は韓国現代史に特筆される凄絶な事件であるが(再現映画も衝撃的に描いていた)、本作は街の店を経営する家族を中心に、多様な立場の光州市民たちの目と関心が捉えた事件の姿が描写される。
    軍・警察の介入に抵抗し、市民による道庁占拠によって束の間勝ち取った自由が、その後の空挺部隊員らの無慈悲な銃剣による襲撃で敗れたという悪名高い全斗煥大統領の名を更に黒くした事件。
    苦しい展開が見えている史実を描いた作品だが、庶民が暮らす場に流れるユーモアや人情の機微が面白くつい入り込んでいる。そして家族や隣近所と同じ目線になっている。語り手でもある主人公クミは、大好きな一人の兄の死に直面する、多くの遺族たちの一人である。
    最後にその「死」を無駄死ににはしない使命を、クミは語る。事件が収まった後、行方不明であった兄の遺体とまみえた後、集会で発言するような声で、場内に語り掛けるのだが、惜しむらくは「その時はそう語っただろう」トーン、声量、すなわち悲壮感一色の「今戦う」声が出ていた。瞬間的な激情が言わせる言葉のようにではなく、徹底的に冷静沈着な心から、その決意の声を出して欲しかった・・今の私らにも可能な「決意」の心の形がそこにあると思える声で。歴史の一コマを描いた芝居、という意味ではクミのその声は「恐らくそのように人々に向って語っただろう」と思える正解なのだが、その歴史の時間の中から「今」へ語る要素があり得るとしたら、最後の台詞だったか、と思ったような次第。
    キャスティングも含め上質なリーディング上演であった。

    ネタバレBOX

    1960年代~70年代の朴正熙政権は、日韓条約等により批判される面はあるも経済成長を実現し、富をもたらした大統領だと評価する向きが多い。一方、同じくクーデターによる軍政を80年以降敷いた全斗煥に対する人望は(軍内部からさえ)無かったとの評判である。
    その始まりが光州事件であったという事になる。

    朴正熙政権時代から民主化勢力のリーダー的存在であった金大中を、幼少から追ったドキュメントが昨年公開されていた。日本でのKCIA拉致事件(日本国内で韓国諜報員の無法な行動を許したとして批判が起きた)も経て1989年「取り敢えずの民主化」を遂げた盧泰愚(軍人)政権~同じ野党勢力の一翼であった金泳三政権5年の後、大統領となった人。
    このドキュメントは金大中の背中をカメラで追いながら独裁体制下にあえぐ韓国人の民主化勢力の帰趨を追った映画でもあり、熾烈な独裁政権にどう対抗するか、し得るかを模索する彼の背後にある民衆の存在を想像させるのでもある。その象徴的なシーンがある。
    金大中にとって光州事件という悲劇が何であったか、それはその半生を独裁政治に対抗する機を窺う闘争に費やした彼にとっては、自らの力不足によって生じた犠牲に他ならなかった、という含みである。軍政が退いた韓国でついに彼が選挙に打って出るため地方を遊説する中、それまで一度も訪れなかった光州の地を踏んだ時の映像。・・彼はゆっくりと走る車の上に立ち、目的地に着く前から涙をおさえきれない。やがて視界を埋め尽くす何万という彼の支持者は、それを汲み取るように一人一人が手を叩いている。よく生き延び、我々の代弁者として立ってくれた・・と、その心の台詞が聞えるようなシーンである。
    光州事件はどのようにしても「終わり」は無いが、もし何らかの区切りを付けるとすれば、それは圧倒的な力でねじ伏せられ奪われた命の犠牲が報いられる瞬間であり、それは恐らく闘争の象徴であった金氏と共に犠牲を悼み、未来をつかみ取る決意を互いに確認する時、であったのだろうと想像されたのである。
    政治が腐敗し、私欲権力欲にまみれた為政者によって市民が銃を向けられた経験を持つ韓国、同じ経験をした他の国もそうだが、最終的に「民自身への信頼(それなくして団結はないので)」に立つことで「力」を持つという知を体得している、と思う所がある。そして日本にそれがあるのだろうか、いざとなれば民は団結できるのだろうか、と考える。

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