零れ落ちて、朝 公演情報 零れ落ちて、朝」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    観劇にいざなう説明文では「シロかクロか、そのどちらか」と問われている。モチーフのひとつであるグリム童話『青髭』と、医師の戦争犯罪が重なっていく。

    ネタバレBOX

    童話と同じく、青山という男(本田椋)のもとに娘(小林冴季子)が嫁いだばかりの頃から始まります。娘は、舞台中央にある扉だけは開けてはならぬと言われており、それ以外の屋敷をすべて美しく掃除しなければいけません。娘は屋敷を美しく磨き白く保とうとしますが、結局、その黒い扉を覗いてしまいます。
    白い屋敷のなかにある、黒い扉。その扉の向こうでおこなわれている行為はいわばクロ。加害行為を知ってしまった時、そこに立ち向かわなければその人はクロでしょうか、シロでしょうか。「白くありたい」と言う娘ですが、扉の奥の秘密を知る前から黒い衣装をまとっている彼女はを見ると、娘の背負う「クロ」とはなんだろうかと考えてしまいます。
    嫁いだ娘が家じゅうを掃除する行為は、家父長制の象徴のようでもありました。それは、国に従い戦争行為に望まざるとも加担してしまった市民、という構図にも重なります。

    寓話と史実を、小林冴季子のやわらかだけれどハリのある身体性と、シェイクスピア『マクベス』の三人の魔女のような近所の市民たちが繋いでいきます。本田椋は加害者の内面の矛盾や苦悩を体現し、バネのような身体がこわばり今にもはじけ飛びそうに見えることも。

    本作冒頭では、娘が観客を作品世界へ誘います。そのため、さまざまな加害とその罪が描かれ、クロとシロが入り乱れるなかで、「加害を目撃する」あるいは「はからずも加害の共犯になる」という娘の立場についてをもうすこし深く覗いてみたくもありました。たとえば客席でなんらかの物語を「目撃している」ということに作用があれば、加害についての多重的な構造を体感としてより実感できたかもしれません。
    しかし客席との接続という意味でいえば、中央の台が八百屋になっていること、それを伝う水などは効果的であったと思います。今回、わたしは3都市ツアーのうち、広島のJMSアステールプラザで観劇しました。会場によって美術も違うとのことで、それぞれどのような影響をもたらしているのか気になります。

    第二次世界大戦の終結から80年。日本あるいは日本人が行った(被害をともなう)加害は、今の私たちの世界とどう接続しており、どんな未来へと繋がっていくのか。劇中には「人を殺して許されるはずはない」という台詞が出てきますが、その価値観はいつ誰のどんな背景によって信じられ、疑われうるものなのか。現代に上演するからこそ、演劇をとおしての過去との接続が未来に繋がっていくといいな……そう願ったのは、広島で観劇したからかもしれません。劇場からほんの数分歩き、原爆ドームをふくむ平和記念公園がいやおうなしに目に入る頃にはあらためて、加害と被害は地続きで、傍観と加担もまた切り離せないことを考えました。

    初めての場所での観劇。施設入り口から会場にたどりつくまでに迷ってしまったので、開催室名や階数、矢印、誘導などの案内があるとありがたいです。
  • 実演鑑賞

    繰り返される言葉が、体を重たく殴ってくるよう。相反して俳優たちの身体は軽やかで自由で見惚れる。物語が進むにつれて、遠くの世界が自分の目の前に近づいてくる感覚にゾクゾク。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    客席うしろで観てもおもしろかったけど、かぶりつきでも観たかった!

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2025/03/22 (土)

    俳優の肉体から溢れ出るエネルギーと、舞台美術、音楽、全てが襲いかかってきたかと思うと、ささやき、問いかけてくる。
    何度でも観たい、観たくなる作品!

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「人間の尊厳を問う物語」

     現役の精神科医として医療現場に携わっている作者が、太平洋戦争中にアメリカ軍の捕虜に生体解剖を施した「九州大学生体解剖事件」と、グリム童話『青ひげ』をモチーフに創作した2023年初演の再演である。

    ネタバレBOX

     波音と鳥の声が響き渡るなか、上演がはじまると奥から娘(小林冴季子)が出てきて観客に向け身の上を語り始める。娘はちいさな山のうえにある城に青ひげを生やした男に嫁され、いつも床を白く磨くようにと命じられていた。城のなかには入ることを禁じられた部屋があり、そこで男はなにかよからぬことをしていると街の人々に噂されているのだ。部屋のなかを知りたいという誘惑に負けた娘が扉を開けた先に目にしたものは、おびただしい数の死体の山だった。

     やがて青山という男(本田椋)がやってきて自らの仕事について語り始める。医師である青山は弟子(本坊由華子)とともに病気の患者にリスクの大きい施術をすることで、他病院よりも大きな実績をあげようと躍起になっていた。しかし度重なる失敗で患者はことごとく死に至り、そのことを隠蔽しつづけてきたのである。青山は保身のため娘に城の床を拭きつづけろと命じていたことがここでわかる。やがて大佐(本坊由華子・二役)がやってきて、無差別爆撃を行った敵兵の捕虜を生体解剖しないかと青山に声をかけ――開戦から戦中、そして敗戦へと移り変わる激動の時代のなか、次第に娘と青山は狂気の世界へ足を踏み入れていく。

     本作の特徴は説明的な台詞を極力廃し、似たような場面を繰り返し反復しうねりを作りながら展開することで、観客を登場人物の感情移入させやすい作劇を採用した点である。また何役か兼ねる俳優がゴツゴツした荒っぽい動きや振りで台詞を述べることで、感情の波が視覚的にも豊かな情報として舞台上に再現されていた。当初は穏やかだったSEも次第にノイズまみれのそれに変転していく。いわば音楽劇や舞踊劇に近い感触の作品である。場面が進むにつれて同じ台詞でもまったく異なるニュアンスで聞こえる発見もあった。

     舞台を観ていて私はシェイクスピアの『マクベス』を想起した。己の名声を求め道を誤る青山と脅迫的に汚れた床を拭き続ける娘の様子もさることながら、3名の村人たち(出演者3名が兼役)の会話が時代背景や青山夫妻の状況を客観的に説明する役割を担っていた点は、マクベスに予言し今後の展開を示唆する荒地の魔女たちと重なって見えた。くわえて、ダジャレのような台詞や、「よくわからぬことはよからぬこと」(これは娘の台詞だが)に象徴される倫理観を根底から揺さぶろうとする作者の意図も、荒地の魔女の「きれいは汚い、汚いはきれい」に重なって聞こえてきた。

     加害の物語を書くことで戦時に近い状況にある現代を問うという作者の主張は明確であり、そこに熱演が加わることで並々ならぬ思いはひしひしと伝わってきた。とはいえ一点に向って進んでいく物語は図式的であり安全でもある。最後にぽつねんと座る性も根も尽き果てた青山の姿は、私にとっては舞台中盤からある程度予測ができるものであった。加害に至らざるを得なかった人物の背負ったものもぜひ見たかったと思うのは望蜀だろうか。

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