公演情報
「幸子というんだほんとはね」の観てきた!クチコミ一覧
実演鑑賞
満足度★★★★
狂おしいほどに哀しく美しいララバイでありアンセムだった。
歌と歌の間に物語があって、それは詞と詞の狭間で私たちが生きている、ということでもあるように思えた。
人によって生まれゆく街を、連綿とつづくその営みによってできている世界を、こんなにも可笑しく、痛く、さりげなくも絶大に描いた演劇を前に言葉なんて、本当に言葉はなんて頼りなくて、私はなんて情けないのだろう、と。
泣き虫だから沢山泣いてしまったけれど、容易に感動させようとしない、カタルシスやクライマックスに収めないところに逆説的だけれども何よりグッときたのだと思う。
1人1人の人生がまるで無関係な顔して進んでいき、無理矢理接続されることはなく、でも"ほんとは"全部が繋がっている。その様は、私たちが意図せず進行している人生や人との邂逅そのものであるからして、とても自然に心身に物語が浸透していくように感じた。
人生はままならなくて、不条理で、不遜で、凝りずに同じ失敗をしてしまうし、どこまでいってもその道行は簡単にはいかないから、人は時々歌を歌うし、同じ歌を知ってる誰かを探すように他者をもとめるのかもしれない。
喪失の苦しみや不在の哀しみを互いに救い、救われることは多分どうがんばってもできなくて、だけど、そのままならなさを少しの間だけ掬い上げることは多分ちょっとできて、そのために言葉や音楽、そして演劇がある。こんな風にあるといいな、と思った。祈った。そう思える演劇だった。
ほんとのことに気づかないように生きてくことも、気づいたふりをして生きていくことも私たちはできてしまうから、時々こうしてはっきり気づきたいのだと思う。「ほんとはね」って誰かに言われたいのだと、歌ってほしいのだと思う。狂おしいほど哀しく美しい歌声と存在に縁取られながらそう思った。止まらぬ魂の震えから隣の人と肩がわずかに擦れあった瞬間、そのえもいわれぬ温もりの中で私はそれに気づいた気がする。
映像鑑賞
満足度★★★★★
配信で観劇
こんにちわ赤ちゃん
地球へようこそ
みんな幸子
幸子と言うんだ本当はね
お子さんは御子息だったんでしょうか?
次世代へバトンタッチするノゾエワールドでした
生で同じ空間で観てみたかったです
実演鑑賞
満足度★★★★
下北沢演劇祭の本拠劇場らしい本多劇場でのはえぎわの公演。このノゾエ征爾主宰の劇団も25周年だという。舞台も、本多劇場の裸舞台から、劇場紹介のツアーが始まるという発端で始まる。劇場から町へ、さらにそこに生きる人々のスケッチへと進み、今貴方は幸せですかという問いへ。今この演劇祭を開催している人と時代を生き生きと見せてしまう。ノゾエ征爾にこのような洒落た趣向があるとは思っていなかったが、ノゾエも50才、どんな趣向のドラマもやってきたし、その中で自分の領域をしっかり確保してきた人だけにいかにも周年イベントにふさわしい出来になった。
見ていて、随分昔になるが、この劇場が出来たばかりの頃、ここで夢の遊民社が上演した「小指の思い出」を思い出した。1983年。まもなく五十年になる。小指の思い出のラスト、魔女として捉えられ焚刑に処せられる粕羽聖子のもとにあつまった「妄想の少年」の子供たちに野田の演じる聖子は火刑台の上からいう。「あなた方はやがて、この世界を蘇らせる。あなた方の走る先に新たな妄想の子供たちが待っている!」
野田からノゾエへの距離は今では遠い。かつての社会劇とははっきり一線を画し、いわゆわゆるドキュドラとも、インタビュードラマとも違う新しいタッチで、今演劇祭を開催している人と時代を生き生きと見せてしまう。分断と差別の中に生きる町に住む人と家族たちのスケッチがもう少し整理さていれば快調だっただろうが、次々と、イラストレーターが舞台に持ち出された白いカンバスに背景を描き続けていく中で進んでいく。ノゾエ征爾にこのような洒落た趣向があるとは思っていなかった年の功だ。周年イベントにふさわしい作品を担える存在になった。蓬莱と並んで中核と言えるかも知れない。
野田からノゾエへの距離は今では遠いと思われているが、それほどのこともないのではないか、人間が手作りする演劇の歩みは早くはない。幸子という現代の妄想に作者が、幸せの種はそこここにあると説く(主演。高田聖子)、この演劇祭に託した時代への思いは、このドラマにあるように親子が手を離せなくなるようなものであろう。1時間55分。本多を埋め切るまでにはならなかったがノゾエとしてはまとまりもいい舞台になった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
はえぎわの25周年公演。資料にも出てきますが、旗揚げ公演初日は観客が4名、途中退出があったのか、終演後には3名になっていたそうです。本多劇場での公演は今回が初とのことですが、それを意外に感じるほど、堅実に人気と実力を蓄えてきた25年間と言えるのかも。
登場人物たちはそれぞれの「不幸」を抱え、直面する現実をやり過ごそうとする。一見無関係だった登場人物たちの相関図が徐々に紐解かれ、断片的な物語が繋がり、大きな広がりを見せる……。