カミサマの恋 公演情報 カミサマの恋」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.5
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  • 満足度★★★

    ここなら、そんなこともあるのかも。と思わせる。
    「カミサマ」の助言・存在に疑問を持たない登場人物たち。
    そこに一瞬疑問を持つが、奈良岡さんの演技に納得させられ違和感はない。
    ストーリー展開に物足りなさはあるものの、十分に楽しめた。

  • 満足度★★★★

    “けっぱる”東北の神武たち
     奈良岡朋子の津軽弁芝居を堪能できる舞台。
     何のこっちゃと思われる方もあろうが、「方言芝居」で成功している例は決して多くはないのだ。コトバはもちろんイキモノであるのだが、地方の土俗と密接に絡んでいる方言は、たとえその地方出身の俳優の発声であっても、文化に対する深い理解がなければ、演技として昇華されたものにはならない。その巧拙は、喋りが自然であるかわざとらしい部分がないか、他地方の人間が観てもそれと気付くものなのだ。
     奈良岡朋子は東北出身の俳優ではない。しかし父君(洋画家・奈良岡正夫)が津軽出身で、戦時中、弘前に疎開した経験がある。慣れぬ田舎暮らしに馴染むため、彼女は必死で弘前弁を習得した。それが今回の舞台に生かされている。

     大滝秀治が舞台に立つことが困難になっている近年の劇団民藝は、奈良岡朋子一人で持っている印象がある。中堅どころに実力がないわけではないから、奈良岡朋子一人が突出していると言った方がよいだろうか。その結果、奈良岡朋子が袖に引っ込んだ時には、「舞台が持たない」状況も生まれてしまうこともしばしばであった。勢い、外部から奈良岡に拮抗しうる役者を招聘するしか手はなかったわけだが、彼女も既に82歳。後継が育たなければ、いずれ民藝は、屋台骨が倒壊する危険に晒される。
     畑澤聖悟に戯曲を依頼したのは、作品の面からも「新しい血」を注ぐ必要があるとの判断ゆえだろう。青森を拠点とし、地方と伝統文化を見直しつつ、中央に打って出る畑澤氏の姿勢は、「演劇の温故知新」と呼ぶに相応しい。

     今回の舞台で驚いたのは、「カミサマ」という超自然的な存在が、東北の日常に何の違和感もなく存在していることだった。誰も「カミサマなんてインチキだ」とは言わない。信仰と言うよりは習俗である。
     「神降ろし」を行う道子(奈良岡朋子)は、「カミサマ」を媒介して相談者にアドバイスを与えるが、新興宗教のような金儲けに走るわけではない。その役割は町のカウンセラーであり、鋭い人間観察力がなければ、到底やりおおせるものではない。
     津軽のその町に、「カミサマ」を中心とした小さなコミュニティが作られていることはその通りなのだが、これは閉鎖的なムラ社会とは根本的に性格を異にしている。「カミサマ」はその地の人々にとっては「故郷」の象徴である。日ごろは遠きにありて思うもの、つまりは非日常であるが、いったんそこに帰れば懐かしき我が家であり、心を休めることが出来る。そして、相談者は再び「日常」という名の「戦場」に戻っていく。
     彼らに道子がかける「けっぱれ」という津軽弁。これを「頑張れ」と直訳しても、そのニュアンスは決して伝わらない。「頑張れ」はともすれば無責任な放言となり、相手にプレッシャーを与えるだけの暴言ともなる。しかし奈良岡朋子は、この言葉を相手の「魂」に向けて問い掛けている。相手が「けっぱれる」ことを信じている。そしてその判断は間違ってはいない。
     だから観客もまた舞台から「力」をもらえる。劇場という非日常の空間から、「現実」へ立ち戻るための力をである。
     津軽弁でなければ成立しない舞台、それがこの『カミサマの恋』なのだ。

    ネタバレBOX

     「カミサマ」遠藤道子の下へ相談にやってくる人々による群像劇。
     小さな悩み相談事はいくつもあるが、大きなものは三つ、一つは工藤家の嫁姑問題、久米田家の離婚問題、そして道子自身の家族の問題である。
     「カミサマ」が実在しないことは、物語の途中で観客には見当が付くようになっている。全ては道子による「演技」なのだ。神託のように見せかけてはいるが、道子は相談者たちの状況を詳しく聞き出し、人間関係を掴み、問題解決の糸口を探っている。そして最も適切なアドバイスを与える。それが“外れない”から、相談者たちは「カミサマの言うことに間違いがない」と納得する。たまにアドバイスに失敗することもあるが、その時は相談者は「自分が悪い」と言って、決して道子を責めようとはしない。道子はいつだって真摯だ。その誠実さが「カミサマ」を「カミサマ」たらしめている最大の根拠となっているのだ。

     時には、道子はいかにも「カミサマ」風に大仰な「演技」もしてみせる。
     工藤家の嫁姑の問題については、だらしない婿に「蛇が憑いている」と言って、嫁姑を慌てさせ、仲違いを中断させてしまう。そして婿には「二人の話をただ聞いてやりなさい」と、それだけで問題が解決することを示唆してみせる。
     いくら東北とは言え、蛇憑きだの狐憑きだの狸憑きだのを信じる人間がこうもたくさんいるものなのだろうか、と疑問には思うが、非現実から現実へと回帰する道子=奈良岡朋子の真摯な演技が、最終的にはこのわざとらしい小芝居にも説得力を与えることになっている。

     久米田家の問題はいささか厄介だ。
     娘を死産した玲子(飯野遠)は、夫との仲を修復できず、テレビで紹介されていた道子の下に弟子入りを懇願する。既に弟子が一人いる道子はこれを拒むが、思い込みが激しいタイプの玲子は頑として帰ろうとはしない。
     そこで道子は、ある条件を出して、彼女を家に住み込ませることになるが、ここから問題は道子自身の家族とも深く関わっていくことになる。
     道子の養子・銀治郎(千葉茂則)は、病気で余命わずかの宣告を受けていた。死別した妻との再会を望む彼は、治療を受けないことを「カミサマ」に告白する。“本当はカミサマではない”道子は、その事実を知り狼狽する。そして、玲子に頼むのだ。「死んだ嫁の“生まれ変わり”を演じてくれ」と。
     玲子のウソを信じた銀治郎は、妻に再会できたことを喜び、治療も受けるようになる。しかし玲子は、自身の思い込みの激しさゆえに、“本当に自分が銀治郎の妻の生まれ変わりである”と信じ込むようになる。さらには、玲子の夫が、玲子を連れ戻しに現れて、道子の計画は次第に崩壊していく。

     道子は、所詮は人間である。「カミサマ」にはなれない。彼女の浅知恵が、かえって銀治郎の心を傷つけることにもなった。「カミサマの声を聴く」という行為が、全ての人の心を救えるわけではない、と熟知しているのは、道子自身なのだ。それでも道子は、「カミサマ」に頼ることでしか生きられない人々がいることもまた知っている。
     彼女が弟子を取りたがらない理由はここにあるのだろう。この二律背反の矛盾の中で生きていくことは、いかに「けっぱる」道子とても、安らぐ間のない過酷なことなのだ。
     最終的に、道子は「人間としての言葉」を銀治郎に投げかけて、彼の自暴自棄をたしなめる。「死ぬな」という「母」の言葉に、放蕩の限りを尽くしてきた銀治郎は、ようやく「家族」を意識して、死の淵から立ち直る。彼を救ったのはまさしく「人間」なのだが、ついさっきまで神託を無邪気に信じていた体の銀治郎が、簡単に「人間の側」に戻っていけたのは、彼もまた“自分をあえて騙していた”ことの証左である。
     人間は、自分に都合のいいことだけを信じる。その心理が「カミサマ」に実効を与えていたのだ。それが巧く行ったケースが工藤家の場合で、虚は実となった。そうは問屋が卸さなかったのが道子たちの場合で、虚は結局は虚でしかなかった。
     「信じること」が全て正しいわけではない。「信じたこと」に裏切られる場合もある。「こんな自分にでも、何かできることがあるなら」、それが道子が生きていた原動力であるが、それもまた「思い上がり」であることを、「現実」は彼女に冷徹に示してきたのである。

     ラストの意外な展開は、苦悩の人生を送ってきた道子への「救い」であるが、作劇的には蛇足と見なす批評氏もいるだろう。
     和解した道子と銀治郎だが、突然、銀治郎に、死んだ道子の夫が憑依する。道子を残して早世したことを侘び、息子を立派に育てた道子に感謝し、「けっぱって」生きてきた彼女を慰労する。
     単純に考えれば、「カミサマ」なんていないのだから、これは銀治郎の演技だ。しかし二人だけの過去を知っているのだから、これだけは真実の「神降ろし」なのかもしれない。どちらとも取れるように、というのが畑澤聖悟の意図だろう。しかし演者の千葉茂則の演技が「どっちつかず」だったために、「どちらともとれない」中途半端な印象のラストになってしまった。
     その演技のまずさを置いておくとしても、このタイミングで道子に「救い」を与えるというのは戯曲の時点で既に安易な方法であったように思う。奇跡はそう簡単に起こらない。仮に奇跡が起きたとしても、それは「人間の努力が起こしてこそ」価値があることなのではないか。
     「奇跡」がなくとも、道子は充分に価値ある生き方をしてきたのだ。安手のドラマにありがちな結末を付けることは、かえって道子の人生をないがしろにすることになっているように見える。

     畑澤聖悟の創作力がある一定のレベルに達していることは確認できたが、情熱が勝るあまり、まだまだ自作に抑制を利かせる域には達していない。奈良岡朋子に助けられていなければ、かなりつまらない印象で終わっていただろう。今後はもう「思い上がった」戯曲は書かないよう、願うばかりである。

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