満足度★★★
ここなら、そんなこともあるのかも。と思わせる。
「カミサマ」の助言・存在に疑問を持たない登場人物たち。
そこに一瞬疑問を持つが、奈良岡さんの演技に納得させられ違和感はない。
ストーリー展開に物足りなさはあるものの、十分に楽しめた。
満足度★★★★
“けっぱる”東北の神武たち
奈良岡朋子の津軽弁芝居を堪能できる舞台。
何のこっちゃと思われる方もあろうが、「方言芝居」で成功している例は決して多くはないのだ。コトバはもちろんイキモノであるのだが、地方の土俗と密接に絡んでいる方言は、たとえその地方出身の俳優の発声であっても、文化に対する深い理解がなければ、演技として昇華されたものにはならない。その巧拙は、喋りが自然であるかわざとらしい部分がないか、他地方の人間が観てもそれと気付くものなのだ。
奈良岡朋子は東北出身の俳優ではない。しかし父君(洋画家・奈良岡正夫)が津軽出身で、戦時中、弘前に疎開した経験がある。慣れぬ田舎暮らしに馴染むため、彼女は必死で弘前弁を習得した。それが今回の舞台に生かされている。
大滝秀治が舞台に立つことが困難になっている近年の劇団民藝は、奈良岡朋子一人で持っている印象がある。中堅どころに実力がないわけではないから、奈良岡朋子一人が突出していると言った方がよいだろうか。その結果、奈良岡朋子が袖に引っ込んだ時には、「舞台が持たない」状況も生まれてしまうこともしばしばであった。勢い、外部から奈良岡に拮抗しうる役者を招聘するしか手はなかったわけだが、彼女も既に82歳。後継が育たなければ、いずれ民藝は、屋台骨が倒壊する危険に晒される。
畑澤聖悟に戯曲を依頼したのは、作品の面からも「新しい血」を注ぐ必要があるとの判断ゆえだろう。青森を拠点とし、地方と伝統文化を見直しつつ、中央に打って出る畑澤氏の姿勢は、「演劇の温故知新」と呼ぶに相応しい。
今回の舞台で驚いたのは、「カミサマ」という超自然的な存在が、東北の日常に何の違和感もなく存在していることだった。誰も「カミサマなんてインチキだ」とは言わない。信仰と言うよりは習俗である。
「神降ろし」を行う道子(奈良岡朋子)は、「カミサマ」を媒介して相談者にアドバイスを与えるが、新興宗教のような金儲けに走るわけではない。その役割は町のカウンセラーであり、鋭い人間観察力がなければ、到底やりおおせるものではない。
津軽のその町に、「カミサマ」を中心とした小さなコミュニティが作られていることはその通りなのだが、これは閉鎖的なムラ社会とは根本的に性格を異にしている。「カミサマ」はその地の人々にとっては「故郷」の象徴である。日ごろは遠きにありて思うもの、つまりは非日常であるが、いったんそこに帰れば懐かしき我が家であり、心を休めることが出来る。そして、相談者は再び「日常」という名の「戦場」に戻っていく。
彼らに道子がかける「けっぱれ」という津軽弁。これを「頑張れ」と直訳しても、そのニュアンスは決して伝わらない。「頑張れ」はともすれば無責任な放言となり、相手にプレッシャーを与えるだけの暴言ともなる。しかし奈良岡朋子は、この言葉を相手の「魂」に向けて問い掛けている。相手が「けっぱれる」ことを信じている。そしてその判断は間違ってはいない。
だから観客もまた舞台から「力」をもらえる。劇場という非日常の空間から、「現実」へ立ち戻るための力をである。
津軽弁でなければ成立しない舞台、それがこの『カミサマの恋』なのだ。