コルチャック先生と子どもたち 公演情報 コルチャック先生と子どもたち」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.0
1-2件 / 2件中
  • 満足度★★

    虚実皮膜のなり損ね
     ヤヌシュ・コルチャックの伝記物語として観た場合、史実に極めて忠実で、クライマックスを除けば、一つ一つのエピソードには殆ど嘘がない。それは即ち制作者たちの誠実さの表れである。ユダヤ人差別と戦い、子供たちと運命を共にしたコルチャックの気高い事跡を、その優しい心映えと教育の理念を、正しく後世に伝えようとする意図はもちろん賞賛に値する。
     しかし、その誠実さが時として仇になることを、制作者たちは自覚すべきではなかったか。それは、偉人の伝記物語が陥りやすい陥穽である。特に差別や迫害、戦争を描く場合に起こしやすい失敗である。物語がすべて「偉い人の他人事」「過去の一事件で現在とは無関係」と観客に受け止められてしまいかねない、という「罠」だ。
     早い話が、哀しみと感動をもって、コルチャックに感情移入した人々が、自らが時と場合においては「迫害する立場」に廻ることもあるかもしれないと想像するだろうか、ということだ。「被害者」に共感する者は、自分が「加害者」になる可能性を、無意識のうちに否定するのである。
     その意味で、コルチャックの事跡を讃えるだけのこの舞台は、演劇としては稚拙と言わざるを得ないのである。

    ネタバレBOX

     昨年、『焼肉ドラゴン』を観た時にも感じたことだが、「被害者」は極めて人間性豊かに、それこそ長所も短所も、喜怒哀楽全ての感情含めて、「生きている」人物造形がなされているのに、なぜ「加害者」の方は、ステロタイプというかむしろ“書き割り”の、読本にでも出てくるような分かりやすい「悪人」として描かれるのだろうか、ということが疑問だった。
     C・P・テイラー作の舞台『GOOD(善き人)』の主人公・ハールダーは、ごく普通の教師だったが、ナチスの高官に取り立てられ、やがて迫害者にさせられていく。「善人」であることは一切免罪符にならない、それこそが戦争のもたらす「恐怖」である。この戯曲は、ナチス党員が全て残虐非道の、絵に描いたような悪人であったはずはないことを示唆している。絶滅収容所に子供たちを送り込んだ党員の全てが、嬉々としてその作業に従事していたはずはないのだ。
     そこを描かなければ、現在の我々と、過去の悲劇は決して直結しては来ない。『コルチャック先生と子どもたち』では、ナチスとコルチャックとの板挟みにあって自殺するユダヤ人評議会委員長チェルニアクフの自殺というエピソードによって、図らずも同胞を死に追いやらざるを得なかった苦悩が描かれている部分もあるが、その程度では「あれは未来の自分かもしれない」とまでは観客は思わない。結局、物語は、「昔々、ナチスに虐殺されたユダヤ人の子供たちのために、一緒に死んであげたコルチャックという偉い先生がいました」で終わってしまうのである。
     1995年から再演に次ぐ再演を重ねているのに、なぜ演出はナチス兵たちに、ほんのわずかでも苦悩の表情を浮かばせる、程度のことすらやらなかったのだろうか。コルチャックの人物造詣が深く、その演技もまた誠実さと慈愛を充分に表現した過ぎらしいものであっただけに、「善と悪」の単純な二項対立で歴史が描かれることには危惧を感じるのである。

     ナチスの将校たち、S・Sを、「人間」として描かなければ生きてこないのがクライマックスシーンだ。トレブリンカ収容所への移送当日(即ちそれは死を意味する)、S・Sたちに強制され、着の身着のまま連行されようとする子供たち。バイオリン好きの少年アブラーシャは、バイオリンを取り上げられて壊される。子供たちは怒り、S・Sに迫る。そして歌を歌う。静かにかつ哀しげに合唱しながら、S・Sを真っ直ぐに見据えて、一歩、また一歩と、迫っていくのだ。
     おそらく、これは史実ではない。資料の多くが、子供たちは抵抗せず、静かに連行されていったとある。しかしこのフィクションこそがこの舞台における最も演劇的な部分であり、迫害されたユダヤ人たちの「魂の怒り」を表現した部分なのだ。
     S・Sは気圧されて後ずさる。しかしそれだけだ。周囲の他のS・Sたちも全く動こうとはしない。コルチャックとステファ夫人が子供たちをなだめて、ようやくみなは冷静になる。このS・Sたちの「無反応」に何の意味があるのだろうかと首を傾げざるを得なかった。もちろん台本にはS・Sたちの「動き」は何も書かれていなかったであろう。私もここでS・Sたちが怒って子供たちを打擲するとは思わない。彼らに過剰な反応をさせることは、それこそ「悪」を型通りに描くことになってしまう。
     しかし、ここでは「動かないことの意味」を役者が、あるいは演出が考えた上で演出したのだろうか、と疑問に思わざるを得ないのだ。子供たちの歌声を聞いて、S・Sたちの心に去来するものは何もなかったのだろうか。助けたいとまでは思わなくとも、自分たちがまさしく今、この子供たちを死地に追いやろうとしている事実に心動かされはしなかったろうか。本当に彼らはユダヤ人を劣等民族で撲滅すべきだと洗脳されていたのだろうか。
     「全人類にとっての悲劇」という視点の喪失が、このS・Sたちの「無反応」を産んでしまったように思えてならないのである。

     このクライマックスシーンにはもう一つの「伏線」があるのだが、これも演劇的効果を充分に挙げているとは言いがたいものだった。
     バイオリンを壊されたアブラーシャ少年は、移送の二週間ちょっと前に、ある舞台の公演に主演している。コルチャックが企画した演劇会で、タイトルは『郵便局』。インドのタゴールの代表戯曲で、反体制的ということでナチスからは上演の禁止が通達されていたものだ。
     この公演に、ステファ夫人は反対する。それは、これが、子どもが病気で死んでいく物語だからだ。「どうして子供たちに、死を連想させるお芝居を?」とステファ夫人はコルチャックを問い詰める。彼は答える。「子どもたちが少しでも安らかに死を受け入れられるためだ」と。確実に訪れる理不尽な死に対しても尊厳を失わないで欲しいというコルチャックの思い。それは確実にラストの合唱シーンの伏線になっている。
     だとすれば、この『郵便局』の上演シーン、劇中劇のシーンは必要不可欠であるはずだ。アブラーシャが、病で死んでいく主人公の少年を演じることが、ラストでの彼の哀しみに直結する構成になってこそ、あのラストは「生きる」ものになったはずだ。

     なぜ、その上演シーンがなかったかは憶測するしかない。著作権の問題は無関係である。タゴールの戯曲は全て版権が切れている。戯曲内に取り込むことに問題はない。単に上映時間の問題か、子供たちに二重の演技を強いる手間を省いたか、そんなところではないだろうか。
     しかし我々観客は、単に「コルチャック先生の事跡」を説明して欲しいだけではないのである。それならば資料を読めばいいだけのことだ。我々は「演劇」が観たいのだ。資料だけでは読み取れない、そこに生きる人々の、声と体を、涙と笑いを、魂の叫びを観たいのだ。

     全体的には、コルチャックの晩年のみに時間軸を絞って、エピソードを羅列したようなダイジェスト版にしなかったことは評価できる。
     しかし、その割には構成が雑で人物も整理が行き届いておらず、散漫な印象を受けること(たとえば、途中に何度か登場する「狂人」などは物語に殆ど関わらないので、暗示的な意味以上のものを持たない)、舞台が殆ど「解説的」で、演劇的な魅力に乏しいこと、主役以外の大人の役者の力不足が目立つことなどは今回の公演での大きな欠点であった。
     劇団ひまわりを代表する舞台であり、これまでの公演回数も下記の通り群を抜いている。本国ポーランドの演出を受けたこともあるのだが、それらの「経験」は、継承されていないのだろうか。以前の公演は未見なので、それは私には何とも判断が付かないことである。

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    『コルチャック先生』
     1995年 脚本/いずみ凛 演出/太刀川敬一 (東京/大阪)
     1997年 脚本/いずみ凛 演出/太刀川敬一 (東京/大阪)
     2001年 脚本/ヤツェク・ポピュエル 演出/アレクサンデル・ファビシャック (東京/神戸/新潟/名古屋)
      出演/加藤剛 榛名由梨 日向薫 伊崎充則 他

    『コルチャック先生と未来の子どもたち』
     2005年 脚本/ヤツェク・ポピェル(訳/吉野好子) 演出監修/アレクサンデル・ファビシャック 演出/木嶋茂雄 (ポーランド/福岡/名古屋/大阪/熊本/札幌)
     2008年 脚本/ヤツェク・ポピェル(訳/吉野好子) 演出監修/アレクサンデル・ファビシャック 演出/木嶋茂雄 (札幌/福岡/熊本/名古屋)
     出演/中島透 太田みよ 他

    『コルチャック先生と子どもたち』(創立60周年記念公演)
     2011年 脚本/いずみ凜 演出/山下晃彦(東京・さいたま) 清水友陽(札幌) 玄海椿(福岡・熊本) 木嶋茂雄(大阪) 大嶽隆司(名古屋)
     出演/青山伊津美 日向薫(東京・さいたま) 納谷真大 小林なるみ(札幌) 中島透 日向薫(福岡・熊本) 蟷螂襲 松村郁(大阪) 山本健史 菅由紀子(名古屋)
  • 満足度★★

    演劇を作らねばならない
    観ていてストーリーなどは楽しめるものだが、どうにもワクワクしない。
    主演のお二人は外部からのゲストだが、他の出演者は軒並み演技が酷過ぎる。
    これは劇団ひまわり公演だが、当然大人も出る。
    大人の演技は酷く、子供は演技が出来ない。
    それでどうして公演を打つのか。
    客席は当然、出演者の関係者ばかりだった。
    脚本をなぞるだけでは演劇にならないのだ。

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