寿歌二曲 公演情報 寿歌二曲」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.7
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    注目しているユニットだが先般の特別企画のガザ・モノローグやその前の公演も知らずにうっかり見逃し、今回はしかと観る事ができた。通常は「寿唱」一本でも公演は成立する所、「寿歌Ⅱ」が合わさる。蓋を開ければ2時間半と大きな負荷なく見終えた。
    二作共通の役はゲサクとキョウコ、オリジナルではこれにヤソ、Ⅱはクマとカリオという役がプラスの4人芝居だ。Ⅱ→オリジナルの順で上演。時系列的に繋がっていそうな二作だが、若干テイストが違う。
    Ⅱは旅一座が現役で、「宣伝隊」として鳴り物を鳴らして芝居のさわりや音曲をやる場面が賑々しく挿入されるが、役者がこれだけはっちゃけてるのに熱が上がり切らないのは空間のせいか、使ってる音のせいか・・と訝りながら見ていた。場に和みを与える女形役、途中で加わる謎の女(踊れる)が辿り着いたとある街では、一座に振り向く者もいない急いた殺伐さがあり、終末感が漂う。
    その後になるオリジナルの方では、無人の荒野でミサイルがコンピュータ頭脳によって発射されているが、それを観て知っているのでその前段が描かれていると察知される。Ⅱとオリジナルの間に、人類はある境界を越えた。
    超人的なヤソと出会うオリジナル「寿歌」はやはり独自の風合いがあり、結論的に言えば、二作を続きとしてまとめようとした演出が、些かオリジナルの方の趣きを削いだ感があった。
    数個のパンと魚を集まった何千人の群衆に分け与えたという聖書の逸話から「物を増やせる」技を具備したヤソなる人物が、精神病みのように何かにとらわれているが、食べ物の安泰を無邪気に喜ぶ二人はそんな事に意に介さない。が、やがてヤソが居なくなった時、二人の中には何かが残る。その「何か」は観客の想念に委ねられるが、人の居ない荒野(これも聖書における信仰を理解するキー)においてこそ想念は強く広く深くなる。その戯曲の意図が、この舞台では十分にさらい切れてなかったような。。

    個人的な思いとしては、新国立研修所の卒公の「親の顔が見たい」で観た荒巻まりのを恐らく約十年振りに目に出来た(チラシデザインではよく見ていたが)。腕の立つ役者。
    キャストでは2作共通の役は、キョウコに荒巻ともう一名(こっちは男)、ゲサクに滝沢花野ともう一人(大西多恵子)とダブルで配していたのが大西氏が降板となり、滝沢氏のみ一人で全ステージを担ったためか、喉が枯れていた(泣)。
    上質なステージであり試みも素敵だったが、上演というのは難しいものだと実感する。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    核戦争後の荒野を、世界の事情はお構いなしに、ふざけた名前の三人の旅芸人が馬鹿げた会話を交わしながら旅していく。このとりとめもないシチュエーション・ドラマには、不幸にも「不条理劇」と訳されてしまったabusurdな劇と言う言葉が、ぴったりと似合う。
    「寿歌」は誰もが認める20世紀後半の日本演劇を代表する不条理劇の傑作である。北村想は、「ゴドーを待ちながら」を社会劇にもして見せた。以来、四十年余「寿歌」はさまざまな演劇人によってそれぞれのスタイルで広く演じられてきた。
    現代の「変人たち」はどう演じるだろうか? 次代を担う期待の演出家の一人・生田みゆきの率いる「理性的な変人たち」の上演は「寿歌・二曲」と題して四作ある北村想の「寿歌シリーズ」から二作をカップリング。舞台は北千住から線路沿いのゴミゴミした住宅街を抜けた先にある雑居ビルの地下。今は放置されて廃墟さながらのかつては公衆浴場だった場所での上演である。
    「寿唄二曲」は、核戦争前を舞台にした「寿歌Ⅱ」が第1幕(80分)、最初に書かれた核戦争後の「寿歌」が第2幕(65分)。休憩が15分。天井の低い地下に、建築業者が使う現場用のパイプを椅子を五列に並べて約百席。専門家に芝居亡者が帝都の北の外れに集まって満席である。
    まぁ、好き嫌い(原作を含め)は別としても、今までに見たことのない「寿唄」であった。
    いずれ、いろいろな場で、この上演は論じられると思うので駄弁を重ねるのは止めるが、感心したところを二つ。残念なところを一つ。
    「寿歌」は基本的には台詞劇で書かれている。台詞は、理性的だからどうしても事態を限定的に表現してしまう。今回は原作を随分改変しているが、台詞を重要なところは外さず(そこは、ホントに感心した)歌舞演芸化した。今までもこの線を試みた舞台もあったように記憶しているが、これほど徹底的にやったことはないだろう。それで、やや古めかしくなっていた「冷戦構造期」のドラマが現代社会に蘇った。ポルノ劇までやってみせることはないだろう、と言う意見もあるだろうが,あの手、この手、が尽きない。次、このグループの芸大出の人たちが作り、演じると言う基本の座組が生きている。彼らは我々観客にとっては、別に普通の人たちになって貰わなくてもいい人たちである。勝手放題、好き放題にやって、我々を楽しませてくれればいい人たちである。そう言えるのは、個人的な体験で、芸大に学び、出ると言うことは、そんじょそこらの東大とか慶応とは全く次元が違う青春期の経験を送った人たちであることを知っているからである。彼らが破滅するならそれも勝手である。その振り幅の強さがこの舞台にもよく出ていた。舞台は手不足らしく,演出の生田みゆきが演出助手や場内案内までやっていた。芝居は。こうでなければ!!
    残念なところ。演出者は作品発想はイスラエル紛争にあると言い、ジェンダー問題が論じられている折、ドラマの軸を担うゲサクの役を女性にした(滝沢花野は熱演で役割は十分果たしているが)というが、そういうことはひとまず置いておいて、これでいいとやってしまえば良い。ヘンな理屈があると(理性ある?)足を取られてヘンな風に曲がっていく。それで失敗して挫折した人の例もすくなくない。しばらくは、文学座の古老たちからは何やってんの!勝手にしやがれ!なんていわれながら、やってみるのが役どころである。



  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「渦中に響く芸能讃歌」

     1979年の初演以来シリーズ化され上演が続いている北村想の代表作である。作品世界の時系列に鑑み『寿歌Ⅱ』『寿歌』の順に二本立てで、「明星」「夕星」の2チームが上演した。私は夕星チームの初回を鑑賞した。

    ネタバレBOX

     星々がまたたく大空の下、核戦争前夜の荒野を大きなリヤカーを引きさまよう九重五郎吉一座宣伝隊のゲサク(滝沢花野)とキョウコ(廣田高志)、カリオ(谷山知宏)の3人は、耳は聴こえるが喋れないクマ(小林春世)と出会う。身振り手振りでコミュニケーションを図る彼らは自作の劇や歌を披露して喧しい。ようやく町に着こうかという段になると、クマが宣伝隊の悪評を流そうとした裏切り者の容疑をかけられてしまう。近くを恐竜が通りかかり放射能の影響で雲が燃えるなかでの4人の道中が、巧みな言葉遊びを交えて描かれていく(『寿歌Ⅱ』)。

     核戦争後の荒野を彷徨うゲサクとキョウコの元に現れたのは、茨の冠と白い腰布をまとった貧相な身なりのヤスオ(坂本七秋)である。ヤスオはその場にあるものを増やす能力を持っていて、残り少なくなっている食料や水に飢えていたゲサクとキョウコに重宝され行動を共にすることになる。遠くの方でミサイルや爆弾の光がまたたき地鳴りが響き渡る3人の道中から戦禍の喪失を感じるものの、概して明るく騒がしいのは変わりない。ようやく町に到着した一座は人々の前で芸を披露し、ゲサクはロザリオを増やして配りだすが……(『寿歌』)

     銭湯を劇場に設え直したBUoYの空間は、古ぼけたタイル張りに使い古された洗い場と大風呂が目を引く独特のものである。これだと特別にセットを組まなくとも戯曲の設定に合致していて違和感がない。過去の「理性的な変人たち」の公演ではやや声が大きくテンションが高すぎると感じられた俳優の芝居も、荒野のなかさまよう芸人たちという設定によく合っていた。ゲサクとキョウコの息のあった漫才にはじまり、滝沢花野の絶唱に唸るプッチーニの「私のお父さん」の替え歌、谷山知宏が魅せるカリオの女形や、器用な小林春世によるクマの身振りなどさまざまな芸が詰め込まれ、それぞれの俳優に見せ場が作られていた。演出の生田みゆきの面目躍如といったところで十二分に堪能したし、芸能はいついかなる時でも不要不急ではないという讃歌にも見えた。

     冷戦下で発表された作品が、初演から40年以上経った現在の世界情勢を反映して新たな見え方をしているというのも発見である。坂本七秋演じるヤスオだけでなく、一座に石を投げつける町の人々など、作中のいたるところに仕込まれているキリスト教的な文明と、一座に象徴される流浪の民との対立と邂逅は、生田が昨年演出したフェルナンド・アラバール作『建築家とアッシリア皇帝』に通じるところがあった。

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