実演鑑賞
満足度★★★★
『この世界の片隅に』のオープニングテーマ曲『悲しくてやりきれない』。コトリンゴの囁くような呟くような声が世界の心象風景の彩りとして流れる。涙が出る程悲しくて美しい世界。この曲を作ったのは当時ザ・フォーク・クルセダーズだった加藤和彦。2枚目のシングル、『イムジン河』が朝鮮総連の抗議によって発売日直前に中止、回収となる。ニッポン放送の重役・石田達郎に呼び出された加藤(当時二十歳)はそのまま社長室に監禁されて3時間で新曲を作らされた。3時間後、タクシーで石田とサトウハチローの自宅に向かう。(行ったのは高崎一郎説もある)。特に打ち合わせもなく、簡単な挨拶だけでその場は終わる。一週間後、サトウハチローの歌詞が上がってくる。期待した割には何かパッとしない詞で皆違和感を感じたという。だがレコーディングが始まるとハッとする。ぼんやりとした情景と独り言のような呟きだけで、後は全て曲に語らせている。メロディーが連想させる無限の世界への誘い水に徹しているような言葉の連なり。まさに天才の仕事。
今作はその国民詩人、サトウハチローを次女が追憶する流れ。
サトウハチロー役は阿部裕(ゆたか)氏。どことなく鴈龍太郎を思わせる。口髭と顎髭を輪ゴム付きのメイクで装着。珍しい方法。
次女と母親役を兼ねるのは土居裕子さん。左幸子と高橋真麻を足したような魅力。文学性と大衆的明るさ。
息子役と若きサトウハチロー役を兼ねる町屋圭祐氏も凄腕。42歳とは!?ちょっと出だしは子役かと思った程。
父親である佐藤紅緑(こうろく)役は福沢良一氏。
佐藤紅緑は雑誌『少年倶楽部』を絶頂期に導いた『あゝ玉杯に花うけて』の作者。それは昭和初期の子供達に多大な影響を与えたスポーツ文学の始祖的な作品だった。後に『週刊少年マガジン』の編集長・内田勝は梶原一騎にこう頼む。「梶原さん、『マガジン』の佐藤紅緑になって下さい!」小説家志望で漫画原作者を続けることに気乗りのしなかった梶原一騎の目の色が変わる。「内田さん、分かった。自分が秘かに敬愛していた紅緑にあやかり、漫画を男一生の晴れの舞台と心得て根の続く限りやらせて貰います。」そこで書き始めたのが『巨人の星』。梶原一騎はサトウハチローにライバル心を抱いていたのでは?、と自分は思っている。
佐藤紅緑の弟子である詩人・福士幸次郎役は浅野雅博氏。
1918年、小笠原の父島にある感化院(非行少年を教育する福祉施設)に送られることとなった不良少年サトウハチロー、15歳。それを不憫に思った福士幸次郎が島の一軒家を借りて二人で暮らすこととなる。
サトウハチローの姉役は仲本詩菜(しいな)さん。結核で吐血、若くして亡くなる。その鮮烈な真っ赤な血こそが後の『リンゴの唄』となる。『うれしいひなまつり』も彼女への歌。
弟の節(たかし)役は佐藤礼菜さん。広島の原爆で亡くなった。サトウハチローは被災地で弟の痕跡を探す。探しても探しても遺体どころか遺品一つ見付けることは出来なかった。何一つ見付けることは出来なかった。この体験が『長崎の鐘』となる。
女中のヨネ役は小暮智美さん。「俺の初めての女」とサトウハチローは嘯く。
作曲家新垣雄(あらかきかつし)氏の奏でるピアノの旋律と植村薫さんの震わせるヴァイオリンの音色が美しい。オリジナルでサトウハチローの詩に曲を付けコロスの合唱が始まる。凄く楽曲が良い。新垣雄氏は気になる。歌唱力で選んだのであろう、配役も素晴らしい。『雪女』が凄く好き。
土居裕子さんは凄い。ずっと観ていたい。
スタンディング・オベーションも納得。母親への想いを愛憎アンビヴァレンツに奏でる。それが本当なのだろう。愛と憎しみは編まれた組紐、同じ場所にある。
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2024/03/08 (金) 18:30
サトウハチローの生涯を、母との関わりを軸に、ハチローの詩を交えて音楽劇にした、とてもステキな作品。観るべし!(1分押し)61分(18分休み)82分。
俳優座劇場では2019年に初演、2021年に再演され、来年閉館するというので今回が同劇場では最後となる公演で、初演を観ている。世代的に見事にフィットする晩年の「悲しくてやりきれない」から始まり、時代を前後させつつもハチローの生涯を描く。素晴らしく美しい詩を書くハチローだが、人物的には問題もあったということを全部含めて描くが、母の存在を意識させる作りと、同じ役者が何通りもの役を演じるあたりの複雑さが、逆に味わいになっている。初演・再演と同じ達者な役者陣が見事な演技と歌唱を展開して、とてもステキな舞台だった。後2ステージで売り切れているようだが、観て欲しい…。