紅姉妹~べにしまい~ 公演情報 紅姉妹~べにしまい~」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.5
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  • 満足度★★★★

    鶯の身を逆に初音かな
     3軒茶屋婦人会の第4回公演、というよりも、わかぎゑふオリジナル脚本&G2演出、という組み合わせに、大いに期待して観劇。
     結果は、決して悪い印象ではなく、充分に面白くはあった。しかし何かが足りない。
     「女形三人」というか「オカマ三人」というか、その掛け合い漫才的な応酬は終始楽しい。時間を徐々に遡っていく構成が、最後にはしんみりと胸を打つ感動を呼び起こす、その効果を評価するに吝かではない。
     けれども、「この芝居は、もっと面白くできるはずだ」という思いを、どうしても拭い去ることができない。演劇としての仕掛けが「理に落ちている」ために、ドラマそのものに破綻はないが意外性もない、あるいは「演劇の“神”が降り損なっている」のである。
     もっとも、箸にも棒にもかからない「演劇もどき」の舞台に比べれば、『紅姉妹』への不満は「贅沢な悩み」でしかないのだが。

    ネタバレBOX

     中島らものリリパット・アーミーに関わってきたわかぎゑふとG2の二人だが、初期の先鋭的な作風に比べると、近作は大向こうを相手にした「新劇」に近い舞台作りを志向しているように見える。実際、5年ほど前のトークショーで、G2氏は、「帝国劇場が目標」、なんてことを口にしている。その後、新橋演舞場に進出することはできたから、一応、G2氏の目標機達成されつつあるようだ。
     そのこと自体は悪いことでも何でもない。大衆を唸らせるエンタテインメントを作る実力は、わかぎ、G2両氏には充分備わっている。ただ、初期の既成概念をひっくり返すような悪意や狂気に満ちた「毒」のある劇作、それが薄まっていく傾向にあることには、いささかならず寂しさも覚えてしまうのである。
     『紅姉妹』に感じる不満の正体もそれだ。

     物語は2011年現在、ニューヨークのBAR「紅や」で、年老いたミミ(篠井英介)が、電話で、息子のジョーに“もう一人の母親”であるジュン(大谷亮介)が死んだことを告げるシーンから始まる。ジョーには更にもう一人母親がいて、そのベニィ(深沢敦)も昨年死んでいる。
     この三人が、彼女たちの愛した男・ケンの忘れ形見・ジョーを、この60余年、育て、見守ってきたのだ。
     ミミはジョーに葬式の相談をするが、その声に元気はなく、埃をかぶったBARには、孤独と寂しさだけが漂っている。
     そこから、場面は少しずつ、ほぼ十年置きに過去に遡り、この60余年の歴史を描いていく。

     老いた三人のボケた団欒、ジョーが離婚したこと、ジョーが結婚したこと、ベニィが性転換して女になったこと、ベニィは男でありながら、実は従兄のケンを愛していたこと、「紅や」が資金難から売却されるところを、ミミが夫の遺産で間一髪、救ったこと、しかしその遺産は発作を起こした夫をミミが見殺しにして手に入れたものであったこと、三人がそれぞれ親として赤子のジョーを育てる決心をしたこと、そして三人が出会った1945年。

     ただの回想ではなく、時間を順を追って遡る手法は、近年直木賞を受賞した桜庭一樹『私の男』などに見られる。桜庭一樹はこのアイデアを夢野久作『瓶詰の地獄』から得たことを述べているが、わかぎゑふは、そのどちらも読んではいないようだ。
     先行作を知らず、このアイデアを思い付いたことは賞賛に値する。しかし、先行作を知らなかったために、わかぎえふはこの手法の最も効果的な作劇の仕方に気付けなかった。それが『紅姉妹』の「甘さ」に繋がっている。

     読者や観客は、物語の冒頭で「結末」を知らされる。通常のドラマツルギーならば、「落ち」を最初に知ることは興醒めになってもおかしくないはずだ。それがそうならないのは、「原因」によって謎が解かれる仕掛けになっているからである。
     冒頭で描かれる「別れ」や「死」、それが悲劇的であるがゆえに、「なぜそれは起きたのか」という謎に惹かれて、私たちは「過去」を追うのだ。
     しかし『紅姉妹』にはさしたる謎は提示されない。ベニィがなぜ女になったかとか、どういういきさつで三人の女がジョーの母親になったかなどは、充分に予測がつく範囲内で、意外性がないのだ。
     そのために、途中の展開は結構「もたつく」。三人が赤子の母となるラストシーンは、それまでの彼女たちの苦労を知っているがゆえに静かな感動を呼びはするが、本来、この時間遡行の手法が持っている劇的効果を十全に引き出すまでには至っていない。

     三人のうち、ミミとジュンが本物の女で、ベニィだけが性転換した男だという設定にも無理がある。篠井英介はまだしも、大谷亮介を本物の女と見立てるのは出来の悪いギャグでしかない。大谷亮介は「取り立て屋の男」も二役で演じているから、観客はますますこいつは男なのか女なのかと混乱させられることになる。
     すんなりと、三人とも“元男”ということにして、ジョーの両親とも死んだことにして、「ニューハーフ三人の子育て奮戦記」にした方が、「子を作れない元男達の哀しみ」も描くことが可能になり、よりドラマチックにできたのではないだろうか。
     そうすると映画『赤ちゃんに乾杯!』(あるいは『スリーメン&ベビー』)にかなり似通ってくるので、それを避けたのかもしれないが、篠井を除いて「女形には見えない」男たちが女を演じるとなれば、あくまで全員「女」にするか「オカマ」にするか、どちらかに統一しなければ、観客の見立てを阻害することにしかならないだろうと思うのである。

     と、批判はしてるけれど、一応、四つ星ですから(苦笑)。
  • 満足度★★★

    見本のよう作品。
    終戦から現代まで、アメリカに住む日本人(日系人)3人の姿を、時代を遡りながら描いていく。

    時代が遡るたびに出演者たちは若くなっていく。
    いま語っていることが後でどうなるのか、観客たちはその答えを既に見ている。
    そして、古い時代3人にどんなことが起こったのかも徐々に知らされる。
    それは微笑ましかったり、残酷だったりする。


    時代背景もしっかりとしている。
    3人のキャラクター配置も考えられている。

    何の欠点もないとも言うこともできるのだが、ちゃんとしすぎていて面白みに欠けることがちょっと残念。

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