満足度★★★★
演劇でやれることの百貨店
時間と空間が自在に伸張・収縮、拡大・縮小して、宇宙にも飛んだし、地中深くにももぐりました。自分の細胞の中まで、遠い遠い祖先まで、おのずと想像が広がります。一般¥3500は安すぎると思いました。
満足度★★
正直判らなかった
「私たちは無傷な別人か」の方向性の作品で、竜安寺みたいな作品ということで、私は「無傷・・・」に竜安寺の石庭のイメージが浮かんでいたので、きっとそういう作品なのだろうと観に行った。
でも、石庭みたいなイメージはまだ舞台上には存在せず、抽象的なのに生々しいイメージが送り込まれる台詞と常に曖昧さを追及した緊密な俳優たちがいるだけでした。
激賞している人たちが、有名人の人の中に何人か居て、
その激賞さ具合に辟易とするところもあった。
出来立てのワインを喜んでいる人を尻目に、ちょっと熟成が必要なのだろうと考えてしまった。
そんな事だから、岡田さんにふじみのも観に行きますと言ってしまった。
満足度★★
判断、難しいな。
昼の部を鑑賞。
外人さんの姿が10名前後。今後の海外公演の関係者でしょうか。
本題ですが、演劇として捉えるのか、はたまたアート作品なのか、
どちらでもない表現形態として考えるのか、
そのスタンス次第で結果が大きく異なるようです。
にしても・・・
ちょっと独創過ぎたように見受けられます。
初見でした。
自分があまり触れたことのない…触れることを避けていた、防御していた部分の感覚に迫ってくる、そのあたりを掘り起こされてしまうような刺戟を受ける作品でした。身をゆだねてしまうとやばい、連れて行かれる、ここで〈自制〉しなくちゃ、という感覚というか…。
で、その〈連れて行こう〉とする勢いは強くないので、気楽に〈自制〉することはできてしまうのです。けれど、おい、そんな傍観者でいていいのかい? なんて声が自分の中から出てくるような…そんなことを感じる公演でした。
満足度★★
現代アート
「フリータイム」以来久々に見ました。
正直なところ、演出面では「フリータイム」とそれほど変わったという印象はなかったです。
日常会話風に話される言葉。
でも、ずっとモノローグの連続で会話はなし。
セリフを喋る役者さんは身体をゆらしたり、変わったリズムで動かしたり、フラフラさせたり。
芸術としての演劇と見るとレベルが高いのかもしれませんが、舞台上で起こること全てに興味を持てず、セリフにも全く引きつけられず。
約90分、眠気との戦いに終始しました。
チェルフィッチュは演劇ではなく現代アートのパフォーマンスと考えて見に行く心の準備が必要だと感じました。
「それを見た人がどう感じるか」が大事なようなので、漠然としたものから積極的に意味を考えるのが好きな人にはお奨めします。
満足度★★★★
レイヤーの妙
ずれている会話、ずれている心と体、ちぐはぐなカップルたち、えっ?どのカップルがそのカップル? スクリーンに映し出された僕を語る僕がいる。僕が話しかけているのはだれ? あれ?(゚-゚) 少しずつずれている時間と空間。コミュニケーションのずれ。でもすごくフラットな感じがする関係性。←という自分の思いが最後にひとつに組み立て上がり、さっぱりした?スッキリした?感じ 。
渋谷慶一郎さんのfor maria、さりげないけれど記憶に強く残る素敵な曲でした。
満足度★★★★
日常的
チェルフィッチュ特有の文体と身体表現を通して「日常」とそれを抜け出すための手段としての「旅行」について語られる作品でした。ダラダラした雰囲気の中に緊張感があって、集中力を途切れさせない魅力に満ちていました。
「~ですよね」や「~なんですけど」といった言い回しや間投詞の多用、破綻した文法、妙な間など、リアルな日常会話体の淡々としたモノローグが交互に語られ、複数の人による会話のシーンはほとんどありませんでした。会話も素っ毛ない相槌が多く、現代の若者の人との距離感が的確に表現されていたと思います。
ビデオカメラで撮った役者の姿をリアルタイムでスクリーンに投影してドキュメンタリー的な効果を出しているだけではなく、終盤には映像と客席の関係が作品の内に取り込まれているのが面白かったです。
キャスターのついた箱で船や棺桶をイメージさせる詩的な演出は今までにあまり無かった要素で、リアルな言葉と身体の表現の中でとても新鮮に感じました。
今まで観たことのあるチェルフィッチュの作品の中で一番大きな空間での公演でしたが、空間を埋めようとせず、家具やオブジェがぽつんと配置されたスカスカな感じが印象的でした。照明もドラマチックな演出はないのですが、繊細でありながらざっくりした感じもあって良かったです。