地点『ーところでアルトーさん、』 公演情報 地点『ーところでアルトーさん、』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.3
1-3件 / 3件中
  • 満足度

    台詞がまったく入ってこなかった。
    地点、初の観劇。Corich! メンバーの観劇レビューはいずれも高評価ですが、わたしは観ていること自体がとてもしんどかった。何しろ台詞が全く耳に入ってこない。通常の日本語の文節やイントネーションからあれほどずらした発話という手法そのものに、根本から疑問を抱いた次第です。「音楽的」と言われれば確かに、そういうふうに見て取れないこともないとは思いますが。そもそも大事なのは、あえて俳優に特異な発話をさせることによって、テキストを舞台上に浮かび上がらせることができるかどうかだと思います。少なくても今回の舞台については、アルトーのテキストは私の耳を文字通り左から右へ駆け抜けていきました。

  • 満足度★★★★

    鮮烈な声
    普通ではない発声/発話法で語られる言葉と、シンプルで無機質な美術/照明によって、アルトーが書いたテキストが提示される、不思議な緊張感のある作品でした。

    役者の扱い方が独特で、役を演じているわけでもなく、役者本人として舞台に存在しているわけでもなく、何かの機械の様な佇まいでした。奇妙な発声法の生声やエフェクターで変調された様々な声の響きが凄かったです(特にヘッドホンをしながらCDの早回しの様な発声をしていた女性は圧倒的でした)。言葉というより声そのものコンポジションでした。
    身体表現も派手な要素はないのですが長時間静止していることが多く、役者の方は大変だったと思います。

    大きなプールと、その中に立つアンテナ、後方にはアルトーの肖像(巻き上げられるようになっていて、その後ろには映像投影用のスクリーン)の空間がスタイリッシュでした。
    ラジオ用に書かれたテキストを用いていることから、ラジオスタジオ的なブースがあったり、「放屁」という単語に対して口でその音を真似たりプールの底から大きな泡が出たりと案外テキストとベタに照応した演出もあって意外でした。
    途中で流れた唯一のBGM、ビーチボーイズの『サーファー・ガール』が、この作品の中で一番普通な要素なのに一番異質に感じられたのが新鮮でした。
    開演前と最後の聞こえるか聞こえない程度のホワイトノイズも効果的でした。

    語られるテキストの内容はほとんど理解できませんでしたが、まさにライブでしか味わえない「演劇性」が強く感じられて良かったです。

  • 満足度★★★★★

    時空を超えて現在の、池袋の、東京芸術劇場小ホール1の、あの時間、だけに流された生放送
    やっぱり、地点は「音楽」だ。
    全体がアルバムであるとすれば、各パートは収録曲。各テキストにふさわしい調べで奏でる。
    そして、アルトーさんは放送局、役者はそれを伝える(意思を持った)スピーカーであった。

    ネタバレBOX

    ドキドキするようなセットが組んであった。
    プールだ。

    もちろん水が張ってある。
    水には波紋が起こる。波紋は運動が伝わる様を見せてくれる。

    舞台で行われているのは、アルトーさんを刻み上げ、彫り上げていくような作業ではなかったか。
    アルトーさんの残したラジオドラマと手紙を、ひたすら役者たちが声にしていく。

    もちろん本来は日本語ではないアルトーさんの言葉たちだが、その言葉が洗練されているようで心地良い。
    その内容は、テキストとして読んだとしても、同じところを何度も読み返し、意味を知ろうと苦心するレベルのものだ(何度読み返しても理解できないものが多いかもしれない)。
    だから、一度、音で聞いたとしても、何について、どう述べているのかは、ぼんやりとしかわからない(いや、ほとんどわからない)。
    そう、それは、ちようど外国の曲を聴いている感じに近いのではないだろうか。

    英語の不得意な私が、例えば、英語の歌を聴いていて、ところどころ聞き取れる単語(loveとかpeaceとか…なんだそれ・笑)があったりして、なんとなくこんな曲なのかなと思ったりするのと似ているような気がする。
    もちろん、恋愛の歌かと思っていたら、反戦の歌だったりすることもある。
    しかし、それでも「いい曲」だなと思うことは間違いではないと思う。

    アルトーさんの言葉は、とても鮮烈な印象がある。
    単語やセンテンスがぐいぐい来る。
    普通に考えたら、役者たちが一気に声にするアルトーさんの言葉たちは、平板で退屈なものになりそうだ。しかし、そんなことはない。
    たぶん、言葉の強さと、それを伝えようとする(あるいは単に発する)役者の肉体の存在が、それぞれの演出によって、アルトーさんの言葉をさらに鮮烈にしているのだろう。

    それは、例えば、舞台上に「水」がなかったらどうだっただろうか、と考えてみる。つまり、真ん中にあるのはただの台であり、そこにアンテナが立っているセットだ。
    そう考えると、「水」は不可欠だったようにしか思えなくなってくる。
    「水」はラジオとアンテナからの印象としての「波(波紋)」を意味していると、とらえたが、それ以上の効果がもちらされていたということだ。少なくとも私にとって。
    「水」の「音」と「質感」が、直接(生に)響いてくるということが、心地良さやある種の違和感をもたららしているからではないだろうか。
    つまり、ここにあるのは、「役者」と「舞台(装置)」も込みで(上演された今となっては、必要不可欠な要素となった)のアルトーさんの言葉なのだ(もちろん「上演」しているのだから、それは当然なことではあるが)。

    かつて観た地点の『三人姉妹』では、音楽を感じた。同様に今回も「音楽」を感じたのだ。
    「音楽」としての地点の舞台は、ステレオ的な要素が楽しめる(特に初期のステレオ録音)。左右や奥行きの楽しみだ。役者の声の張り方、顔の向きに至るまでそれは「音」として楽しめる。
    さらに言うならば、姿、形も「音」の一部として楽しめるのだ。

    その「音(音楽)」は、役者というスピーカーを通して観客に伝わっていく。アルトーさんが放送局であり、時空を超えて現在の、池袋の、東京芸術劇場小ホール1の、あの時間、だけに流された生放送だ。
    スピーカーである役者は意思を持ち、放送に(&演出家もプラスされた)意思のノイズを加えて観客に届ける。

    スピーカーから流れてくるアルトーさんの言葉は、音楽になり、それは地点が選曲した1つのアルバムとなる。各パートは、各曲であり、独唱が基本でありつつ、合唱もある。

    そして、その曲は、当時に「ノミ」であり、アルトーさんというカタチを(ぼんやりと)1曲が1刻みのようにして、彫り上げていくのだ。

    それにしても、地点という劇団は、役者に無理を強いるという印象だ(笑)。対話ではなく台詞でもないあの長文をあれだけ一気にしゃべらせたり、言葉とリンクさせながら(単語に対応した振りで)手旗のごとく身体を動かせたり、指の上に機械を置いたまま、ずっと同じ姿勢でいさせたり、…とっても大変そう(笑)。

    地点は、どうやら私の何かにフィットするところがあるようだ。だから、来年神奈川で行われる舞台『Kappa/或小説』をすぐに予約したのだった。

このページのQRコードです。

拡大