【モニターご意見いただきました】 荒川チョモランマ
「R学級の中心」
演劇に何を求めて鑑賞しているのかと考えたとき、「少し歪んだ現実を見たいから」と私は回答する。日常生活その侭や単なる娯楽ではなく、ふと振り返ると現実の自分と繋がっている虚構。その虚構としての舞台を鑑賞し、自身の記憶や感情を補って反芻する。閉鎖空間の中で一定時間を観劇のために他者と共有することで、その経験の密度は増していく。
舞台設定を考える際に「学校」というのは物語の舞台になり易く、物語が起こり易い。ほぼ全員が経験している場である一方で、それは家族体験と同様に、個人差があろう。例えば同じ「高校」と言われても、各人が抱く像はその人の経験した「高校」に依存をする。その多様さ故に、作り手も、鑑賞者も、舞台上の役者の誰かや、どこかの場面に、いつかの自分を見る。
「R学級の中心」を拝見して、まず印象的であったのは前半部分の「学校」の風景の眩しさであった。ただ個人の生を全うすることだけに一喜一憂している彼らの明るさや若さ故の無知さ。狭い世界での人間関係が全てであるが、その全てに満足をしている幸福感。冒頭数分の場面から見事に作品世界に惹き込まれてゆく。
しかし、この幸福な平和さを維持しているのは崩壊への恐怖心でしかないのかもしれない。物語が進むにつれて露呈するのは、「学級」や「学校」で担保されている集団の脆さや、その構成員がもつ秩序維持のための狂気である。この危機にそれぞれがどう向き合うのか、そしてどう向き合わないのか。いずれの描き方にも、作演出家の誠実さが見えていた。前者には実験的な方法論を用いて、後者には演出と言葉と、役者への信頼によって。
2年ほど前、機会あって長田莉奈にいろいろと話を聞いたときがあった。そのときあるお祭りの話をしながら、自身の演劇論について「やっている側もそうですけど、見ているお客さんの感情の放出」についても考えるようになったと語っていた。この話の後、彼女は3本の企画公演と、そして今回の旗揚げ公演を打つことになった。「学生芸術祭」というお祭りの中で旗揚げることは、彼女にとってもまた何か意味深いのかもしれない。(それは学生芸術祭のVol.1で先輩劇団の手伝いに来ていた本山紗奈にもまた違った意味深さがあるのだろうが。)
冒頭で670字も使って硬いコト書きましたが、とにかく皆さん見てましょう。それでつまらないか、面白いのかを決めましょう。たいてい旗揚げ公演なんてそんなものです。これは私は最終通しを見て考えたことなので、きっと劇場ではもっとよくなっていることでしょう。劇場で完成形を見られないのがひどく残念です。
集団性の怖さを描く作家がこの先どんな「劇団」という集団を作っていくのかは、個人的にも、それとは違った意味でも楽しみなことです。
K.T(大学院生/元舞台照明家)
うっかり。
うっかりね、観ちゃったんですよ。学内でやってた時の彼女の作品をね。あ、彼女とか言ってますけど直接会って話した事はないから身内でも何でもないんですけどね。でね、うっかり面白かった記憶があるんですよ。そしたらさ、またうっかりしちゃうと思うんですよ。夏の池袋をふらーっと歩いて、気付いたらなんか寺が見えるぞみたいなね。
期待度♪♪♪♪
観たいというか観るんだけど
シアターグリーンでやる仲間でありライバル。
てあとろ時代の長田作品は3作観てるが個人的な感想として回を追う毎に面白くなってる。成長が止まることがない人。ひたすらチョモランマのてっぺんを目指すのではないか。