実演鑑賞
満足度★★★★
工藤千夏と言えば自分は渡辺源四郎商店の在京座員(店員?)という認識であったが、青年団演出部での実績(若手企画~後に青年団リンクうさぎ庵)が先であった。枠にとらわれない独自の動線を行く工藤女史が今回花組芝居役者らと組んだいきさつ、ないし狙いは知らず。前説によれば「コロナ下での模索」の紆余曲折の結果、現在の形となったという事でワークインプログレス的な出し物かと構えたが、中身は三部構成の「工藤テキスト」の上演(リーディング風)と、その合間の素の時間。平場との地続きの感触が趣向のようであった。
のっけから言いたくて仕方ない一言を言ってしまうと、(後で役者名を照合した)3名の花組芝居の役者の立ち姿が好きでない。主宰加納幸和氏の俳優姿は何度か拝んだがこれは別格として、3名の醸す空気と何を重ねたかと言えば、私は派生ユニットのあやめ十八番でしか「それ的なノリ」を知らないが、江戸を舞台の「時代物」(花組芝居の領分らしい)に漂うある匂いが役者の演技の質を高みから遠ざけている、その部分。
型の演技に対するリアリズムの演技の面の深まらなさは、やってる芝居の性質から来るもののように思え、今改めてあの「時代物」に自分が最も感じていたもの・・芝居の中身は忘れたが断片的な風景とその中で自分の中を巡った感覚を思い出し、再考することになった。
・・と大袈裟に入ってしまったが、今回の「素」と「上演」の垣根の低さは、果たして彼らの得意技であったか、という疑問が湧く。必死こいてたのかも知れないが、演劇では素の挿入も演劇的な作為でなければならない、という前提を敷けば、狙うべき焦点がしっかと据えられての「素」のふるまいではなく、アドリブ性の「演出」でなく、アドリブそのもの。そこで役者という存在の正体、根っこが問われる。どういう芝居をやっていて、どういう精神で取り組んでいて、だからどういう生活者としての矜持を持っているか、つまり「素」の役者自身という土台から「素」というものは発するのであって「素」という状態が代替可能なものとしてある訳ではない。・・・随分当たり前な事を書いて役者諸氏を馬鹿にした物言いになっているが、私が「好きでない」のはある種の役者というあり方なのかも知れぬ。
ファンには失礼だが「時代物」の多くが「大きな物語」としての「江戸」というブランド、そして歴史(事実)という重みに大なり小なり「おんぶにだっこ」している。パロディが成立するのはパロる対象のデカさ故、だからこそそれに拮抗する現代性、独自性、骨太なメッセージを見出そうと創意工夫する、という事な訳だろう。芯のある芝居はそこに生きる一人ひとりが生き生きと、リアルに、魅力的に存在する。その根っこに人間性への希求がある。さて・・。(言葉を飲み込む私。)
実演鑑賞
満足度★★
■約80分■
俳優たちによる5つの掌編の朗読と、短編演劇2本、計3コンテンツの寄せ集め。全体を貫く格のようなものもなく、こんなご時世にわさわざ上演するほどのものか、と疑問が残った。
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/09/02 (木) 17:00
ベテランによる、とっても気の利いた(?)作品。
工藤千夏が書いた脚本を、花組芝居の桂憲一・大井靖彦・八代進一とキャラメルボックスの西村浩幸,山藤貴子らで上演する。Part 1『山中さんの犬』は、山中さんの犬を預った家の物語。テンポ良く繰り出されるエピソードとセリフに笑わされながらホンワカ観ていられる15分。Part 2『Five Dogs』は、5つの短編を5人が個々に朗読する。どれも気の利いたオシャレな(という言い方が適切か分からないけど)物語。30分。「4分間の換気休憩」の後、Part 3『中山くんの縁談』は、江戸時代っぽくないけど江戸時代の話だとすぐに分かる展開で、誰を扱っているかも大体分かり、面白く観ていられる30分。
物語の面白さと、ベテランらしい確実な演技で、楽しめる80分だった。