ユートピア?◆フェスティバル/トーキョー09春 公演情報 ユートピア?◆フェスティバル/トーキョー09春」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.5
1-5件 / 5件中
  • 満足度★★★★

    平田演出はよくできていたと思います
    大好きな平田オリザ演出作品ということもあって、楽しみにしていきました。客席は、F/T演目の週末としてはかなり空席が目立ったかな。芝居はというと、平田演出の前半はやはり期待の背くことなく、ウェルメイドでよくできていたと思います。役者はどなたも上手。ただ、3人の演出を合わせた作品のまとまりということでは、今一歩だったかなと。

  • 満足度★★★★

    このフェスティバルで上演される意義のある演目!
    せっかくこうして都がバックアップして国際色豊かに、大々的に行われる演劇フェスティバルで、おそらく今年の日本の演劇界最大のイベントだと思うので、そうした中で上演されるには最も意義のある企画なのではないでしょうか。

    平田オリザ氏以外の2名の演出家は寡聞にして予備知識が全くなかったので、どのようなものが提示されるのか楽しみに見てきました。

    ネタバレBOX

    オープニングとエピローグがブザンソン国立演劇センター芸術監督のシルヴァン・モーリス氏。
    それに挟まれるように、平田オリザ氏『クリスマス・イン・テヘラン』と、アミール・レザ・コへスタニ氏『サン・ミゲルの魚』。

    平田オリザ氏の『クリスマス・イン・テヘラン』がまず最初に出来たと書いてあった。
    そして『サン・ミゲルの魚』はそのバックステージもの。
    この構成があまりに素晴らしくて!

    「クリスマス・イン・テヘラン」で観客の気持ちをグッと掴んでおいて、「サン・ミゲルの魚」で観客にコミュニケーションというもののあり方や、このバックステージもの特有の、表舞台で見られない役者たちの姿を表現して。
    まあ、実際のところは自分の出番の間にあんな風に野球ゲームに興じたり、なんて余裕は無いと思いますが・・・。
    それに、実際の舞台が行われている間にあんな深刻な話をしている余裕はないでしょう。
    役者は自分が舞台に出ていなくても、もっと集中してるはず・・・。
    と思いつつもファンタジーとして十分受け入れてしまうだけの内容。

    最後は既に滅んだ演劇が発掘されて、それを再生させるという試みを見せて終わるのだけど、ガスマスクを付けた役者たちがゆるーいダンスを見せるのが良く判らないです。
    でも、その判らなさが、文化として滅んだ演劇を再生するということなのかな?
  • 満足度★★

    異文化交流を超えて・・・
    アフタートークで話していたように、まさに異文化交流を目の当たりにした感じ。ただ、単なる異文化交流は最早面白くない!異文化交流を超えて、芸術として一つの作品になってものを見たかった。単なる参加国の言葉の応酬、考え方の違いでは面白くない。

  • 知的興奮と、
    ウェルメイドな作品を堪能しました。3部構成通して、とても面白かったです。

  • 満足度★★★★

    演劇は終わらない
    3人が共同して、どのように作・演出を行うのか興味津々だった。
    まったくの空中分解に終わる可能性もあるからだ。

    しかし、ちょっとした驚きとともにそれは成し遂げられていた、と言っていいように思う。
    全編を覆うギクシャク感みたいなものも、互いの意思疎通の難しさを表しているように感じたからだろう。

    字幕を追うのは辛かった。しかし、ひっとしたら、それには理由があるのでは? と思ったのだ。その理由はネタバレで。

    ネタバレBOX

    全編通して感じたたのは、人と人との意思疎通の難しさだ。

    舞台では、言葉や文化が違うことによる意思疎通の難しさがあり、さらに言葉が同じであっても、意識が通わない意思疎通の難しさ、最後には時間による意思疎通の難しさが示される。
    そして、極めつけは、字幕による観客との意思疎通の難しさである(言葉による意思疎通の難しさに含まれるものなのだが、舞台と観客という要素があるので)。

    字幕の文字の多さ、台詞とのタイミングのズレ、字幕の文章の区切りの悪さ等々は、観客に仕掛けられたワナと、いうか「体験」なのではないか、と思ったのだ。

    つまり、台詞の内容と字幕の文字数はあらかじめわかっているはずだし、当然観客が字幕を読む速度もわかるはずだから、そのあたりはなんとかできたのではないだろうか、ということなのだ。
    だから、「あえて」(演出で)そうしたと思ったのだ。

    メタの上にメタ、メタ、メタと付くような演劇だったのではないだろうか。

    その上で、舞台では、言葉や文化が違う者たちが、どうにかして相手に伝えたいと思う気持ちや、過去の異物としての演劇やダンスを再生し、理解しようとする姿は、今まさに行われている舞台の内容を理解しようとする我々観客とダブっていくのだろう。

    「ここはフランスだ」と舞台の上で言えば、そこはフランスとなる。それは、フランスであり、イランであり、季節も時間もアッと言う間に変わってくる。
    そんな演劇の基本的なルールを丁寧に追っていき、作者が言い放ったイメージを受け取ろうとする観客がいる限り、演劇もダンスも終わることはないのだろうというのがラストを観た感想なのだ。

    これは深読みすぎかな?
    でもそう思ったんだよね。

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