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カテゴリ:ワークショップ告知 返信(1) 閲覧(162) 2017/11/22 21:36
shelfの12月ワークショップについて、代表の矢野が日頃、考えていることを少し長めに書きました。ご一読頂くだければ幸甚です。
(※次々回公演「つく、きえる」(作/ローラント・シンメルプフェニヒ)の出演者募集、ではありませんが、実は若干名、非公式に出演者を募集しています。参考までに。)
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演劇の、演出について。テキストとの向き合い方について。...自分は基本、テキスト原理主義者だと思っている。作家の言葉については、出来ることなら一言一句変えたくはない。しかしそれは作家を信頼しつつも決して礼賛して神棚に上げているからではない。それは作家に対して至極失礼な態度だ。
なぜなら、最終的な”作品”の責任の所在を、演出家や俳優にではなく作家に求めることは現場でレベルでは責任の転嫁だし、エクスキューズだし、そもそも無責任な態度であり、演出や創作がそもそもうちに孕む(作家に対する)暴力を隠ぺいする態度だと思っているからだ。
他者としての劇作家が書いたテキストをまた別の他者である演出家が演出する。そこにはどうしても暴力が働く。どこまで書かれた通りに演出しようと、絶対に改変が加わる。テキレジや、プロットなど構成の変更を加えればなお更だ。そして僕はしばしば、否ほぼ常にテキレジや改変を行う。
それでは、それでもなぜ、僕が自分をテキスト原理主義と自認しているのか。それは 他者の書いた(それは内なる他者でも同じなのだが、)テキストを扱い、演出しあるいは俳優にその他者のテキストの発語を強いることは、一つの制約であると考えているからだ。
そしてその制約は制限ではなく表現が飛躍するために必要不可欠な、形式の、或いはゲームのルールのようなもので、人は基本的に自由を持て余している存在で、むしろ制作の中でこそ本当の自由を獲得できる存在である。という僕の一つの信念があるからだ。信念というかそれは一つの仮説といっていい。
人は自由を持て余している。この考えはともすれば非常に危うい。人が常に外からの制限を必要とするという考えは極端に振れれば日常生活への正義面したパターナリズムの介入を許容しかねない。その誘惑に駆られている為政者や著名人は昨今益々増えて来ている。世間を少し見渡せば簡単に観察できる。
だからこそ、というかそこにフィクションの、演劇や舞台芸術などが社会にコミットすべき理由と可能性があると思っている。フィクションはフィクションに過ぎない。しかしだからこそ、その制約を得ての自由を、虚構の中に実現することが出来る。そこには現実世界への批評性と影響力とがある。
※舞台芸術の、とフィクションから映像表現をいったん外したのは映像は簡単に観る者に没入感を与えることが出来る性質があるからで、それは危険なことと考えているからだ。もちろん没入を忌避する映像もあるし、没入をさせる舞台表現もある。(ディズニーランド的なものはその最たるものと思う。)
※断っておくと僕はディズニーランド的なアトラクションや、没入して日常をひととき忘れさせ、映像やファンタジーに浸る快楽を否定しているワケではないし、決して嫌いじゃない、むしろ好んで見たり、遊びに行ったりする方だ、と思っている。ハリウッド映画とかスペクタクル映画、大好きだしね。
話をテキスト原理主義の話に戻すと、一人の妄念が如何に集団創作より激しく強く、豊かで魅惑的で、矛盾に満ちていて興味の尽きないものになり得るか。を僕は多くない読書体験で知っている。そこと向かい合うことが、他者の言葉と思念と格闘することこそが演劇の醍醐味だ。と僕は今そう思っている。
というわけで、今述べて来た考えの元に同世代・同時代の希代のドイツの劇作家ローラント・シンメルプフェニヒのテキストと真っ向から向かい合うワークショップを、12月に行います。定員までまだ余裕があります。一人でも多くの皆様のご参加をお待ちしております!
演劇の、演出について。テキストとの向き合い方について。...自分は基本、テキスト原理主義者だと思っている。作家の言葉については、出来ることなら一言一句変えたくはない。しかしそれは作家を信頼しつつも決して礼賛して神棚に上げているからではない。それは作家に対して至極失礼な態度だ。
なぜなら、最終的な”作品”の責任の所在を、演出家や俳優にではなく作家に求めることは現場でレベルでは責任の転嫁だし、エクスキューズだし、そもそも無責任な態度であり、演出や創作がそもそもうちに孕む(作家に対する)暴力を隠ぺいする態度だと思っているからだ。
他者としての劇作家が書いたテキストをまた別の他者である演出家が演出する。そこにはどうしても暴力が働く。どこまで書かれた通りに演出しようと、絶対に改変が加わる。テキレジや、プロットなど構成の変更を加えればなお更だ。そして僕はしばしば、否ほぼ常にテキレジや改変を行う。
それでは、それでもなぜ、僕が自分をテキスト原理主義と自認しているのか。それは 他者の書いた(それは内なる他者でも同じなのだが、)テキストを扱い、演出しあるいは俳優にその他者のテキストの発語を強いることは、一つの制約であると考えているからだ。
そしてその制約は制限ではなく表現が飛躍するために必要不可欠な、形式の、或いはゲームのルールのようなもので、人は基本的に自由を持て余している存在で、むしろ制作の中でこそ本当の自由を獲得できる存在である。という僕の一つの信念があるからだ。信念というかそれは一つの仮説といっていい。
人は自由を持て余している。この考えはともすれば非常に危うい。人が常に外からの制限を必要とするという考えは極端に振れれば日常生活への正義面したパターナリズムの介入を許容しかねない。その誘惑に駆られている為政者や著名人は昨今益々増えて来ている。世間を少し見渡せば簡単に観察できる。
だからこそ、というかそこにフィクションの、演劇や舞台芸術などが社会にコミットすべき理由と可能性があると思っている。フィクションはフィクションに過ぎない。しかしだからこそ、その制約を得ての自由を、虚構の中に実現することが出来る。そこには現実世界への批評性と影響力とがある。
※舞台芸術の、とフィクションから映像表現をいったん外したのは映像は簡単に観る者に没入感を与えることが出来る性質があるからで、それは危険なことと考えているからだ。もちろん没入を忌避する映像もあるし、没入をさせる舞台表現もある。(ディズニーランド的なものはその最たるものと思う。)
※断っておくと僕はディズニーランド的なアトラクションや、没入して日常をひととき忘れさせ、映像やファンタジーに浸る快楽を否定しているワケではないし、決して嫌いじゃない、むしろ好んで見たり、遊びに行ったりする方だ、と思っている。ハリウッド映画とかスペクタクル映画、大好きだしね。
話をテキスト原理主義の話に戻すと、一人の妄念が如何に集団創作より激しく強く、豊かで魅惑的で、矛盾に満ちていて興味の尽きないものになり得るか。を僕は多くない読書体験で知っている。そこと向かい合うことが、他者の言葉と思念と格闘することこそが演劇の醍醐味だ。と僕は今そう思っている。
というわけで、今述べて来た考えの元に同世代・同時代の希代のドイツの劇作家ローラント・シンメルプフェニヒのテキストと真っ向から向かい合うワークショップを、12月に行います。定員までまだ余裕があります。一人でも多くの皆様のご参加をお待ちしております!
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