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カテゴリ:ワークショップ告知 返信(2) 閲覧(147) 2017/10/10 15:23
―――与えられた言葉(台詞)について、その言葉を発すべき身体の在りようを探ることから演技を組み立てる。テキストと俳優との適切な距離を探り、そのために必要な身体の取り扱い方、空間への関わり方の方法を考える。―――
shelfでワークショップを実施するときには必ずここからスタートするのですが、この「テキストと俳優の適切な距離」を、というのが、少々理解して貰いにくい場合が多いようです。取り敢えずは皆さんにお聞きしたいのは先ず、自分が普段発している言葉と、自分の考えとの間に、乖離、距離を感じたことは、皆さん今までにありませんでしょうか。
若しくは、例えばエチュードや、公衆の面前で自分の考えや意見を自由に喋って、と言われてもどうしてもうまく喋れない、言葉が出てこない。
自分の考えをうまく表明できない。遠慮してしまう。という経験は、少なからぬ人が少なからず(それは俳優に限らず)経験しているのではないかと思います。
ところが、経験の浅い俳優は(…残念ながら経験の浅い俳優に限らないのですが、)何故か、与えられた台詞を抵抗なくするすると”喋れて”しまう。
他人の言葉だからなのか? これを喋って良いと、戯曲や演出家に許可、お墨付きを与えられている(と感じてしまう)からなのか…?
そしてそのようにするすると喋られてしまった言葉には、たいていの場合、リアリティがない。
ここで、ではリアリティとは何ぞや? という話をすると長くなるので割愛しますが、とにかくリアルではない。
そういう感覚を、演出家に限らず観客の方であっても持ったことがあるのではないかと思います。
ここに演技というものの本質がある。と僕は考えています。
演技では出来てしまうけど、普段は出来ない。その”楽しさ”は、現実世界で叶わないことを叶えられる”フィクション”の特権である”と同時に諸刃の刃でもあり”、現実に即さない発語行為としての演技を許容してしまうと、劇世界は途端に崩れてしまう。
実は、ここで起きていることの本質は意外と簡単な話なのです。
それは、果たして現実にその言葉を発した人がいて、その人はその言葉で自分の伝えたかったことを100%伝えらている、といつも、思っているのでしょうか? この言葉では足りない、とか、これはではニュアンスが違ってしまう、とか。そういうことはないでしょうか、ということなんです。
あるいは、思わず怒声を発してしまった人は、本当にその大きさのその激しさの言葉を発したくて発しているのでしょうか。
涙を流している人は、果たしてその人が感じている悲しさを誰かに対して表現したくて、涙を流しているのでしょうか。
人間は、本当に思っていることだけを言葉にしている訳ではない。それを戯曲上で初めて明確に書き表すことに成功したのはイプセンであり、チェーホフでした。
ただでさえ本心をだけ発していない人間が、どうしてそう、与えられた台詞となるとするすると、とたん自由に発せられると思ってしまうのか?
俳優の仕事はそのような、本心でない言葉を、あるいは意図せざる発語行為を如何にリアルに、そのように負荷=ストレスを感じ・抱えながら、しかし何とかして発語出来る”身体”を見つけ得るか。に集約されると私たちは考えています。
そのような意味での、言葉との「距離」を見つけるワークショップをshelfは行い続けています。
当然ながら、その言葉をどのようにリアルに響かせることが出来るか?=自分の声にすることが出来るか? は、人それぞれに千差万別です。
ただ間違いないのはそれがシェイクスピアだろうと近松門左衛門だろうと、俳優にはそれを自分の言葉にする方法が必ずあるはず。それを参加者の皆さん一人ひとりと探っていきたい。
長くなりましたが、11月10日(金)~12日(日)に行うshelfアクティング・ワークショップでやりたいと思っていることを少し丁寧に紹介してみました。
新しい出会いと経験を皆さんと共有し、それぞれに気付きの多きワークショップに出来ればと願っています。
みなさんのご応募、心よりお待ちしております。
矢野靖人
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