アキラが投票した舞台芸術アワード!

2017年度 1-10位と総評
『青いポスト』/『崩れる』

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『青いポスト』/『崩れる』

アマヤドリ

『崩れる』

公演が始まり、明らかに「いつものアマヤドリ」とは違うことに気づく。
シーンの重ね方、物語の進める方法がまったく違うのだ。
いつもよりも、さらに台詞のやり取りに重きが置かれているようだ。
しかし、その台詞のやり取りが凄すぎる。
台詞のやり取り、というよりは「会話」の凄さに圧倒された。

演出がいいのか役者がいいのか、その両方なのか。
一見簡単に見えて、このレベルの作品にはまず出会えない。

この凄さは、こういう感じの、若者の普通の会話劇を目指していて「(自分たちは)そこそこできてるんじゃない?」と思っている演劇関係者が見たら震えるんじゃないか、と思うほど。

新しいアマヤドリ! 大歓迎!

(以下ネタバレあり)
大学の同窓生だった男たちがサイクリングの旅に出て、泊まった先の宿で交わす会話劇。
ハリーこと針谷が知らないうちに、他の3人は中止したはずのキャンプをやっていた。
そこに来た女の子・ミライと猪俣が付き合っている。
ミライはハリーも好きな子だ。仲間はそのことを知っていた。
彼らはハリーには猪俣が付き合っていることも、キャンプをしたことも黙っていたのだが、宿でハリーに打ち明けることになった。そしてハリーは怒り出す。

ハリーがキレていく様が本当に怖い。
まったく着地点が見えないからだ。

そこに従業員のこじらせているヤバイ奴・松本のエピソードが挿入されることで、着地点がまったく見えなくなってくるのだ。
松本は「どうすれば満足なんだ」に対する答えがないからだ。
同様にハリーの怒りも、とても冷静で論理的なので、逆にどうしたいのかが見えてこない。

金沢と江田は、実際は自分たちのの話なのに、なんとなく猪俣の話、猪俣と針谷の話に変化させていく。さらに江田はずるく立ち回る。
自分たちが「悪者になる」とかならないとかという会話は、他人事だから出てくるものだ。

だから針谷の怒りに対して、「まあまあまあ」の感じで接しているから、針谷の論理的な怒りには対応し切れていない。

と思っていたら、ぐらりと状況が回転した。

針谷の真意は、同じ会社の猪俣を人員整理したいということだったので、キャンプのことも付き合っていることも知った上で、怒ってみせていたことを明かす。

針谷は論理的に、つまりどこか冷めた頭で怒っていたので、自分の仕掛けた罠を客観的に見てしまったのだろう。だから、自分に嫌気がさして本心(罠であること)を仲間に告白してしまった。

そこに至り、本当に「自分がどうしたいのか」がわからなくなってしまったのだろう。「怒りの着地点」からの移行されていく様がいい。

彼の気持ちの揺れ動きの表現がかなり良い。
そして観客にそのことをきちんと分からせるために、宿の主人・園田が、彼の気持ちをくみ取りながら、話が納まる方向を占めそうとする。カウンセリングのように。
そもそもこの宿は、「行き場のない奴のたどり着く先」みたいな話だったので、宿の主人・園田はこうした面倒くさい人の対応は心得ている、という設定がきちんと活きているのだ。

蜘蛛の巣のように、張り巡らされた設定がすべて上手く絡み合っている。
本当に上手い戯曲である。
さらに台詞やシーンの緩急、動静のリズムが気持ちよく、さすが広田淳一 さんの作・演出であると思わざるを得ない。

シリアスな会話が交わされるのだが、笑いもある。
真剣な他人の会話は、外から見ると面白いというのもあろう。
「フラットな」「ドローン」「ごめんを返す」なんて台詞の面白さもあった。

そして役者たち。素晴らしい。

針谷役の石本政晶さんが、かなりイヤな感じでねちねちと仲間を責め立てるのが、上手すぎ。冷静な顔で責め立てる。こんな風にされたらどうしようもない。

そして江田役の倉田大輔さんがスゴすぎる!
今までもアマヤドリの作品で見て、「ちゃらいのが上手くて、テンポのいい俳優さんだな」とは思っていたが、今回は驚くほどの上手さだった。
台詞の切り返し、気持ちの切り返しの上手さに驚く。ちゃらくてイヤな奴(笑)が、無意識に自分だけを守ろうとして躍起になっている感じが良すぎるのだ。

アマヤドリには、「化け物だ」と思うぐらい凄い役者・成河さんがいたし、そして中村早香さんという、グイグイ来るわけではないのに、つい引き込まれてしまう上手い役者さんもいる。

アマヤドリには、磨かれるとぐいっと出て来る役者さんが常にいるという印象が、倉田さんの登場でさらに強まった。磨き方も上手いのではないか。
この作品を観ると、さらに次にぐいっと出て来そうな人たちもいるようだ。

すでに次回作が楽しみになっている。

散歩する侵略者

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散歩する侵略者

イキウメ

2011年版を観ているが、今回はさらに完成度が上がった。
演劇らしい、見せ方、面白がらせ方を知っている。
ラストは泣いている観客が多かった。

そして大窪人衛さんの、あの身体を捻りながらの台詞回しのイヤったらしさは、やっぱり最高だ! これぞイキウメ!

前川戯曲は前川演出のイキウメが一番面白い、というか前川演出であったとしても、なぜかイキウメ以外はそんなに面白くならないのだ。
正直、『散歩する侵略者』もドッカンドッカンと、微妙にいろいろ見せてしまう映画版よりは数百倍はいい。

三月の5日間 リクリエーション

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三月の5日間 リクリエーション

チェルフィッチュ

それじゃ『三月の5日間』の感想をはじめようって思うんですけど。
やっぱり、これってスペシャルな作品って思うんですけど。
過剰な動きも言い訳じみた言い回しも、やっぱ自分の周りにバリアーっていうか、バリアー張っている人たちって感じがするんですよね、みんな。傷つきたくない人たち、みんな。

で、舞台の設定である2003年と、今の2017年って何が違うかと言うと、そういう人たちは相変わらずいるし、「戦争」との距離感も今と何ら変わってないんじゃないかな、と。イラクもアフガンも北朝鮮も渋谷のずっと向こうじないですか。それってテレビの向こう側ってことじゃないですか。
渋谷にいる彼らのように、テレビのスイッチ入れなければ、「戦争は起こっていないし」「終わってもいない」そんな感じじゃないですか。

政治に関心が高い人たちっているじゃないですか、デモとか。意識高いみたいな。
だけどイベント的なそういう感じって、やっぱりあるんじゃないかって思うんですよね、そんな人たちにも。いや、いい意味でイベント的な感じであって、まあ悪いと言ってるわけではないですよ。マジで。

この作品って、場所も時間もかなり特定されているじゃないですか。でも、登場人物たちの姿はボケているじゃないですか。いろんな役者さんたちが演じていき、台詞の繰り返してさらにいろいろと薄まっていくんですよね。その不確かさがたまらず良いって思うんですけど。実際。スペシャルな感覚で。

それと、台詞がなんか音楽なんですよね。気持ちいいぐらいの音楽。ずっといろんな音(声)で鳴ってる。少し声を張ったり、静かに話したりって、スペシャルな、なんかスペシャルじゃないですか、音の響きが。台詞そのものが音楽っていうか、BGM不要っていうか、そんなんですよ。たぶん。

チェルフィッチュの舞台って、影響的なやつ受けるじゃないですか。演劇の人は、イヤでも意識せざるを得ないってあるんじゃないですか。まあ、「ある」って言い切れるわけではないやつで、ない人もいるのかもしれない、「ある」なんですけど。

あと、アフタートークのこと書いて、この感想を終わりにしようと思います。
アフタートークに平野啓一郎さんっていたじゃないですか。トークの中で岡田さんに「批判性」っていう問いですけど、その問いって良いなって思ったんですけど。まじ、これってスペシャルなトークだと思っちゃったんですよ。

「標〜shirube〜」

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「標〜shirube〜」

劇団桟敷童子

終戦前後の九州の寒村が舞台、古い言い伝え、風車。
こうした、桟敷童子的には「ワンパターン」とも言える素材なのに、最後まで引き込まれて見てしまう、それが桟敷童子の面白さだ。セットの作り込み、装置の動きもいい。
死と隣り合わせであっても「生きる」というテーマが強いのも魅力的だ。
大量の紙吹雪とラストの風車は、わかっていても感動してしまう。

劇団桟敷童子の役者さんたちはどの人もとても素敵だ。
客演ではあるが、ワタリを演じた朴璐美さんはややオーバーアクトではないかと思いつつも、ものすごい熱演。
リュウを演じた板垣桃子さんは落ち着いた役なのに存在感がさすが!
ハナ役の大手忍さんもいい!

グランパと赤い塔

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グランパと赤い塔

青☆組

「人と人とのつながり」その本来の姿。

青☆組を初めて観たのは、たぶん10年近く前になる。
アトリエ春風舎での公演『雨と猫といくつかの嘘』だ。
そのときに「上品だ」と感じて、そう感想にも書いたと思う。

そして、その「品の良さ」は今もずっと続いている。
こんなに品の良い作品を生み出している劇団は、ありそうでない。

さらに最近はそれに「風格」も加わった。
それはここまで続けてきたことの、自信なのかもしれない。

(以下ネタバレあり)

この作品は、登場人物が多いにもかかわらず、1人ひとりに愛情が込められているので、物語に深みがある。
彼らの背景についていちいち細かく書き込まれていないのに、その背景が台詞の端々からうかがえるのだ。
これが「品の良さ」の源泉であるし、「風格」にもつながっているのではないだろうか。

今回は(も)、作の吉田小夏さん自身につながる家族の話がベースにある。
「もはや戦後ではない」と言われた頃から東京タワーが完成する、昭和30年代前半が舞台である。
1956年ごろから1958年ごろではなく、あくまでも「昭和」30年代前半なのだ。
西暦ではなく元号「昭和」で切り取られるべき世界。

青☆組は、『パール食堂のマリア』など、この作品と同時代を舞台にしたものはあるが、現代を舞台にした作品であっても、「平成」と言うよりは「昭和」の香りがする。
それは古くさいということではなく、「人のつながり」においてスマホやパソコンで「つながっている」と「勘違い」している「平成」の世界ではなく、「人と人」が「顔を合わせ」ることで「つながっている」世界があった時代ということだ。
その時代が「昭和」のイメージに重なり、確実に行われていたのが、高度成長期が始まる前あたりだった。
戦争からようやく一段落して人心も落ち着き、さあがんばろうという時期。

そういう「人と人とのつながり」こそが本来の人の姿である、としているのが青☆組ではないかと思うのだ。
だから殺伐とした話になるはずもなく、「わかり合えないこと」があったとしても、「信頼できる関係」を築くことができる。

この作品には、「家族ではない」つながりの人々が出てくる。
従業員やお手伝いさんだ。
しかし、彼らも「家族」の一員としてそこにいる。もうひとりの母、古い友、良き兄、弟として。
だから楽しいこともあるが、苦しくなることもある。
それこそが人と人とのつながりではないか、ということを示してくれている。

東京タワーと同じ歳の私としては、この作品で描かれる生活や家族は、その時代(作品の時代には生まれてなかったりするが)に体験したものと比べてピンとはこないのだが(しゃべり方だったり台詞内の単語だっり)、その「空気」には懐かしさに似た匂いを感じる。「確かにそんな感じだった」「家族の会話」や「人々の佇まい」「居住まい」は、と。

それは単なるノスタルジーではなく、「やっぱりそうなんだよな」という、反省にも似た感覚だ。
つまり「人は自分を取り巻く人たちの幸福を願い、きちんとつながっていくのがいい」ということだ。

しかし人とつながることは、甘い話だけではなく、例えば今回の作品で言えば、若いお手伝いさんの過去の話を聞き、求婚した男に「それでもいい」と軽々に言わせないところが、現実的である。こうしたエピソードが作品を物語の上からもきちっと締めている。
登場人物を愛するあまりに、ここはハッピーエンドにしたいところだとは思うのだが、そうしないところが、吉田小夏さんの上手さではないだろうか。

青☆組の公演は、吉祥寺シアターサイズの大きな劇場では、セットに高低差を作っている。
これの使い方が非常に上手い。
人の出し入れが左右、上下、さらに前後と立体的で、効果も上がっている。

登場する役者さんたちはどの人も良かったのだが、特にお手伝いさん役の大西玲子さんが印象に残る。
彼女は幼児からネコ(笑)まで演じる女優さんだが、今回は彼女の上手さが滲み出ていた。

彼女の腰の据わり方がいいのだ。そこから見えるのは、この一家への愛情。
全体が浮き足立つようなシーンの中にあっても、しっかりと腰を据えて立っている。
そのことが作品全体にも効いているのではないだろうか。
歳を重ねるごとに、さらに深みを増して良くなっていく役者さんではないかと感じた。
今後が期待される。

あと、やっぱり「歌」。
青☆組の「歌」のシーンはいつもグッとくる。楽しいシーンであってもグッときてしまう。

身毒丸

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身毒丸

演劇実験室◎万有引力

2015年に万有引力で上演されたものを再演。
非常にクオリティが上がった。

アコーディオンが奏でるジンタのリズムに導かれ、隠微で猥雑な幕が上がる。
天井高のある世田谷パブリックシアターの舞台を一杯に使ったセットに圧倒される。

一見泥臭いのに、すべての動きがきちんと計算・整理され、役者の指の先まで神経が行き届いている。
その緊張感で舞台の上は充満している。

J・A・シーザーさんたちの生演奏による、呪術的プログレ曲も含めて、大きな美術世界の中にある。
自分の「穴」を探し彷徨う身毒の内面への旅。
観客は全身で受け止める。

忘れる日本人

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忘れる日本人

地点

地点がKAATで行う公演は、とにかく驚かされる。
ほかの劇場では不可能ではないか、と思うような大がかりなセットが組まれることが多い。
そして、地点の役者(演出)たちはそのセットに負けないぐらいキョーレツである。
上手いのである。

(以下ネタバレあり)

今回劇場内に入ると舞台の真ん中に木造船が置いてあった。
演劇のセット用に作ったとは思えない、本格的な木造船だ。
たぶん本物だろう。重さも十分にあることは後ほど判明する。

使われるテキストは、松原俊太郎さんの作。
このテキストが滅法面白い。
とにかく面白いので、カットアップされていたとしても聞き入ってしまう。

いつもの地点節的な節回しがあったりなかったりなのだが、それとのマッチングが見事。

地点はセットの驚きだけでなく、役者に無理を強いているように感じるのが特徴でもある。
舞台の上を延々と走らせたり、坂になった舞台を上らせてみたりと。
今回は足を擦りながら歩かせる。「摺り足」とも微妙に違い、足をずりずり動かしながら移動する。
これは結構大変だ。

さらに重そうな木造船を御神輿のように担がせる。
木造船は御神輿の担ぎ棒のように丸太の上に固定されている。
実際役者だけでは持ち上げることができずに、観客の参加を促す。
そしてなんとか持ち上げ移動させる。

ヒモで区切られた中にあって、見えない壁のようなものから出るとノイズがする趣向もある。

役者の衣装には日の丸のシール。
そして台詞の合間には「わっしょい」のかけ声。
木造船を御神輿のように担ぎ上げるので「わっしょい」とはそのことか、と思いつつも、「わっしょい」の言葉の多さと日の丸に、ハタと気づく。

確か「わっしょい」の語源は「和を背負う(わ を しょう)」ではなかっただろうか。
つまり「和=日本」を「背負う」のだ。
そこでタイトルの『忘れる日本人』だ。

日本人はいろいろ「忘れて」きた。「忘れたことにした」。
「針」のように身体を刺すものがあって、それを感じたり感じなかったりしながら。

重くなった「日本」をかけ声とともに、人々は手助けしながら背負う。
「声をかけたら」「手助け」してくれるのは舞台の上から声をかけたときだけなのか。
これからもずっと背負わなくてはならないのだろうか。

ヒモで区切られた狭い世界の中で、外に出ることも出来ず(出るとノイズ)、重くなった日本を背負いながら右往左往する姿は、今の、そしてこれからの「日本人」なのだろうか。

わたしが悲しくないのはあなたが遠いから

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わたしが悲しくないのはあなたが遠いから

フェスティバル/トーキョー実行委員会

イースト&ウエストの両方を見終わる。

(以下ネタバレあり)

ほぼ同じ戯曲が同時に2つの隣り合わせの劇場で上演された。
一部役者の行き来がある。

2つを観て思ったのは、常に「一人称で語ることができるのは、悲劇に見舞われ命を落としてしまった人の隣にいる人」だということ。
命を落としてしまった人たちは、一人称で語ることはできず、三人称で語られる。
「隣の人(あなた)」となったときに二人称になってくる。
「手をさしのべる」ということは、三人称を二人称にすることではないだろうか。

「見ず知らずの人」ではなく「隣の人」となることで、亡くなった人々が、「わたし」にとって「実体」を持つ。
それが「手をさしのべる」こと。

この戯曲は、ほとんどがモノローグと状況説明によって構成されている。

「わたし」と「あなた」の関係性は、東西両方の劇場で同等に扱われている。
そのことで、世界は「わたし」と「あなた」としかいないように感じる。

オニビの台詞から思うに、演劇(演劇に限らず当事者以外が行うすべてのこと)にできることは何なのだろうか。
例えば演劇で災害やテロなどを語ることは、「手をさしのべること」になるのだろうか。
それが「隣人」にできる唯一のことなのだろうか。
共感は無理だから…か。

「見ず知らずの人」を「あなた」にして、世界を観ることは大切なのかもしれない。
「悲しみ」を「順番こ」に背負うことはできないが、「思うこと」「考えること」はできる。
もどかしいけどしょうがない。
少しでもこの世界を「良い世界」にするにはそれぐらいしかない。

ベネディクトたち

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ベネディクトたち

ナカゴー

超人「ベネディクト」を取り巻く人々を描いた60分程度の作品。
特殊演劇集団(と勝手に名づけた・笑)「ナカゴー」の公演。
いろいろ逸脱しすぎて中毒的に面白い。

(以下ネタバレあり)
ナカゴーを見ていると「これは何なのだろう」「一体何を見ているのだろ」と思ってしまう(観ているときには思ってないが)。
たぶん、それは「演劇」ではないか、ということはわかるが、自分の知っている「演劇」とはずいぶんズレていうるよう思う。
と言うか、「素晴らしい演劇」「良く出来たお芝居」というものとは大きくズレている。

いろいろめちゃめちゃだし、役者の演技も「上手い」「下手」という範囲を逸脱している。
もう、何が何だかわからないことになっている。演出のほうも。手作り感満載でもある。

でも「面白い」のは確かなのだ。
とても笑えるのだが、「笑える」=「面白い」ではない。
自分の中のいろいろな基本的な設定をひっくり返されてしまう面白さがあるし、暗さや闇さえも感じてしまう「面白さ」もそこにはある。

この作品、「超人」って何? と思っていたが、どうやらベネディクトは人を虜にしてしまう超人らしい。
男も女もベネディクトに関わりたいと思うのだ。

相変わらずのしつこい台詞の応酬。いや台詞と言うよりは「叫び合い」。
ベネディクトが立っている次元(階層)が違うのか、まったくお互いが理解できない。
というか理解するつもりさえない。

ベネディクトは、自分が正しくて相手が間違っていると考え、それをわからないのは相手が劣っているからだと主張するだけで、歩み寄ることなど絶対にしない。相手も同様。ただ責め立てるだけ。

どこからどう見ても聞いてもまったくの平行線のまま怒鳴り合いが続くし、パンチも出る。
というあらすじを紹介しても何にもならないことはわかっている。
「結局人はわかり合えない」なんてそんな当たり前のことも言いたくない。

ナカゴーって「演劇」というよりは「ナカゴー」を見せているのだ。

ナカゴーが舞台の上で見せる、登場人物同士のズレは、ナカゴーと我々の間にあるズレと同じで、そのズレを楽しいという、自虐的で暗い感情が、ナカゴーの楽しさなのかもしれない。

ラストの唐突さは驚愕! としか言えない。

同時上演は『話したい人』。
膝に出てきた人面瘡の話。
膝にペンで書いてある人面瘡が「消えちゃう」というワンアイディアだが、かるいパンチで面白い。

ベネディクトを演じた篠原正明さんは、ほかの舞台に出るとどうなるのか気になる(Eテレでは見たけど、あれは篠原正明さんではないように思う・笑)。アメリカンなのかなあ(笑)。

前世でも来世でも君は僕のことが嫌

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前世でも来世でも君は僕のことが嫌

キュイ

この世界は、無間地獄。


(以下ネタバレあり)
暴力で殺され、悪夢で目覚める前半を観つつ、「これは無限地獄ではないか」と思った。
終わりのない地獄の責め苦。

その暴力の「いわれのなさ」「理不尽さ」と「連鎖」を描いているのではいか、と思ったわけだ。

地獄に落ちて受ける責め苦には、当人にとって何らかの「罪」があり、その罪による責め苦は「罰」だ。
しかし、この世で私(たち)が受ける「責め苦」=「暴力」(物理的な暴力とは限らない)には、「理不尽さ」がある。
「宗教」とか「国家」とか「私怨」とか、さまざまな理由があったとしても、受ける暴力は「理不尽」である。
「なぜ私(だけが)こんな目に」だ。

しかし暴力を「与える側」も実は「理不尽さ」があるのではないか。
「宗教」とか「国家」とか「私怨」とか、さまざまな理由があったとしても、暴力を振るうことには「理不尽さ」があるのではないだろうか。
相手の息の根を止めてしまうほどの暴力に限らず。

暴力のための暴力や、暴力の快感もあるだろう。劇中で「暴力好きではなくて」みたいな台詞があるが、好きじゃなくても「暴力に酔う」こともあるだろう。
さらに、殺したいと思う人は、殺されたいと思う人でもあるのではないか。

まあ、そんなことを思っていたのだが、ラスト近くになって少し印象が変わった。
恋人と2人のシーンに戻ったときに、主人公(?)が恋人に尋ね、話をするところからだ。
恋人の告白で明らかになる。

そしてさらにラストシーンで、主人公(男)の悪夢は、29歳バイトの女性の悪夢であったのではないか、というシーンでそれは強まる。

つまり、「無間地獄のループは主人公(男)だけが抱えているものではないということ」だ。
最初の男・主人公は大学生ということで、特に背景は描かれていない。
その男は、無間地獄のループから抜け出そうと、必死に(文字通り「必死」に)あがく。
とにかく、どこかの局面から抜け出そうとして、人を助けたり、殺したり、とあらゆることを試してみる。

そこから目を覚ました29歳女は、目覚めた「今、自分がいる世界」が、「悪夢の延長」=「無間地獄」であると気づいてしまったのだ。

ありきたりな母の小言やバイトの日々、繰り返される毎日が「無間地獄」であったということ。

彼女は悪夢の中で、母やバイト生活を他人を毒殺による排除で遠ざけようとした。バスジャックの男と同じように、自分も最後は自死するのだが。
しかし、現実世界で彼女がとった行動は、自分だけの自殺だった。

それは、悪夢の中の、見ず知らずの他人を巻き添えにして爆死するバスジャックや、母親やバイト先で他人を毒殺し、自分も服毒自殺する女と、何が違うのか。

他人を巻き添えにすることは、「自分の死に意味を持たせようとする」ことなのではないか。
「生きた証」というと、また微妙に違うのだが、そういうことではないだろうか。

つまり、「生きた証」が欲しくないほど、彼女は絶望していたということ。
日常の無間地獄に。

自殺した「女」は、たぶんまた目覚めると「男・主人公」となって「1・2・3・4」のシーンを何十回も繰り返し、さらにまた女に戻って悪夢から目覚める「無間地獄」の、さらに大きなループを回るのではないだろうか。
「閉塞感」と一言で言ってしまうことのできない「不安」が生み出す「無間地獄」。

力の暴力よりも効いてくる。

「無間地獄」から抜け出すのは、「何かを変えなくてはならない」のだろうが、それは「死」ではなかった。
日常の無間地獄から抜け出すためには、「別の何か」があるのではないか。

そのためには彼女(いや私(たち))には「何が」あるいは「誰が」必要なのだろうか、と考える。

と、まあ、ここまでの感想は、延々誤読をしているとは思うけど……。

前に観た『不眠普及』の感想で、「新しい才能に出会えた   ……のかもしれない。」と書いたのだが、今回もそれを感じた。台詞が面白い。
ジエン社と通じるような感覚がある。彼らと世代が同じなのかどうかは知らないが、何が彼らをそこまで絶望させてしまうのか。わからない私は、無間地獄にいることすら気づいていないのかもしれないのだが。

半裸の男、ファミレスの客、バスジャックを演じた中田麦平さんが、なかなかの気持ち悪さとイヤ感じが最高だった。
ファミレスの、ウエイトレスへの気を遣いっぽい感じとか、バスジャックのノリノリの感じとか。
29歳女などを演じた井神沙恵さんの、29歳女を演じているときの台詞回しとラストがいい。
ハサミ女の西村由花さんの歌が怖すぎた。

帰宅すると、さいたまで起こっていた金属バットで他人を殴り、金品を奪う強盗が逮捕された、というニュースをやっていた。

総評

2017年は141本の舞台作品を観た。
記憶に残る作品も多いし、これらの作品を観て、次も観たいと思った劇団も多い。
なので順位を付けるのは難しい。

以下11〜30まで。

11 劇団鋼鉄村松『オセロ王』
12 オイスターズ『君のそれはなんだ』
13 『同郷同年』日本劇団協議会
14 こまつ座『犬の忠臣蔵』
15 FUKAIPRODUCE羽衣『瞬間光年』
16 パラドックス定数『九回裏、二死満塁。』
17 『トロイ戦争は起こらない』
18 ブロードウェイミュージカル『ファインディング・ネバーランド』
19 彩の国シェイクスピア・シリーズ第33弾『アテネのタイモン』
20 マレビトの会『福島を上演する』
21 大駱駝艦・天賦典式 創立45周年『擬人』『超人』
22 MU『GIRLS』A
23 Aga-risk Entertainment〜その企画、共謀につき〜『そして怒濤の伏線回収』
24 PARCO presents『ロッキー・ホラー・ショー』
25 KAAT×Nibroll『イマジネーション・レコード』
26 チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』
27 ひげ太夫 『煙のミロク』
28 劇団鳳仙花『朝鮮総聯幹部の息子』
29 青年座『真っ赤なUFO』
30 Antikame? 『なんども手をふる』

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