tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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赤道の下のマクベス

赤道の下のマクベス

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2018/03/06 (火) ~ 2018/03/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

鄭義信らしい作品であるのは勿論だが、戦後在日三部作に比べれば舞台設定からしてシリアス。戦犯収容所での「日常」と、その場所が必然にもたらす展開と。前者あっての後者である所の徹底した作りは鄭氏の信条でもあろうか。演技は喜劇色を帯びていて、一見過剰にみえるが、笑いが最終場面での泣き笑いを準備する。そうしながら国家の罪、戦争の罪、民族差別を掘り下げている。

ネタバレBOX

理不尽に「日本軍の罪」を背負って処刑されていった朝鮮人たちの叫びが、我々の心に沁み込むようにと願うかのように最後に雨が降る。雨季が来た!と、生きる実感をかみ締める残った二人の姿が、私たちの希望に思えた、鄭義信マジック。
『椿姫』『分身』

『椿姫』『分身』

カンパニーデラシネラ

世田谷パブリックシアター(東京都)

2018/03/16 (金) ~ 2018/03/21 (水)公演終了

満足度★★★★★

『椿姫』観劇。久々のデラシネラ。小野寺修二演出作品と言えば「あの大鴉」もそうだった。しかし形容詞としての「芸術!」を当てたくなったのは小野寺作品初見(4,5年前だったか)の衝撃以来で、それ以上。
微細なニュアンスに及ぶ動き、演技、アンサンブルは、「完璧」の単語を使うに相応しく、秒単位で「見る」注意を観客に起こさせる。「椿姫」のどこかで読んだか見たかしたか、しなかったかも忘れたが、見たかのように思える悲恋物語の構図が浮かび上がり、いつしかストーリーを追わせている。
台詞も吐く。役者出身の方は喋り上手でも踊り、ダンサー出身は踊りが主だが喋る場面もある。他流試合なのではあるがダンサーか俳優かの違い以上に個性の違いが際立ち、それぞれの見せ場を光らせている。マイム一本で行かず台詞が出始めたのは意外だったが、「形」にこだわらず物語描写に効果的だった。が何と言っても小野寺修二の舞台は「動き」が秀逸。緩急あり、めまぐるしく美しく目の離せない華麗な動きが、一つでない目的で構成され、次へと連なっていく様は圧巻。
衣裳は現代的で、崎山演じる「椿姫」は青のフォーマルジャケットにスカート、という感じ。言語しぐさも現代のそれで、彼女を熱愛する男(野坂)のその想いが最終的には「通じていた」ゆえの悲劇的結末に、複雑な心境を伴って感動を湧かせる物語構造は原作のそれだろう。「現実に擦れ切った感性」へのアンチはおそらくどの「現代(時代)」にも存在する。
「ウブさ・若さ」「勝利(恋敵に対する)からの慢心」といった野坂氏のノンバーバル表現による心情描写だけでなく、アンサンブル表現が絶妙に展開を予感させるヒントを与え、道を敷く効果も秀逸。なぜこの動きが、あのニュアンスを示唆するのか・・小野寺の発明?着想?は判り易さのせいか、そう評されない感があるが天才の域ではないか?と、思ったりする。

車窓から、世界の

車窓から、世界の

iaku

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/12/14 (水) ~ 2016/12/19 (月)公演終了

満足度★★★★★

良い。
静謐な舞台。と言っても台詞は絶えず交わされているが・・。
こまばアゴラのこの使用法は初めて見た。
新しく出来た駅のホームが、簡素にして見事に現出。
人のまばらさ、喪服、距離感、駅員の登場頻度・・シチュエーションが「らしく」適切である事の快さ。
そしてそこで話題となっている出来事の、不可解さ。

謎解きに躍起になるでもなく言及され、おぼろに「そのこと」は浮び上り、さりとて、だからどうという事でもなく、というより丸ごと抱えるには重く。
もっとも、形の上では、「そのこと」との関わりが人物らの共通項であり、必然「それ」は話題になるのだが・・、語られる文脈の、人物ごとの違いが明瞭で、しっかりした演技の裏打ち。軽妙と深刻の併存両立は、ひとえに俳優の力量と言えよう。
芝居上の圧巻は、主役に当たる教師の立場から発語を繰り出す女性の、さりげなく的を射た、溜飲の下がる論理構築とその言語化(作家を只者でないと思わせる)。・・・が、その言動さえも、川の如く流れる時間、時間とともに流れる会話の中に消え行くのかも知れない。
最後に願わずにおれなかったのは、、今より少しでも人というものが、正しく用いられた「言葉」、その美しさに損得を超えた敬意を払うことができたなら。あァ、そんな世の中になったらねェ・・・
てな事でありんした。(ほとんど感想文)

ネタバレBOX

付記: アゴラ劇場の公演で呼び戻し拍手が起こるのを私は初めてみた。
高き彼物

高き彼物

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2016/11/03 (木) ~ 2016/11/19 (土)公演終了

満足度★★★★★

甲斐あり。
休憩込みで三時間弱。戯曲としては一場の家庭劇に近いストレートプレイで長編化するような部類に思われないが、終わってみれば。ゆったりと流れる時間が「思わせぶり」ではなく自然にそう流れていく。リアルタイムに進んで行く芝居の「実直さ」が、俳優達の「真心」と相まって滲み出ていた。
 古館演出はオーソドックスでやはり青年団の人、緻密でしっかりした演技をさせているが、風通しも良い。若干難点は猪原先生を慕う女性教師の年齢が、もう一人の若い女性より年が嵩んでいるはずが同じ位若く見え、芝居上そぐわない所があった事。猪原先生の長台詞は多いが、聞こえづらい箇所が若干あったこと。(その日は県内学校観賞の日だったがちょうどその聞き取りづらい箇所で一人の生徒は「よく聞こう」と立って身を乗り出していた)
 逆に言えばその細部以外は完璧という事か。もう何度か観て噛んでうまみを味わいたくなる芝居だ。
 このドラマでは話が進むにつれて一つずつ明かされる「謎」の中で一つ明かされずに据え置かれる謎が焦点化して来る。この「秘匿」の度合いに見合うだけの過敏な事実は、十分な伏線=長さを必要としたかも知れないがそれはともかく、猪俣の現況を説明するのに十分な説得力を持った。そしてそれが猪俣の主観が構成した事実であって、その事実の一方の当事者が、これも意外な形で登場人物の一人となり、事実を照らすという展開、そこに至る時間の長さも、事の過敏さに見合うものである。全てが氷解した時の感動は、出来過ぎな話であっても十分信憑性のある背景を持つゆえに「語るべき話」として現前する。
 古館演出は、これは所属劇団サンプルの側面か、一箇所だけ特殊な効果を使った。最後の登場人物すなわち「一方の事実」を告げ知らせにやってきた「立派になった」青年が登場して舞台奥からゆっくりと歩く間、照明が様々に変化し(俳優も声の張り方を変え)、事の特別な意味合いを強調していた。
 「高き彼物」という題名、この字句を含む短歌が芝居の中で何度となく読まれる。猪俣先生が座右の銘のように大事にしている歌だが、意味はよく分らない。先生自身も「よくわからん」と言う。判らないがこの言葉が何度か出てくる。猪俣がそうありたいと願う姿、それが高き彼物、らしい。教師として、たとえ辞めても心は生徒と関わり続けたい・・・その理想の形とは、言葉で定義することも能わず、採点評価する事も出来ない、だが何かそういう尊いものに向かおうとする姿勢だけが、(意味が分らないだけに)浮かび上がってくるという寸法。
 愛おしい舞台であった。

第十七捕虜収容所

第十七捕虜収容所

日本の劇団

シアターブラッツ(東京都)

2024/04/25 (木) ~ 2024/04/29 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

映画では娯楽性の高い名作だが、脱走物の古典の魅力を余す事なく舞台化した。痛快、天晴れ。
小劇場劇団の選りすぐりの俳優(男優)を集めて一つの舞台を創る意外に無かった企画が、どの程度の舞台成果を結ぶのだろう・・と半信半疑で観に行ったが、俳優力というものはやはりあるな・・。(そこが試される演目でもあったか)

随分若い頃にTV(昔は深夜にも様々映画をやってた)かレンタルで観てハマった記憶があってもう一度借りて観直して「やはり面白かった」(大脱走でなくこっちが)と思った記憶だけがあり、後は殆ど内容を覚えていなかったが徐々に思い出して行き、裏切り者を割り出す瞬間を心待ちにしている自分がいる。
その、仲間の命を左右する局面で、仲間からの疑惑の視線を掻い潜ってスパイを割り出す勝負に出る場面、ここまで完璧に構築されてるってぇと文句の付けようがない。比較的自由さか許された環境が事実に基づくものかは分からないが、同じ部屋の捕虜たちの脇役たち(ある意味全員が脇役とも言えるが)の群像が、こうしたドラマの要であったりするが、色付けは明瞭、実に好演であった。

ネタバレBOX

脱走物ではフランス映画の「穴」が秀作。
ロはロボットのロ

ロはロボットのロ

オペラシアターこんにゃく座

あうるすぽっと(東京都)

2015/05/13 (水) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

15年来の至福
確か2001年、当時知っている劇団は僅か。でも鄭義信の名は記憶に刻まれていて、それでこんにゃく座のこの舞台を観た。子ども連れが多い会場が、開幕から終幕まで、咳一つなかった。演劇と音楽の「愉楽」に圧倒された時間が、本当はどんなものだったのか、15年を経た今、確かめたかった。思い出した。本物だった。幸せのつぶつぶがちらちら舞い散った。

楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~

楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~

燐光群アトリエの会

梅ヶ丘BOX(東京都)

2016/04/27 (水) ~ 2016/05/10 (火)公演終了

満足度★★★★★

贅沢な企画
「楽屋」三昧を決め込んで通し券を購入したが、既に終りが近づいてきた。淋しい。全団体は観られず、7、8団体は半数以下か(でも元は取ったか)。全部観たかったし、きっと飽きなかったろう。同じ「楽屋」のテキストをルールとしての競演が、今回初の試みだというから、コロンブスの卵だ。
 「楽屋」は何度観ても面白い、よくできた戯曲だが、戯曲が要求する「理想形」が一定程度、想定されそうに思う。その意味で団体の「個性」よりは優劣が見えて来る面がある。
 もちろん細部では、役の位置づけの違い、台詞のトーンの選択の違いなど、差異が見える瞬間が面白く興味深いが、全体としては「ある正解」に近づけたかどうかを競っているように見える(大胆な解釈・演出をした団体に当っていないせいかも知れないが・・)。
その点、ちょうど今d倉庫で開催している現代劇作家シリーズ・ベケット「芝居」フェスティバルなどは、自由度の高い戯曲をいかに自分ら流に調理するか、個性を競う点に特徴がありそうだ。
 どちらが良いという話ではないが、「楽屋」は俳優力を試す戯曲で、「的確な」形を見たいと願ってしまう。一度「おいしい形」を目にしてしまうと、そこに至っていない団体が劣って見えてしまう、という事が起きる。しかし、それでも「楽屋」を味わわせてくれ、それとして、満足させてくれる。興味深い企画だ。

ネタバレBOX

燐光群の演出は、俳優の組合せで4組あるが、女優Cの中山マリがハマり過ぎる位で圧倒された。この戯曲には評価するポイントが幾つかあり、そのポイントごとに点数を付けて評価してみたくなる。ポイントとは即ち、「おいしい」場面な訳であるが、重要なのは終幕「三人姉妹」の処理。ここで感興が湧かないと淋しい「楽屋」になる。それまでの布石が組み合わさって三姉妹として融合する事の感動は、最終的な評価ポイントと言える。
 ここがしっかり出来ていたのは、トゥルースシェル、そして(作者清水邦夫の主宰団体であった木冬社由来の)火のように水のように。後者「火・水」の完成度は圧倒的で、動線処理といい会話の微細なニュアンスの変化といい、一々理に適っていた。女優も魅力的でキャラ分担がよい。前者は女優4人それぞれが女優としての本領を発揮する=「役を演じる」場面での弾け方が素晴らしかった。ニーナ役に憧れて死んでしまう女優Dがやるニーナの場面が女優Cの俗っぽいそれに比して鬼気迫り、唸らせる・・その処理は「病気ゆえに(うまいのに)報われなかった」悲劇という解釈によるようだが戯曲の狙いとは異なるかも知れない・・しかし「演じる事に魂を注ぐ」女優の物語たる証として、それぞれの「演じる場面」を凄まじいテンションで魅せるこの団体の選択も大正解ではないか。
燐光群に戻れば、幽霊と人間の処理、霊の「日常」なるものを唄にした秀逸さ、中山マリの鋭利なリアリズムと喜劇調の二人(女優AB)の演技との対照、瓶で頭を叩く迫力など・・良い点が多々あるが、終幕になる「三人姉妹」がうまく行っていないように思え、何が原因だろうかと考えた。
女優の悲哀が基調である。延々と続く(幽霊にとっての)毎日、決して来ない眠り・・これは「幽霊」という特殊な世界の話であるよりは、「永遠のプロンプター」に象徴される、夢みて報われない多くの人間を代弁するものだ。無為に感じられる毎日に悩むのは幽霊だからでなく、人間的なあり方だ。従ってそこには、舞台上で確かに「事件」は大小起きるのだが、幽霊生活の長い二人はどこか、耐え難い日々を耐えてきた、何かそういうものが感じられなければならないのではないか。初めての出来事にはそれなりに、似たような出来事であればそれなりに、リアルに反応する「身体」でなければならない。叫びを上げる事さえ出来ない想像を絶する日々の線上に、最後、「幾ばくかの変化」にすがってみても良い・・そんな考えにいざなわれて「三人姉妹」に興じてもみた彼女らのありようがあるのであって、そんな彼女らだからこそ、生きている私たちにも幾ばくかの希望はあるんじゃないか・・そう思わせる何かが浸み出て来るのに違いないのだ。 ・・と、こんな風に書いてみて、こんな言葉を通してでも、私の想う濃密で猥雑な「楽屋」の世界がどうかして彼女たちの中に浸潤して行ってくれたら・・などと願いつつ。
オペラ『さよなら、ドン・キホーテ!』

オペラ『さよなら、ドン・キホーテ!』

オペラシアターこんにゃく座

吉祥寺シアター(東京都)

2021/09/18 (土) ~ 2021/09/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

萩京子×鄭義信による4つめのレパートリー。「旅する芝居」だった過去三作とは打って変わって舞台は馬小屋の中。ドン・キホーテよろしく旅に出るには二頭の馬のロシナンテとサンチェは頼りなく、名づけ親である主人公の少年(性別は女の子)ベルはまだ小さい。ファンタジックな展開は訪れず、第二次大戦中のフランスの長閑な片田舎にも砲弾の音が聞こえ、レジスタンスの若者、ドイツ軍の制服姿もやって来る。逃れられない現実だが、本好きのベルは想像の翼を広げる。戦局が熾烈さを増し(仏を占領した独軍の敗勢)、老馬ロシナンテの供出の話を聞いたベルは本当の旅に出る事を決心するのだった。が、その夜ベルは運命的にある女の子と出会う。。
妻に逃げられた実直な父トーマス、わけあって学校に通わなくなったベルを連れに来る女性教師オードリー、片足が悪いが女あしらいのうまい馬小屋で働く青年ルイ、彼の元を時々密かに訪れる村出身の親友サイモン。そして着の身着のまま逃げ込むように駆け込んできた女の子サラ。人と出来事の来訪にドラマの風が吹き、旅が向こうからやって来る。
ストーリーに絡まるように、詩と旋律が別の色の糸を織り込む。歌による飛躍が凄い。言わば台詞の交換(旋律付の台詞もその範疇)で成るテキストの世界に、ポエムと楽曲が表現するコンテクスト(今のこの時代の、と言ってもいい)の世界がせり出してくる。ミュージカルの如く一つの楽曲の中で場面(相)が変化し、希望、夢、勇気、愛という直接的な言葉を高らかに切望するように歌い上げる一幕ラストには思わず拳を握りしめる。
類似の構成が二幕の最後にも訪れる。不遇と抑圧の底辺から僅かな一筋の光を見ようと立ち上がる人物たちを優しく鼓舞し、返す刀で諦めの中に安住する現在の私たちに檄をとばす。最終日に枯れた喉を絞ってベルが歌い、他が応答する長い歌曲がこれでもかと叩いて来た。
ハッピーエンドにしなかった(望みは残しているが)作者の意を汲んで作曲者が書いた楽曲、笑みを封じ前方を睨みつけて歌う歌が頭にガンガンと(ピアノも低音でガンガン鳴っていた)響いている。
このような上質な作品を観る時間と、心の余裕と、財力(私は無いが)を持つ者が、今必要なことのために何かを為すとすれば今持てるものを差し出すことだ、というアイロニーをどこか醒めた頭で考える自分がいる。
自分がこれを秀作として語りたい理由は、この作品が現状肯定したい者ではなく現状に喘ぐ者またはその存在に多少なりとも胸を痛める者(即ち現状を否定せざるを得ない者)に照準した作品であるから、という言い方になる。もっとも、小気味良さあり笑いありの鄭義信らしい舞台である事に変わりはない、とだけは一言付記。

ネタバレBOX

私が観た楽日は赤組。
青組には自分的にお馴染みの沖まどか(「ロはロボット」)、大石哲史(孤高の渋味)、梅村博美(ファルセットが美しい)、佐藤敏之(安定のコメディ路線、ちと癖あり)と居たが、自分的に未知数度が高い赤組を選んだ。お馴染みは岡原真弓、やや知りの高野うるお、武田茂くらい。共通の富山直人はお馴染み。そしてピアニストもその基準で馴染みでない方(大坪夕美)を選んだら楽日になった。
休日の11時開演など普段なら寝る確率70~80%だが全く寝ず(当然)、この後に観た芝居で快眠を貪ってしまった。
「海のホタル」

「海のホタル」

オフィスコットーネ

小劇場B1(東京都)

2014/12/17 (水) ~ 2014/12/23 (火)公演終了

満足度★★★★★

亡き作家大竹野正典の作品。
夏に同じ下北沢で(オフィスコットーネも同じ)上演された『密会』に当てられたので、『山の声』も合わせてこの大竹野作品を見に行った。好きな世界だ。人間という存在の深みをまさぐり、接近しながらこれを観察している。なるほど観客はこの救いようの無い人間の(フィクションではあるが)実像を、観察している。そういう自分の黒さを感じる。演劇は覗き見である。覗かれるために舞台に立ち演じるこの人達は凄い、これに尽きる。そしてそれをやらせているのは今は亡き、作家の、書いた言葉。この時代のこの世の周縁、地べたに蠢いている人間共のやり取りをみているとこの社会の構造が、力学が、真実が、どうしようもなさが、思われて来る。「保険金殺人」という単語がちょうど当て嵌まる話だが、何か全然別の話だったようにも思う。それは殺人の外側からでなく内側から眺めたからだろう。「観察」と言ったが彼ら彼女らにしっかり感情移入していた訳だ。そんな自分の事も全て、かの作者に観察されているような気がしている。

嗚呼いま、だから愛。

嗚呼いま、だから愛。

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2016/04/22 (金) ~ 2016/05/03 (火)公演終了

満足度★★★★★

蓬莱隆太の新作。千秋楽
ストレートプレイが画素数的に高質で、またそれでなければ表現できない微細な心情(変化)を捕えて構成されている、上質な例として「悲しみよ・・」を観た記憶が、今回も蘇った。
 主人公の多喜子を「囲い込んでいる」他人の作為が彼女自身の世界観の投影でもある、と唱える他者と、そうではないと主張する主人公の闘いは、最もありがちなドラマのパターンでは主人公が折れてそれで成長して云々と陳腐な展開となるが、そうならないのが蓬莱作品ならではの鋭さだ。
 この劇では多喜子の被害感情も込みで「願望」を貫く事が即ち一つの解答である、という結末になっていた(と思えた)。ブスである事の現世的な報いを甘受してきた彼女は、周囲の配慮には感謝せねばならないマイナス出発の現実への違和感を、ついに表明する。不当さに対する不満に固執することが、彼女にとっては、闘うべき闘いをたたかい、勝つ事でもある。「分かりの良い人間」にはならない・・言葉にならないこだわりに、泣きつ乱れつつも、徹しようとする姿に、涙した。
 彼女の中で、あるいは、彼女と周囲の関係に、変化は起きる。変わるべくして変わったのか、解釈はいかようにもだが、この変化があったのは彼女がある正直な感情を「捨てず」「徹した」からである。つまり、変化(望ましい)そのものより、自我を捨てない態度のほうが、重要なのだ。

 とにかく役と俳優の親和性が完璧と言えるほど高く、ストレートプレイとして「再現の正確さ」が実現されていた。 「惚れた」と真実告白する旦那からはセックスレスの理由を聞かされず、その夜二人の関係が修復する、そのきっかけも何か決定的な要因を示している訳でもなく、「旦那の物語」としての説明は不足しているが、さほど気にならない。
 このドラマの普遍性は、容姿ゆえに差別される不条理に触れた所にある。「人間、容姿じゃない」という安易なメッセージは最後まで出さない。安易なメッセージというのは往々にして、低きにある者の事情に配慮せねばならない「面倒さ」を免除するために発される。
 一方、この芝居では文字が映写され、「その瞬間まで○時間前」などと表示される。その瞬間が何であったかは最後に判る。フランス同時テロである。パリ行きを2日前に控えていたカップルが存在する事で、この事件は物語に絡むが唐突である。が、その事も含み込む「物語」の広さはどこから来るのか・・・川上友里の存在が浮かび上がる。ユニークな俳優だが、今回の俳優の布陣の中ではいやまして、ユニークさが際立つ。戯曲世界に生かされているのか戯曲を生かしているのか、千秋楽、劇世界の要で、周囲を生かしていた。
 尾を引きそうだ。

悲しみよ、消えないでくれ

悲しみよ、消えないでくれ

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2015/01/23 (金) ~ 2015/02/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

樹脂の光沢のごとき
クオリティの高い芝居の出来であった。芸劇イーストの空間と機構を使い得ている雰囲気、緊張感と人物たちのリアルな生きる時間が終幕まで持続し、話じたいにもそこはかと揺さぶられるものがある。ここ幾本か劇団公演を観てきた目からは、最上の仕上がりであった。
もっとも「良い」とか「高い」といった言葉はその芝居の娯楽性(エンタテインメント性)の達成度を言っていて、つい口から出てしまうが、今回のは私の勝手なモダンスイマーズへの思いからの感慨。作品と同程度かそれ以上に劇団の来歴なり構成員の特性や事情にいつしか思いを及ばせる(思い入れのある)数少ない劇団の一つだから、今回の舞台製作の成果には、対外試合で苦節のすえ勝利したスポーツ選手への拍手に近い心情と感動があった。
芝居の質感としては、蓬萊戯曲の空気(台詞の行間に語らせる)を漂わせながらも、意味深な伏線の謎解きが二転三転するサスペンス構造で物語として圧縮された感がある(過去作品に比して)。人物の役割(ロール)の演じ分け、互いの棲み分けが素晴らしく、人物の一貫性の点で空白をほとんど感じない。それによってサスペンスが成立するのみならず、人物らがアトモスフィアの中に群像として立ち上がり、愛おしい。この群像の中心にあるのがでんでん演じる山小屋の主でキーマン。主人公の青年(古山)はストーリー上最も大きな問題を提供する存在となっているが、他にも主の娘、これに縁のある山岳仲間、物資運搬に出入りする夫婦らが、濃淡ある親密圏を形成し、この濃淡に応じた関係性が群像を作っていく。でんでんは一瞬のほころびなく手抜きもなく立ち、圧倒的に強靭だった。拮抗するようにして他の役者も、その人自身と見まごうリアルさで、切実に存在する。何よりその人物像の「現代性」にえらく共感するものあり、細を穿った造形は痛快というより恐ろしい。自分を見るようだった。

シンクロナイズド・ウォーキング

シンクロナイズド・ウォーキング

劇団青年座

青年座劇場(東京都)

2016/11/01 (火) ~ 2016/11/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

「障害を描く」という障害への果敢でしなやかで、涙ぐましくも爽やかな挑戦。
数年前の燐光群での同作初演は作家清水弥生のデビュー公演で、師匠坂手洋二に及ばない二番手レベルか、との先入観で眺めたものだが、モノローグ(またはモノローグの分担)の多い坂手作品に比べて普通の芝居、対話によってこまやかに事態が動く、ただしモノローグやスローガン的台詞もあって坂手色。対話(ダイアローグ)とモノローグの二つのバランスを、燐光群寄りの演出(全体でモノローグを分担して言い合う雰囲気が支配的)でまとめた、私としては消化不良の舞台だった。
 劇作家協会新人賞を争って惜敗した秀作「ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド」を経て、昨年はフィリピン・日本を題材にとった作品がまた優れていたが、私にとっては清水氏の船出になったこの作品の「リベンジ」への期待、また女優・西山水木演出への未知なる期待をもって観劇した。
 戯曲は東京オリンピックに向けた実際の動きとリンクした改稿が見られ、他にも随分書き改めた跡があったように思う(記憶は朧ろで確証はないが)。初演の粗い印象は残るが、障害者と路上生活者を絡ませる設定は「硬さ」「盛りすぎ感」を生む反面、この場所・人にしか出せない台詞を発せしめることで自立と連帯のテーマを新鮮に浮かび上がらせていた。「ブーツ・・・」にも描かれた障害を持つ者の「欲求」への悲痛で美しい叫びがあった。
 西山演出、終始生演奏が幅広い音楽性で舞台を全面的に支え、脇役でポイントとなる男二役には外部からの役者を当てた。内一人が音楽絡みでもヤクザの演技でも場をさらっていたが、全体のポテンシャルの中に溶け込んでいる。時として飛躍気味なテキストに、丸みとユーモアを与え劇空間に馴染ませるのを高いテンションが可能にしていた。動線やシーンのまとめ方、映像の仕込みなど、多彩な趣向は(「本当は俳優だと見るせいか)見事に演出を果たしたと感服。
 これは一長一短だが、決め台詞が多い。あれだけ言い切ってもまだ「無理解」になびく要素は残る、その退路を断ちたい思いは痛いほど分かる(と、自分では思っている)。が、「感動」の色合にまとめるシーンの決め台詞がたび重なるのはきつい。涙はもっと振り払っていい、一度泣いて、そして最後にもう一度、泣けばいい・・というのが体の正直な反応。

 ただ、この作品の(私にとっての)真価は、(これも「ブーツ・・」にあった要素だが)障害者の恋愛に触れていることだ。そのシーンをこの舞台上に作れた事に、作者の心尽しと演出の粋に、拍手である。
(演劇の力とは既成事実をそこに作り出すこと。)














同じ夢

同じ夢

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2016/02/05 (金) ~ 2016/02/21 (日)公演終了

満足度★★★★★

久々にこれは赤堀戯曲の世界だ・・と気分をよくして客で埋った場内を眺めやった。
小劇場=僕らの味方(単に「小さめの劇場」以上の意味がある)、そこへ行くとシアター・トラムは「小さめ」組でも、最近ちょっと違うんじゃない?(スタッフの対応など)・・・と、訝ることの多々あった所、このたびこのカンパニーであたかもスズナリのShampoohat!の世界が立ち上がっているのを見ると、それで何となく劇場まで見直してしまうから不思議だ。いつもは神経質な顔してる黒い制服のお姐様方の顔も少し緩んでいる。そうでなきゃ、である。
 ビッグネームの俳優たちであった。が例によって観劇前に情報をチェックしない癖で、赤堀作品とだけを念頭に、まず場内に入るとリアルな作り込み系の舞台装置で、思わず美術担当の名を見ようとしたがパンフは別売。最後まで判明しなかった俳優の名も含めて、観劇後に確認した。 分からなかった俳優とは女優二名。木下あかりは名前を認知していなかったが、麻生久美子は、麻生系の顔であるマイコかと思っており、声が麻生に似ているのでオヤこんな声だったか・・とそんな按配。 後方席からは「声」と身体の動きの情報のみで、顔の表情までは見えない。が、俳優が誰か、という余計な意識を最後まで斥けた上質なストレートプレイであった、というのが言いたい結論だ。 ただ麻生久美子の件は、そうなると主人公が好意を抱く女性、清純に見えて意外と摺れてる(煙草吸ったり)といったキャラが、麻生がやる役の定番なので意外性に欠く(つまり麻生と判った上で見たら先が読めた可能性あり)。
 だがそういった小さな憾みはともかく、赤堀ワールドのストレートプレイはこのメンバーが劇団を構成しているようにマッチングし、心をこめて当て書きした痕跡が見えた。 その意味では「キャラを活用」した訳でもあるが、現代口語やスーパーリアリズムの方に寄った芝居にとってキャラは重要。しかし決してキャラに「頼って」いない、役者の魅力をむしろ引き出していた。

 最後にはほのぼのと終わるドラマだが、「毒」がそれと意識されない程ベースに染み込んでいる(そう感じさせる余地がある)ため、最後に少々ほのぼのしても許せる気になる。 一見奇妙な人間たち、欠陥だらけの人間たちは、現実の社会よりも少しだけ周囲に分かりやすくその欠陥を気づかせてしまう分だけ、奇妙に見えるに過ぎない、という事は先刻承知で、その奇妙さ具合を見届ける体験が、赤堀戯曲の舞台の中身だと言ってよいかも知れない。 自分ならちょっと恥ずかしくて表に出せない部分を、暴露するのを注視しているのである。
 彼らは外的要因で何らかの救済を受けることなく、絶望的な破綻を回避してどうにか人間らしく立つ場所を確保する。今回の舞台では、登場する皆が、最後は、その瞬間だけかも知れないが「同じ夢」を見ているかのように見える。芝居としての慎ましい大団円が善である理由は、ここに描かれる人々の地続きに、非情な現実がぼんやりながら、確実に見通せるからだと思う。
 そして劇の終幕を感じ取る頃合、ドラマの舞台となったリアルな台所と居間、そこに仕込まれた細々とした品を一つ一つ見始める自分がいた。 リアルに「世界」が立ち上がった快楽を、そこにある物たちを目に刻みつける事で確かなものにしようとするかのように。杉山至のこんな具象な舞台は初めてだ。そしてここを包み込んでいる劇場を見回す。客席も見回す。
いや~芝居って、本当にいいものですねェ。。
(The Shampoohatの公演もぜひ)

演劇

演劇

DULL-COLORED POP

王子小劇場(東京都)

2016/05/12 (木) ~ 2016/05/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

「空気」は周到に作られ、演出される。その極意。
感動はしても行動にならない、ぐっと来て涙が流れても本当の勇気は湧かない・・・そんな「演劇」どもをなぎ倒し、ここに確かに「演劇」屹立せり、と見届けた。良い芝居を見た後は笑顔で談笑も可だが、ここは旧交を温める場面にそぐわない。その場所を鋼の刃先に喩えるなら、居心地よく佇む場所では勿論なく、何処かは知らねど何処かへと促されて立ち去る場所である。活動休止は消滅と同じでないが、「なくなること」の視野で「演劇」がその本来の使命を探り当てようとして探り当てた場所なのだとしたら・・。
 舞台上で起こったことが全てで、他は要らない、と潔く去らせてくれのは、この芝居が「良い芝居」であるための点数はきっちり稼ぎながら、その余韻にではなく「演劇」が既に明白に導き出しているある真実のほうに浸ることを促しているから、だと感じた。(うまく言えないがそんな感じだ。)
 多彩な趣向はあるが色目使いになる事なく、ただ一つの目的に全てを集約した「潔さ」「硬質さ」が直球のように腹に来た。
 ダルカラは実はまだ2作目(谷賢一作は4作目)、俳優の顔も初めて間近で見た。個人的思い入れのある燐光群『ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド』で特徴ある役をやった東谷英人が今回も核になる役に。とにかく‘物凄かった’渡邊りょう(悪い芝居)、これも初めて間近に見た‘できる’小角マヤ(アマヤドリ)など、各俳優がこのお話の中心にある「出来事」の周辺で渦巻くそれぞれ感情を、精度と熱度をもって表出した。かく導いている脚本力もさりながら、人間の複雑な感情を的確に表現する俳優の姿にこそ「格好良さ」を感じる「演劇」、これぞ「演劇」の鑑。
 ところで「演劇」とは食ったタイトルだが、劇中で「これは演劇です」の意味では使われない。少なくとも、人を食ったタイトルでない、とまで。後は劇場で。

ネタバレBOX

 子ども同士の「絵本」のような世界と、汚濁した大人たちのシリアス世界が並行して進む。いずれ二つは結合するが、子ども=希望、大人=失望・諦めという対比的な両世界の結合は、「絶望的展望」か~ら~の~「希望」、とはならない(なぜなら子ども世界のMが成長した結果が、大人世界のMだから)。だが、時系列を超越する演劇の呪文で、この後先は逆転する。(というか、そう見ることも可能。)
 子ども世界は寓話的で、台詞は大人の気の利いた言葉だったり、子供らしかったり、身体的にも観念的にも自由に飛び回る。この「子ども世界」に登場してくる車イスの少女、すなわち少年Mが恋する相手が、ゲスト出演者に当てられる役だ。今回は堀川炎、クレヨンしんちゃん系の雰囲気を醸していたが、「子ども世界」の要であり、演者によって雰囲気が変わる面もありそうだ。眩しいほどに輝く子ども時代の、その中のヒロイン役は、黒と白の対照の一方の極点として神々しい存在(大人世界8人に対し、子ども世界は3人だし、負担も大)。劇団女優降板の穴埋めに有力な助っ人を招んだのも納得だ。
 さて、「大人世界」はリアルでシリアスな息詰まる半密室劇である。とある学校、問題はいじめが絡むらしいが、複雑な様相だ。
 似たような、念押しのような対話の繰り返しごとに、「出来事」の輪郭が立ち上がる。そしてその「問題」はどういう力学が働いてか、悲劇的に歪められており、この力学に抗おうとする教師Mが葛藤する、そういう話。その意味ではシンプルな話だが、最後の主役教師がとる行動に、刮目すべし(「カムイ伝」のラストに匹敵する・・とは行かないが、「まんまとしてやられる」意味では同じ)。
 観客は、どうやらこの教師Mが辿り着いた感覚が正当である事を見分けるが、この感覚からの行動は貫徹されない。なぜか・・これを示しながら、問うている。果たして敵は何なのか・・・

 言えるのは、こうしてドラマ化されなければ(Mが葛藤しなければ)、「空気」というものは普段は見えない。我々の生活と同じく。
 空気を読み、空気に流され、無難に立ち居振るまい、必ずしも無難な選択でなかった事に、後で気づけば良いほうだろう。
 「空気」というものがその時、生まれ、流される光景を明瞭に示したこのドラマの最終局面は、ありがちなシーンではあるが、「空気は意志によって生まれる」、という事が重要だ。
 学校で自殺未遂をして救急搬送され、全身麻痺状態にある娘を、卒業式に出してほしいと、父親が土下座をして頼んでいるのに、否定されてしまう異常事態を、観客も受け入れてしまっている。
 この「演劇」には、この異常さを正しく認識し、行動する人物が登場しない。せいぜい、父親をまじえた会合をシナリオ通りに進めようと「打合せ」を厳しく取り仕切る上司に、「指示通りに動くのはごめんだ、自分の感じた事を言う」と、抗うのが精一杯。
 代わりに、その父親が行なった「いじめ」告発の過激な行動のお陰で、いかに児童が萎縮し、また「自殺」という行為によって児童たちが心理的悪影響を被っているか・・・学校や父兄側の見解が、まことしやかに語られるのだ。父兄代表のある男が「子どもたちの安全安心」のためと称して登場し、その「正論」の欺瞞が見え隠れする場面も描いてあるが、芝居の中では尻尾を掴まれない。
 その一方で、娘の父親がひとり、大声で謝罪し、何度も土下座をし、娘の思い(卒業式に出たい)を遂げたいと言い募っている。確かに血の気の多そうな父だが、周囲の冷めた、理解を示さない態度の中で、ただただ「お願い」を続けている。彼の存在によって、学校側の「不当さ」は際立たず、学校側の「対処」への真剣さが際立つ。
 ・・彼は娘の容態についても語り、辛うじて上下に動く腕で意思疎通ができるようになった、今彼女は質問に答える事ができる、食事のこと、そして卒業式のことも・・と、腕を動かしたその瞬間のことを話す。周囲は聞き入っている、が、「空気」そのものは動かない。彼の言う事は大勢に影響しないのだ、という「空気」がある。客席からこの「空気」の正体を読むに、その父親への「レッテル」だ。「この人はこういう人だからな。。」そんな空気。観客をも味方につけられない構造が「演劇」では作られている。

 さてこの「空気」なるもの。 ここでは、少女を学校に来させないように立ち働く上司の、使命感を語る口調や態度に影響されて作られているとも見える。彼の「意志」が、空気を作り出している。
 この娘の卒業式出席をめぐる問題は、対話によって解きほぐせば結論は変わるはずなのだが、そうならないようなうまい「立ち回り方」によって、空気が作られている(維持されている)訳である。
 ・・空気とは即ち、「対話や議論を省略して結論をたぐり寄せる」方法、であり、「空気」には、その結論へ導こうとする強い意志が含まれている。そして、その意志を感知した者によってさらに再生産される共有物である。
 安倍首相がテレビ番組に出たり報道にイチャモンを付けるのは「意志」をマーキングする行為で、逆に野党の露出を抑制するのは、「意志」を伝える回路を奪う事で、影響力を遮断しているのにひとしい。

 閑話休題、しかし観客は次第に「事実」を知っていく。どうやらあの親父の言ってるのは本心だ、何か復讐心や見返りを求めてこの申し出をしているのではない・・・そう十分に「認識」をする。その認識に応じるように、東谷演じる教師Mが自分の意思を表出しようとする。
 ところが、観客は「事実」として父親の証言を聞きながら、彼に全的には同調して行かない。十分に彼の証言が事実であり、彼の心境が自殺をはかった当初とは違った所にあり、「いじめ」犯人を告発すると騒いでいた頃とは異なる事が知れても、いやその頃とは異なる彼だからこそ・・つまり「いじめ告発」という武器を捨てた丸腰の相手だからこそ・・、その要求を拒んでも手前の利害には影響ない、従ってこれは拒否して正解だ、といった算盤を、私も頭のどこかで弾いていたりするのだ。 さもしいこの性は何だ。忌々しい日本人の血だろうか。
 だが、最後の最後に、父親の言葉はやっと届いて来る(まあ脚本上の工夫でもあるだろうけど)。そして、見事に覆されてしまう。
 会合において、上司の仕切りのきつい中でも、「自分の意見を言う」意思を貫いていた女性教師がいたのだが、その父親が娘をしばしば「叩いていた」という事実を本人から聞いて、態度を豹変させる。「自殺の原因を作った本人かも知れない父」の頼みは聞けない、という判断になってしまう。
 本来、その娘や児童にとって何が良いか、それが問題であって、父親がどういう人間か(尊敬に値する人間かそうでないか)など、関係のない事である。が、この豹変をきっかけに、校長と上司ら「体制側」は攻勢に転じ、「そんな重要な事実をなぜ今まで話さなかったのか」という問題設定が上位に来てしまう。
 皆「知らなかった」と答える中、Mだけは正直に「噂として聞いていたが本当だとは・・」と答えると、「そんな重要な事をなぜ今まで・・」と非難され、この指摘がその「空気」ではテキメンに効く。一方父親は既に認めていた事実を新事実のように訴追され戸惑いながらも、そのことを謝り、良かれと思ってやったが悔いていると語り、しかも自殺の原因がそこにあった可能性も否定しない、私の命に換えてもいい、娘の願いだけは聞いてほしいと、ボロボロになりながら叫び、泣き、土下座をするのだ。 が、「空気」は硬直する。
 さて、女性教師の「豹変」は、彼が「自分の思い」をぶちまけようとした直前の事であった。もし彼が本音を「ぶちまける」のと、女性の豹変に始まる「暴力」問題のくだりと、順序が逆だったら・・。
 異常さの密閉空間に、正常さの風が流れれば、問題はその重さに相応しい重さで語られたことになった事だろう。いや、そんな理想的な空気など訪れなかったかも知れないが、「マシ」であった事は確かだ。
 が、実際には逆になったのであり、おそらくこれも、女性教師の「空気」に対する反応であった、という意味では自然な結末であった。

 この結末の後では、いかな「演劇」とて、打つ手はない。「こうならないようにしよう」と、ただ思うだけである。時間を逆戻しにして、オルタナティブな結末へ導く、そんな演劇的手法も有りと言えば有りには違いないが、これほど的を射た「結末」は後からどう覆そうと、きっと虚しいだけである。
 虚しい呪文を唱えて、舞台上で実行する「演劇」と、ここで言う「演劇」は、違う。
 ・・過去の(覆せない)悲劇的な事実を、舞台上で覆してみせる、そんな演劇がある(戦争を題材したものはそれにあたる)。そういうドラマになぜ涙が流れるかと言えば、まず「悲劇」が前提となっており、これをハッピーエンドに置き換えることで悲劇性が際立ち、「それをわれわれは悲劇と感じている(望んでなど居なかった、という悔悟)」証左と確信する、そんな甘い共有空間が出来るからだ。要は「悲劇を思い起こす」時間である。戦争はそれに相応しい、皆が共有できる素材であり、それはそれとして、意味のある事ではあるだろう。
 だが、事を「未来」に移してみる。未来を作るのは、他ならぬ私たち自身だが、「これから作って行く場面であり風景」である意味での「未来」と、「演劇」は相似・同義・同質ではないのか。
 その問いかけがこの芝居の最後に叫ばれるスローガンにはある。ただし、願えば未来は変えられる、といった一般論・励ましだけ抽出するのでは殆ど意味がない。
 「空気」というものに克てたためしがなく、ほぼ負け続けの私たちが、この芝居でのリアルな(あの)結末を直視せずに、その未来を語ることは虚しい、という事なのである。
 残念ながら、「空気」に抗わず、「空気」と対峙する場面を回避しながら、より良い未来を手にすることは「自己暗示」以外には無理である。残念ながら。
 自立した「個人」の総和としての、相対的に正しい「全体」を作ることが出来るか・・それがこの華々しい終演の背後に、もたげている問いだ、と受け取った訳であった。
  ひどく主観的かも知れないが、私なりの解釈だ。
少女仮面2015

少女仮面2015

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2015/09/30 (水) ~ 2015/10/07 (水)公演終了

満足度★★★★★

老女優の鏡に剥き身をさらす梁山泊
唐十郎・紅テントの中心的女優・李麗仙が何十年振りの『少女仮面』(唐十郎が岸田賞をさらった=アングラが演劇界に認知された=作品)に立った。新宿梁山泊なればこそ、と今は言って差し支えないのだろう。唐十郎にとって「遊び」の範疇を1ミリも出ることのない「現実でのアクション」は、舞台の「物語」と相まって入れ子構造の「物語」を構築していた、という事で言えば、李麗仙が半世紀を経た記念碑的演目の同じ役(春日野)で立つ、という「物語」が曰く言い難い芳香を放つのも自然なことだ。
 当然ながら齢を隠せない女優の台詞を吐く口元や、表情、前傾しがちな肢体の癖をさり気なくカバーしようとするしぐさ、体から発する全てに目を離すことができず、最後には魅せられた。一人裸を晒しているに等しい李の、生身の身体が周囲の「作りもの」の強靭さを試すように、鋭く存在している。その身体とは、その場面・その台詞の意味を丸ごと理解しきった身体だ。長年体内に擁していた言霊を呼び起こし、シャボン玉を風に飛ばすように言葉を飛ばしていた。ふわり。ふわり。・・そんな形容をしたくなる得体の知れない魅力があった。
 千秋楽。この「物語」の本当の終幕であるカーテンコールで、李の素の表情を見る。観客や他の俳優への気遣いには気品というより高貴さがあり、彼女にとって演劇とは何であったのか、などという高尚な問いを遠い目で思わず問う気にさせる、味わい深いエンディングに酔った。
まるで無礼を詫びるように恭しく礼をする李に「また舞台で立ち姿を!」と甲高い金守珍の声が飛ぶ。彼女は顔で笑っていなした。二度目が通用しない事など誰よりも自分が知っていると、言外に言っているのが聞こえる、豊かで的確な表現力に、さらに魅入ってしまうのであった。
 作品のほうは、唐十郎の詩情が全編に溢れる戯曲。少女・貝を豹変自在に演じた文学座からの助っ人・松山愛佳、人形遣(腹話術)を見事にこなした若手・申大樹、奇怪な笑顔の貼り付いた顔でタップを踊るボーイ(の一人)広島光も印象に残った。
 スズナリの勝率、更新中。

屋上のペーパームーン

屋上のペーパームーン

オフィスコットーネ

ザ・スズナリ(東京都)

2016/02/10 (水) ~ 2016/02/17 (水)公演終了

満足度★★★★★

オフィスコットーネ☆大竹野正典作品
ここ最近の2公演3作品の大竹野作品のいずれにも魅了され続けだが、その一昨年「密会」「海のホタル」をみた私の勝手な理解は・・・ この凄み、代表作を取り上げたに違いない。おや「屋上のペーパー・・」?大竹野作品再び。柳の下に何とかではないが、一段落ちだろうけれどそれでも観たい。仕方ねえ・・・。 記録を見ると、以前にも2,3作を上演していた。
心から、嬉しい時間であった。
ノワールな話だが、見るべきものを見、語るべきことを語っている戯曲と感じる。描かれているのは一介の、現実にある人間の範囲を僅かも「盛って」ない、リアルな人間。この「リアル」には小っぽけで愚かな、というニュアンスもある。だからこそ、数時間のドラマの中での彼らの帰趨が喜ばしい。涙を催さずしてこの感動は、何だ。。
作家の作品群への興味は愈々増せり。

三人姉妹

三人姉妹

アトリエ・センターフォワード

シアターX(東京都)

2022/12/07 (水) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

今公演がいつも以上に目を引いた理由は(俳優陣もさる事ながら)「自作(新作)上演でない」事にもあった。公言する如くシアターXでの上演というのもそうであるが当日は(イメージで)うっかり下北に行く所だった。
「三人姉妹」、に副題が付されており、大胆な潤色を予想したが、「三人姉妹」であった。
ただしある種の方向付けがあり、恐らくテキレジも為されているが(ラストの台詞並びは明らかに原文と違う)、一役のみ男を女優がやっている事や、主人公風情の長身俳優が脇で存在感を持っていたり、何がどうだからどうとは言えないが冒頭のイリーナ、オーリガの喋りと立ち位置から人の動線に、演出者の「意図」が行き渡っているのを感じる。
目を引くのは美術で、Xの通常のステージを作る高さ数十センチの台を両側を繰り抜く形でオーリガの家を浮かび上がらせ、奥行きを作る。最奥の両脇が出はけ口。一段下がった両側が玄関に通じる廊下となり、間もなく登場する人物が早めに姿を見せる格好になる。
台上の演技エリア(家)には前半、奥と手前の間に高さ低めの仕切りパネルが左右に置かれ、狭い中央が通り口、奥での談笑と手前の秘めたる会話の図が出来たりする。

「三人姉妹」は清水邦夫の「楽屋」のせいか一度ならず観た気でいたが(戯曲も途中まで読んだ)、東京デスロックの抽象度の高い舞台(亡国の三人姉妹)を除き、ストーリーを分かりやすく味わったのは今年アゴラで上演されたサラダボール舞台(女優三人のみで全編演じられる)が初めて。一つの趣向であったが、今回のセンターフォワード版を振り返ると、役者によって形作られる一個の「人格を持つ固有の人物」らの群像劇として(言わば普通の演劇)味わい深い劇世界を作っていた事と同時に、何がどうと言い難いがリアルさの中に儚げな風がふっと頬に当たるような、不思議な感触があった。現代を感じさせる部分もある。明白に意図的と分かる演出として、ラストが特徴的で、三人の姉妹の会話に殆ど力みがなく、自然体の風景として提示され、静かな演劇風にピリオドが打たれる。三姉妹の女優(藤堂海、安藤瞳、北澤小枝子)が良い。家をかき回す兄嫁役のみょんふぁ、イリーナに思いを寄せる兵士(を止めて工場労働者になる)役の岡田篤哉、兄役の矢内文章、等々。凋落する人間と微かな希望を描く原作を、立体化するそれぞれの人物造形にも奥行がある。

歌わせたい男たち【11月26日夜~12月3日公演中止】

歌わせたい男たち【11月26日夜~12月3日公演中止】

ニ兎社

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2022/11/18 (金) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

以前戯曲を読み、ある団体の上演も観たが、(久々だったせいもあるだろうが)新しく発見した事が多く、解像度が高く奥行きがあり、かつ判りやすい舞台であった。

ネタバレBOX

国旗国歌のモンダイを扱っているが、これを押し付けるお上(教育委)と、撲滅が進んでいるがまだ残党の居る「不起立教師」(国家斉唱の時に立たずに座り拒否の意思表示をする)の正論との間で苦悶する中間管理職=校長先生を軸に、新任の音楽教師(今日これから行われる卒業式で国歌を伴奏する予定だが本人は校歌やもう一曲の方がちゃんと弾けるかを心配している)、コンタクトを落として楽譜が読めないという彼女に合った眼鏡を持っているが「君が代伴奏に協力できない」と貸すのを渋っている社会科教師、教育委の指導に従順で反抗分子撲滅の先頭に立つ英語教師、舞台となっている保健室付きの保健教員。
中間管理職の悲哀がこの作品のドラマの骨子であり、理不尽な要求でも上部の意向は自分の地位にとっては至上命令。そこで手を変え品を変え、詭弁を弄し、教育の理念をごまかし、現状を正当化し、また実は自分の過去をも否定し、業務に勤しんでいる。第三者的な保健教員を除き、皆が皆感情の起伏の激しい役どころで、要となる社会科教員を山中崇が演じ、好演であった。
彼は歌が好きで、元シャンソン歌手だったという音楽教師(キムラ緑子)と馬が合い、だからこんな事で対立したくないと嘆く。ノンポリで生活のために教員生活に希望を見ている音楽教師は戸惑うが、校長(相島一之)や英語教師(大窪人衛)とのやり取りを保健室で聴かされることになる。
校長先生が軸に見えて来る舞台であったが戯曲的には音楽教師と社会科教師が感情移入の対象で、二人の間を観る方も揺れ動く。
純朴というのが相応しいキャラ(寝ぐせを直してないし)の社会科教師は、校門前で彼が尊敬していた元教員のビラ蒔き騒動に勢いづき、また逆に校長と英語教師は火を消そうと躍起になる(校長はあくまで穏便に、英語教師は荒っぽく)。
ところが終盤、ビラの内容は校長の「過去」を暴いたものだと判る。即ち、若き日の校長は国旗国歌強制に反対する意見書を書いていた。校長はその後、全校放送のマイクを持って屋上へ上がり、自分の過去の文章の趣旨を全面否定し、真逆の主張をあれこれと述べるのだが、巷間なかなか聞かれないこれを正当化する論理を言葉にしたら結局こうなるしかない奇妙な理屈が並ぶ(見える化するとはこの事なり)。
印象的であったのは、この校長のビラが生徒の手に渡って話題になり、ノリで生徒らが不起立を決めたという、その事実を聴いた、それまで鼻息荒く立ち回っていた担任の英語教師は、絶望に歪んだ顔のままがっくりと座込む。これを見てよれよれの社会科教師が、笑い始めるのである。何に笑っているのか、と台詞を聴くと、こんなに生徒のためにと頑張っていたのに、こんな事になるなんて、泣けて仕方ない。本当は泣きたいのに、笑ってしまう。(笑いが激しくなる)頼むから、泣かせてくれ。泣きたいのに笑えてしまう。頼む!!・・この教師の泣き笑いに完全に同期してしまったのだが、ちょうど前日に観た「日本人のへそ」で歌われた奇態な日本讃歌「日本のボス」に、笑えて泣けて仕方なかったのが完全にダブった。泣ける程理不尽な日本の慣習なのに、深刻なはずなのに、笑えて仕方ない・・。
男たちの悲哀が際立ち、全く立場は違うのにどこか愛せてしまう三人。そこに自分の姿も見てしまう。
「カレル・チャペック〜水の足音〜」

「カレル・チャペック〜水の足音〜」

劇団印象-indian elephant-

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2022/10/07 (金) ~ 2022/10/10 (月)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

「国家と芸術家」シリーズ三部作、の最終作。・・と書いたが(何処かでそう目にしたと思って探したが行き当たらず)、ケストナー、藤田嗣治、ジョージ・オーウェルの続き四作目。
劇場が狭かった前二作から芸劇へ。それに題材がカレル・チャペックという事で今回は劇場で観たい!と思っていたが結局、3度目の配信鑑賞となった。
配信についても、前二作に比べ映像が断然良く、見返す事なく一回の視聴で台詞が聞き取れ、前方席での観劇気分を味わえた。
だがもっと驚いたのは舞台の完成度、テキストの深さ、巧さ(執筆の神が味方したかのような..)である。
チャペックと言えば「山椒魚戦争」を書いた著名な作家の一人であるが、演劇への関心から知り直した人物でもある。劇場で観た彼の戯曲「R.U.R」(ハツビロコウ)「母」(コットーネ)はいずれも「戦争」に触れた品だったが、本作もチャペックが執筆に生きた第一次大戦と第二次大戦の戦間期が舞台となり、大戦後誕生した民主国家チェコがやがてナチスの台頭した大国ドイツに翻弄される軌跡と密にドラマが進む。
舞台はチャペックと兄ヨーゼフの家族=妻と幼い娘が住む家。若いチャペックがフラれたばかりの初恋の女性、彼女が交際する事になる新国家の大統領の息子、大統領本人、チャペック兄弟の親友、それにこの世ならぬ謎の女が訪れる。家族の葛藤と克服、逃れる事のできない国家と歴史の状況の中で精一杯生きる人間たちの人生が美しく刻まれていた。
配信では避けていた☆5を付けた。

物理的な圧力に晒された人々が、勝ち取った自由を手放さざるを得ない現実に直面する光景に、つい重ねてしまうのはわが国の事。日本は敗北を喫しつつあるが、これに関する報道は殆どなく、今どういう覚悟をせねばならないかを考える契機は希薄である。
カレルと周囲の人物たちは苦境に悶えながらそれを克服する精神、歩き方を手にし、生を全うしようとする。早晩朽ちて国もろとも凋落させるだろう効用のなくなったシステムを温存し、「改革」のポーズだけを取ってその場をやり過ごす(その実やり遂げようとしているのは売国的な政策)我が国の中枢を、「それ」としてありのままに見る事・・舞台がくれた勇気を、今以上にゲンジツを見る態度に向けるよう促されている気が個人的にしている。

ヨコハマ・ヤタロウ~望郷篇~

ヨコハマ・ヤタロウ~望郷篇~

theater 045 syndicate

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2021/09/30 (木) ~ 2021/10/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

あ~面白かった。小さなスタジオで観た一作目は「伝説の男」と恐れられたヤタロウが砂塵から現れても、喋っても納得させる台詞と異色な風体の役者が「伝説」性を裏切らず、度肝を抜いた傑作だった(佃典彦脚本)。下北沢での再演もB1と狭い小屋だったが「望郷篇」ではKAAT大スタジオに。観劇体験としてはステージが遠いのはやや淋しいがパワー全開で見劣りなし。殺した相手の「人生を引き受ける」ため奔走し、13人が相手でも拳銃で!負けないヤタロウ(そんなもんいるか)、怪し気な新市長に「キレイな町」にされた近未来の横浜を舞台に幾つかのエピソードが錯綜して最後に合わさる。だがドラマの構成よりも、広い廃墟の銭湯(言わば底辺)から社会を牛耳ってほしいままにする階層を眼差す視線のベクトルに同期し、どす黒い世界イメージが「現代」を穿って現実とクロスする。私にはそれがこの舞台の魅力。アウトロー任侠西部劇カテゴリーのはち切れんばかりのノリにその通奏低音が響いている。(映画ブレードランナーはストーリーもさりながら画面を支配する世界観という通奏低音が快感。)

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