天一坊十六番 公演情報 天一坊十六番」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.8
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★★★

    メシアはどこに現れるのか
    江戸時代の天一坊騒動を軸にした物語。
    初演の『天一坊七十番』の「七十」込められたものは何なのか、そして、今回の「十六」には何が込められているのか。
    メシアとは何者か、それは舞台の上に現れてくるものなのか。

    (ネタバレボックスに長々書いてます)

    ネタバレBOX

    青年座だから、こってりとストレートプレイかと思っていたら、いい意味で裏切られたオープニング。
    なるほど、近藤良平さんが振り付けしているんだ、と思い出した。

    ダンスシーンがなかなかいい。よく演劇公演で見かける、「役者が一応踊ってます」という感じとは少し違う。
    きちんとしているのだ。個々の動きがとてもいいし、それは全体のバランスがいいからに違いない。プロの振り付け師が携わるとこんなところに違いが出るのだ、と実感。

    現代の作家が戯曲を書いているシーンから始まり、これが演劇であることを明らかにする。
    劇中の主人公、天一坊とは、作家の知り合いイワン・イワノビッチ自身の話を江戸時代にトレースしたものだと言う。

    天一坊は、小鳥の声を聞き、貧しい者に施しをし、欲もなく、どこか仙人めいている。
    そんな天一坊の不思議な魅力に惹かれた人々が集まって来る。
    前半は、天一坊が将軍の御落胤ではないかということで、奉行・大岡越前と絡んでくるのだが、大岡越前も天一坊に惹かれていく。

    そのあたりから話がぐらりと変化し始める。

    イワン・イワノビッチも、あるお方の御落胤である、つまり「神の子」と等しい存在であるという話とも全体が重なってくる。

    天一坊が民衆に受け入れられ、その存在が大きくなってくることで、彼の存在に恐怖を感じた幕府は、彼が御落胤というのは偽りではないのか、という疑いをかけ始める。
    その結果、世の中を騒がせた罪により縛り首になるという。

    天一坊は周囲の人々に別れを告げるのだが、それがまさに「最後の晩餐」となっていく。
    ワインを飲み、パンを与える天一坊。
    天一坊がイエス・キリストになぞられていく。

    「将軍の御落胤であると偽り国を騒がせた」というのは、イエスが「イスラエルの王だと自称し、ローマ帝国に反逆しようとしている」というエピソードに重ねているのだ。
    だから、天一坊を罪人にしたくない大岡越前は、総督のピラトであるということなのか。

    ただし、イエスのときのように天一坊を裁けという民衆はおらず、天一坊も死ぬのはイヤだと言い出す。
    天一坊は「きちがい」であるということで、落着しようとするのだが、彼はその中に収まることができなかった。

    ラストに作家が「荒野で呼ばわる者の声がする……」という一連の台詞を言う。
    もちろんこれは聖書の中の一節で、ヨハネの言葉である。

    ヨハネは「自分はメシアではない」と言う。自分が荒野で呼ばわる声は消えていくものであるということなのだ。
    「メシアを示す声」とともに消えて行く。

    われわれは「メシアを待望しているのか?」
    この作品が初上演されたのは1970年、戯曲の書かれたのが1969年だという。
    60年代最後の年、1969年は全共闘など学生運動が最も参加で、アメリカは国内の反戦気運の高まりから、ベトナム戦争から撤退し始める年でもある。

    そんな中で「メシア待望」という気持ちが出てくるほど、ナイーブな感情があったとは思えず、逆に「メシア」ではなく「大衆」や「世論」と言った多くの人の声が最も力があると信じられていた時代ではなかったのか。

    つまり、「お上」という威光はなく、だから「メシア」への期待もない。
    そういう時代の中で、ウソの御落胤騒動「天一坊」がテーマとっているのだ。

    幕府と将軍は、天一坊を祭り上げる「民の声」に恐怖し、弾圧しようとするという図式が、この時代にマッチしてくるのではないか。
    安田講堂の攻防も確か1969年だったのだから、『天一坊十六番』(戯曲発表時は『天一坊六十九番』)の実際の作家・矢代静一さんには何か予感があったのかもしれない。
    そして、天一坊はどうするのか、その去就について作家が先に進めることができないのはそのためだ。
    混沌と静寂の中へ物語は収束していく。

    『天一坊十六番』の「十六番」とは何なのかと思ったら、上演した年のことを示しているらしい(1970年の初演は『天一坊七十番』というタイトル)。
    つまり、その時代性を矢代静一さんは「六十九番」のタイトルの中に込めていたのだろう。

    さて、天一坊と時代の関係についてはそんなことではないかと考えるのだが、もうひとつ「荒野で呼ばわる者の声がする……」の台詞には別のものも込められているのではないだろうか。

    それはつまり、この台詞は劇中で「天一坊」を書いている作家が口にするのだ。
    作家の「声」は、舞台の上の荒野に響くのだが、消えていくものである。
    「自分はメシアではない」と述べるヨハネと同様、作家の物語も作り物である。しかし、ヨハネがキリストを指し示したように、作家は「真実」を指し示すことができる。

    そして、作品が立ち現れてくれば、作家そのものは消えて行くという運命にあるのだはないかということだ。キリストを指し示したヨハネのように。
    「メシア」=「真実」を指し示すことが、ヨハネ、つまり作家や演劇に携わる人の役割ではないかということなのだ。。

    これがこの作品に込められていた、もうひとつのテーマではないかと感じた。

    天一坊を演じた横堀悦夫さんは、無欲な形で立ち、話す姿が見事だ。「きちがい」となって激高する姿との対比もうまい。
    大岡越前守を演じた山路和弘さんも、声もいいし、台詞を笑いに変えるタイミングもさすがである。
    椿を演じた安藤瞳さんの、美人風からの豹変ぶり、天一坊への憎悪のようなものは恐ろしかった(笑)。
    ダンスと歌の合唱隊は、リズム感もチームワークも良かった。生演奏もいい感じ。

    セットや衣装はシンプルながら、要所要所にセンスが感じられ、小劇場で活躍している人たちの参考になるのではないかと思った。
    特に後ろの幕の使い方、ビジュアル的にもナイス! 衣装の色合いも。

    演出の金澤菜乃英さんは、この作品で演出家デビューと言う。しかし、複雑な作品を、わかりやすく、見やすく、うまくまとめたと思う。なかなかの力量ではないか。

    ただ、『天一坊十六番』としたのだから、2016年をきちんと舞台にしてほしかった。
    戯曲に手を入れるのはためらわれると思うが、「佐藤栄作」ではピンとこない観客も多いのではないか。
  • 満足度★★★

    「僕の使徒行録」というサブタイトル付き
    もともとは青年座こけら落とし公演作「天一坊七十番」というタイトルだったらしい。作者の矢代氏が「再々、再々演されたらその年の数字を記そうと考え」その流れで今回が「十六番」となった模様。

    その当時の戯曲をそのまま(多分)改訂せず、上演しているので「昭和」という下地を感じながら見ていたが、2016年の現代には、初演当時の劇中の「首相」や「て」の人の昭和の人物をすぐには想像できず、上演当時の世俗をイマイチ把握出来ていなかったため、そのセリフにいささか戸惑った。
    ジャズのような生演奏に、コンドルズ風味のキレがあって賑わいあるの狂乱のような祝祭のようなオープニングダンス、コロスにあたるそのメンバーに山野さんがいることにもまたびっくり。
    とはいえ、劇中劇に黒電話が出てきたり捩り鉢巻き姿の女性や70年代前後のヒッピー風にも見える衣装などで、なんか変な話で面白いなとは思ったが、最終的に小骨のような不条理感も残り、70年代の摩訶不思議古典劇を見た感じ。

    終演後、公演プログラムを読んでサブタイトルがあったことを知る。それだけでネタバレになるとは思えないが、チケットにでもあらかじめ記載していた方が良かったのではないかな。

    ネタバレBOX

    現代パートで作家が講談や歌舞伎題材の「天一坊事件」をベースに戯曲を執筆してて、そのお話が『八代将軍吉宗の御落胤と称する天一坊がインコから教わったという「私たち人間は、あと一年足らずでみんな死ぬ」という啓示を説いて回り、江戸の民衆をも巻き込んで〜』と史実とは若干異なっている展開。が、やっているうちに現代の劇団員は、いつしか江戸の住人になったと思ったら、稽古途中の現代へと戻ったりと、慌ただしい。

    現実世界の場面では、劇団員?が執筆中の作家に対し不平不満を漏らすも、作家はこの天一坊にはモデルとなる人物がいる、それはイワン・イワノヴィッチという日本で一番偉い人の御落胤、つまり「て」のつく名前の人の隠し子で、天一坊の台詞はほぼイワノヴィッチの言葉」だと言い切り、劇団員を驚かせる。

    ここらへんから、天一坊とイワノヴィッチが一緒くたになり始めるけど次第に達観してくる天一坊の行動がキリストのようにも見えてくる不思議。戯曲書いた矢代氏がクリスチャンということもあり、キリストに重ね合わせたのかな、と、ほかの登場人物もペテロやマグダラのマリアやマルタにあてはめたら、そう思えてきた。
    インコの予言以後、民衆に崇め奉られたのに、事情を知った大岡越前からキチガイ呼ばわりされて、憑き物が落ちたように元に戻るが、近しい人々には不平不満罵詈雑言を言いまくり、最後の晩餐よろしく狂乱の場から、忽然と居なくなり終わる。
    幕切れは鮮やか。傍らで作家はウトウトとしながら眠りから覚める、頭上からインコ?鳥の羽が落ちてくる。最後まで姿を見せなかったイワノヴィッチに、全ては作家の頭の中で思い描いた単なる夢オチだったのだろうか。
    登場人物が勢ぞろいし、歌舞伎場面よろしく見栄を切る姿はかっこよかた。

    最近キリスト教にまつわる舞台を立て続けに見ていたので、多少の知識は持ってはいたが、初見だったらすぐには理解できなかったと思う。
    終演後、公演パンフレットを読んで舞台の内容を補完したが、どこか小骨がひっかかているような詰まりもあって、せめて現代版の部分を平成の時代にしていれば、違った感想もあったかも。
  • 満足度★★★★

    今も昔も変わりなく
    劇中劇という設定の舞台で、生バンドにダンス有りの賑やかな舞台で、筆の進まない作家と役者たちのせめぎ合いあり、天一坊を巡る人々の騒動があり・・・・ちょっとシニカルで、せつなくて、おかしくて、人間の本質というものは変わらないんだよなぁとつくづく思う。貼り絵の絵本のような衣装と真剣な役者さんとのアンバランスなバランスがとても面白かった。

  • 満足度★★★

    脚本に難ありの感
    始まって間もなく、しまった!私、矢代さんは苦手だったと思い出しました。

    このところ、ヒット作連作だった青年座ですが、残念ながら、今回は、あまり面白くありませんでした。

    役者さんにも、腑に落ちていない演技をしている方が数名。特に、女流劇作家役の津田さんには、終始迷いながら演じている様子を如実に感じました。

    長台詞が多く、時々眠くなりもしました。

    ただ、若い金澤さんの演出力には、驚嘆します。
    彼女の大学時代の恩師達が、スタッフとして助力されたようで、きっと、誰もが、彼女の才能に心的投資をされているのだろうなと感じました。

    近藤さんの振付、日高さんの音楽、加納さんの衣装、どれも、ポップで、楽しかったのが救いでした。

    神田陽子さんの講談は、良いお口直しになりました。

    アフタートークの司会の方が、声が通らず、喋りも明瞭でなく、ちょっとじれったくなりました。青年座は、マイクを使わず、声が通る数少ない劇団なので、できれば、司会も、声が届く方に依頼して頂きたく思います。

    ネタバレBOX

    女流作家と、イワンイワノビッチとやらの関係性がよくわかりません。

    イワンが、劇中の天一坊と被り、その上、キリストを彷彿とさせる人物で…。

    何だか、作者が、本当に、この作品を、誰かに訴えたくて書いたという気概が感じられない芝居でした。アイデアで押し切って書いた風を感じて、途中から、集中して観ようという意識が殺がれました。

    ただ、金澤さんの演出は、意欲的だし、青年座の役者さんの結束力は、観ていて、大変気持ちの良いものでした。
    山路さん、横堀さん、安藤さん、松熊さん、小林さん…、実に生き生きと魅力的です。
    このメンバーで、もっと、実のある作品を観たかったと、ちょっと残念に思いました。
  • 満足度★★★★

    天一坊十六番
    冒頭のコンドルズ感満載のダンスは楽しかったし(天一坊も踊るのね)、ポップな衣装も面白かったです。周りの方が「難解だ」と言ってらしたので、難解なのでしょうがそんなこと気にせず楽しめました。

  • 満足度★★★★

    迫力を感じました
    時は江戸・・・の話で押切られるのかと思いましたが、吉宗の隠し子をキリストに見立て、時空を越えた展開は、その世界は摩訶不思議に感じました。

    ネタバレBOX

    ねじり鉢巻きの女流劇作家と、江戸を舞台とした物語との絡みがいいですね。さらに、生演奏はいい効果で、芝居がとても引きしまります。音楽やダンスもいい場面、いいタイミングで、奥深い意味をもって表現されていたことを感じました。

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