ソウル市民五部作連続上演 公演情報 ソウル市民五部作連続上演」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.3
1-20件 / 40件中
  • 満足度★★★

    ハマらず。
    絶妙すぎて、目をこらさないと、見えない演出もあって、
    ちょっとぼうっとしてしまったので、もったいなかったですスミマセン

  • 満足度★★★★★

     
    観劇2作品

  • 拝見しました。
    「サンパウロ市民」

  • 拝見しました。
    「恋愛二重奏」

  • 満足度★★★★

    20111203
    (^・ェ・^)
    ソウル市民1919
    ソウル市民

  • 満足度★★★★

    20111127
    (^・ェ・^)
    ソウル市民昭和望郷編
    ソウル市民1939・恋愛二重奏
    サンパウロ市民

  • 満足度★★★★★

    ソウル市民
    投稿が前後してしまったけれど、こちらが一番最初。

    1909年、夏。日韓合併を翌年に控えたソウルで文房具店を営む篠崎家の一日を淡々と描いた作品。日本植民地支配下で平凡な日本人一家の下に働く朝鮮人女中は一見、差別もなく自由に幸せそうに働いているかのように錯覚しがちだか、彼女らの名前は日本人名をつけられ、同じ日本人女中と篠崎家の子供達の会話の中から、悪意のない朝鮮人への侮蔑が入り混じって発言される。

    以下はネタばれBOXにて。。

    ネタバレBOX


    裏日記はこちら→http://ameblo.jp/misa--misaki/

    これらの言葉は日本人たちが意識していないという「悪意なき罪」なのだが、この無意識の行為こそが問題なのだとこの舞台で提起した作品だと思う。また篠崎家の長男・謙一が朝鮮人女中を巻き込んで駆け落ちするシーンでも、謙一の行為を家族はまたか・・、と思うなど遊びをはらんだ家出だが、どうやら謙一と付き合っていたトシ子(朝鮮人女中)は真剣な様子で、その双方の心のギャップも浮き彫りにされていた。

    篠崎家の文学少女である長女の愛子がヒューマニズムという言葉を吐くのも滑稽だった。彼らの生活を通して、植民地支配の本質と、植民地に生きる人々を滑稽に描いた物語だ。第一話では手品師を篠崎家当主が招き入れるがこの手品師は見えないものが見えるとのたまい、作品にシュールなコミカルさを強調させていた。

    この物語の続きはソウル市民1919へ。
  • 満足度★★★★

    サンパウロ市民
    1939年11月、ブラジル・サンパウロ。移民開始から三十年を経て、成功者も登場し始めた日系移民。その代表格である寺崎家は、サンパウロで文房具店を営んでいる。欧州での大戦勃発による、日本人学校の閉鎖など、遠い戦争の影響はないわけではないが、それでも寺崎家の日常は平穏である。そこにやってくる相撲取りや、写真花嫁と呼ばれる新移民たち。『ソウル市民』四部作の地球の裏側で展開する、もう一つの「植民」の物語。


    以下はネタばれBOXにて。。

    ネタバレBOX



    裏日記はこちら→http://ameblo.jp/misa--misaki/


    今回の舞台はサンパウロの寺崎家。しかしソウル市民の篠崎家と、殆ど描写は同じで家族設定も同じ。違うのはサンパウロと寺崎家だけ。そんなだから叔父の慎二(山内健司)と書生が文具店店主の酒を盗み飲みしているシーンから始まる。笑

    そして、ソウル市民では朝鮮人を差別していたが、ここではブラジル人とブラジルのジャングルに居るという土人を差別しているのだ。そして今回も相変わらず、毎日、この家には色んな人々が来て、ソウル市民1919と同じように阿蘇山という力士がやってくる。
    1919の時にも書いたが、青年団のなかで力士役が出来るのは島田曜蔵しかおらず、やっぱり島田が登場して「ごっつあんです!」を連発するのだが、今回の島田の座り位置が舞台手前の左側で、顔が客席からは見えにくい位置だったのが残念だった。

    これで全ての回を観たわけだが、やはり島田の目や表情の演技力が凄まじく、力士の回のソウル市民1919とサンパウロ市民が楽しかった!公演は12月4日まで続くので機会があったら再見したい。
  • 満足度★★★★

    ソウル市民1939・恋愛二重奏
    1939年11月、ソウル。日中戦争からすでに二年が経過し、日本国自体は、長期にわたる戦争状態という泥沼にのめり込んでいた。一方、30年代中盤から始まった好景気、軍需景気の影響を受け、満州への中継点としての役割を担う京城は、虚構の繁栄を謳歌する。国家総動員法の制定、欧州での世界大戦勃発、迫り来る軍靴の音に耳を澄ましながら、相変わらず、篠崎家の人々はそういった世相とはかけ離れた生活をし、つかの間の恋愛に興じる。

    以下はネタばれBOXにて。。

    ネタバレBOX


    裏日記はこちら→http://ameblo.jp/misa--misaki/

    今回で4編目を観たことになるのだが、全体を通してみると篠崎家の人々は「桜の園」に登場しそうな人たちで、やはり浮世離れしているように感じた。だから当事の戦争勃発の緊張感や戦慄はまったく感じられない。また今回のタイトルは恋愛二重奏となっていたが、ワタクシはどちらかというと、寿美子と昭夫の夫婦のズレを露呈させた舞台だったように感じた。

    戦争という地獄を見て帰ってきた夫・昭夫は人が変わったように遊びや女に興じて全く働かなくなった。そして寿美子の父・謙一に小遣いをせびる様な始末だ。そんなことから夫婦関係は次第に冷え込む一方だった。昭夫役の古屋隆太が実にいい。彼ほどヤクザ的な・・ってかチンピラ風な役をやらせたら右に出るものは居ない。やさぐれ感のある演技力が素敵だ。

    また昭夫が働かなくなったことから家族との折り合いが次第に悪くなっていく光景や昭夫の疎外感や孤独が見事に描写されていたと思う。また1編と2編で堀田家の妻・律子役だった松田弘子が今回は篠崎良子(母)役を演じており、まるで騙し絵を観ているようだった。笑

    今回の余興はドイツ人のヒットラーかぶれ。笑
  • 満足度★★★★

    ソウル市民昭和望郷編
    1929年10月24日、ソウル。篠崎文房具店にも大衆消費社会の波が押し寄せ、新しい経営感覚が求められていた。この家の長女に求婚したアメリカ帰りの新進企業家は精神を病んで、入退院を繰り返している長男を毛嫌いする。一方、エリートとして総督府に勤めながらも植民地支配への協力に悩む篠崎家の朝鮮人書生。関東大震災以来の重苦しい不景気を打開するため満州への進出を企てる日本国家。

    以下はネタばれBOXにて。。

    ネタバレBOX



    裏日記はこちら→http://ameblo.jp/misa--misaki/


    世の中がまるでビデオテープのように早送りして怒涛のごとく回転しているが、篠崎家の女性たちはつかの間の饗宴を楽しむように、相変わらず浮世離れな生活を送っていた。

    一群の若者たちの姿を鋭く切り取ったシリーズ第三弾では、満州へと向かう道すがら、京城を通り過ぎる謎の若き芸術家集団が登場する。篠崎家では第一弾は手品師を、第二弾は力士といった具合に必ず余興めいた人物を登場させているが、今回の芸術家集団は青年団の中でもアニマル軍団的な要素の強い輩たちだ。笑

    ボインの山本裕子、カンガルーのような石橋亜希子、ヤクザ顔の二反田幸平、妖怪っぽい木引優子が揃って芸術家集団という設定なのだから怪しいにもほどがあるのだ。しかも二反田に至ってはダンスなのか体操なのか理解に苦しむ踊りを踊らされて寸劇そのものを披露しちゃうのだ。二反田は第二弾でも書生として登場したが、個人的にはもっとセリフを与えて欲しい。

    またこの回は長野海と渡辺香奈の民族の舞があったが、これが実に美しい。
    惜しむらくは朝鮮人が吐く言葉がさっぱり解らず、字幕が欲しかった。
  • 満足度★★★★★

    ソウル市民1919
    1919年3月1日、ソウル(当時の呼び名は京城)。この街に住む日本人の一家、篠崎家の人々は、今日も平凡な日々を過ごしている。ただ、今日は少しだけ外が騒々しい。噂では、朝鮮人たちが、通りにあふれているという。篠崎家からも少しずつ朝鮮人の雇用者が姿を消していく。三・一独立運動を背景に応接間で唄い、この独立運動を「まさか・・」なんて嘲笑し合う支配者日本人の「滑稽な孤独」を鮮明に表した物語。


    以下はネタばれBOXにて。。

    ネタバレBOX

    裏日記はこちら→http://ameblo.jp/misa--misaki/

    やがて、「まさか・・」なんて本気にしなかった日本人らの耳にも朝鮮が本当に独立したという情報を朝鮮人女中から聞くことになる。そしてお世話になりました。と、次々に去っていく朝鮮人女中達。2話となるこの作品でも相変わらず浮世離れした篠崎家の女性たちが露呈される。そして篠崎宗一郎の長男・謙一が文房具店店主となった2話ではキャストの入れ替えがあった為に、慣れるまで戸惑ってしまった。

    こういった続きの物語はキャストは継続して同じ役柄を演じて欲しかった。「ソウル市民」の篠崎慎二(叔父)を山内健司が演じていたが、「ソウル市民1919」では山内は篠崎謙一を演じており、極めつけは天明留理子が「ソウル市民」では謙一の義理の母を演じているのに、「ソウル市民1919」では謙一の妻を演じているのだ。オマエ、いつのまに義理の母親と結婚したんだよ!みたいな錯覚。

    またこの回は余興として力士を登場させる。力士といったら青年団のなかで島田曜蔵ほどどんぴしゃの役はない。すもう=島田なのだ。いっそのこと島田金剛山みたいな名前のほうが良かったくらいだ。しかし島田が登場しても「あれ?島田じゃないな・・」と感じたほど髪を上げるとガイジンっぽい。だけれど青年団に島田ほどのデ、巨漢はいないはず!なんてジーーーっとガンミしていたら、発した声が島田だった。笑

    そんなこんなで「ソウル市民1919」は島田力士のお陰でバカ馬鹿しくも滑稽なお話に出来上がっていた。

    さてこの続きは「ソウル市民昭和望郷編」にて。。
  • 満足度★★★★★

    五部作制覇
    「ソウル市民」
    再演を重ねた劇団の看板作品に出演者が安心して身を委ね好演。「同時多発」会話、うまくいっている部分は一方の会話の「間」にもう一方の会話が綺麗に入り込み、美しい。物語の中盤で交わされる家の女中たちと長女の文学談義、朝鮮人への差別意識が露になり、そら恐ろしい。

    「ソウル市民1919」
    三・一独立運動の高揚感に沸く街角から隔絶された日本人一家を舞台に、大正デモクラシーを下敷として個人の価値観の解放を描く。両者のコントラストがもっとくっきり出れば良かったと個人的には思ったりする。それにしても、「平和ボケ」した篠崎家の描写は愉快。

    「ソウル市民・昭和望郷編」
    篠崎家を訪れる奇妙な輩と、飛び交うホントかウソか判然としない話の数々。一寸先も不透明な時代を象徴。「日本人」というアイデンティティも俎上に上げる作劇。

    「ソウル市民1939・恋愛二重奏」
    「恋愛〜」と謳っているが、その華やぎよりむしろ戦争が市民の日常に深く侵食しつつある様子を丁寧に描写。戦地帰りの婿養子を演じた古屋隆太が心の荒廃を見事に表現。

    芝居の出来よりも、かつて日本が隣国を植民地化して支配し、朝鮮民族をあからさまに差別したその有り様を、四作もかけて執拗に描いた平田オリザの胆力に感嘆しました。

  • 満足度★★★★★

    『ソウル市民1939 恋愛二重奏』 
    4部連続上演、最終作。たどり着きました。1939年、日中戦争は泥沼、ノモンハンで日本軍とソ連・モンゴル軍が衝突、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まる。そうした状況下のソウル市民の一日。この作品も時代の空気感が本当によく描かれている。滑稽なほどに熱狂的なヒトラー・ユーゲントへの信奉ぶり。快進撃を続けるドイツナチスと「バスに乗り遅れるな」という当時の雰囲気をよく伝えていました。あのバカバカしいまでの熱狂ぶりはまさに当時の雰囲気だと思います(北原白秋がユーゲント賛歌の作詞をするのですから)。哀しい現実です。

  • 満足度★★★★★

    『ソウル市民 昭和望郷編』
    4連続上演の3作目。連続で観るための手続きに疲れる。
    1929年秋、長期不況の中でなんとか切り盛りしていこうとするソウルの一家、私はこの作品が一番好きでした。朝鮮総督府のエリート官僚となった朝鮮人書生の青年とそれに対する日本人家族の対応。ああ、これが当時の善意な人びとの対応だったのだなと改めて感じ入りました。世界恐慌直前、破滅の前の饗宴にかける人びとの哀しい生き方。

  • 満足度★★★★★

    ソウル市民
    脚本も演出も役者さんも素晴らしかったです。その時代らしい、ヘアーメイクも、素敵でした。

    ネタバレBOX

    1909年、ソウルに住む篠崎家のリビングルームでの、ある1日の出来事。

    何気ない会話から滲む、時代の空気感や、街を行き交う人々の雰囲気まで、浮き彫りにする感が、素晴らしかったです。

    悪意がないだけに、罪の重さも強く感じてしまった。それは何も知らない自分が、現代に生きているからだと思うが、とても感慨深く、この作品に廻り合えて良かったと思いました。

    今後も、再演し続けて頂きたい作品です。

  • 満足度★★★★★

    『ソウル市民1919』
    第2作目、『ソウル市民1919』 前作から10年後の1919年3月1日。1910年に韓国は日本に併合される。三・一独立運動が起きたソウルの一家。緻密な構造でつくられている。人間の滑稽さ哀しさ、堪能しました。

  • 満足度★★★★★

    『ソウル市民』
    ソウル市民4部作連続上演の日、まず第1作目『ソウル市民』を観る。歴史ということ、人間・社会を深く考察させる作品だと思う。名作です。

  • 満足度★★★★

    『ソウル市民1939・恋愛二重奏』
    あくまで自分の印象として・・

    やりたいことは分かる気がします・・。
    戦争の進展とともに繁栄している街。
    サンテグジュペリがマドリッドで描いたものに似たものを
    描こうとしていたのではないか・・という気もします。

    ただ、そうした戦争とは裏腹の喧噪、明るさ、その中での孤独・・を描くには、
    ちょっとマジメすぎる印象が拭えない気がしました。
    (それは、舞台も、観客も、という意味で・・)

    こうしたものこそ、もう少しラフに作り上げて欲しい気がしました。

    明るく楽しく元気に!メリハリをつけて絶望や苦悩を描いたりしてくれれば、
    もう少し魅力的な舞台になったのではないかなぁ・・などと思って観ていました。
    役者の演技が悪かったと言ってるのではないです。

    ただ、空気が堅苦しかった(全てをきっちり作りこみすぎると
    逆に堅苦しく見えてしまう気が・・)せいか、
    疲れて珍しくちょっと寝てしまいました・・(汗

    まぁ、こういうのは好みによるものなんですけどね。

  • 満足度★★★★★

    「サンパウロ市民」(初心者にはお薦めできない気が・・)
    客席の空きにくらべると恐ろしく完成度の高い芝居でした。

    室内劇でありながら、そこにうつしだされていたのは、
    ドアの向こう側の左翼が潜む街角、
    新聞やラジオを通してゆがめられて伝わってくる、戦闘状態の赤く燃える世界、
    階層化が進行し、同じ日本人同士でも差別化が進みつつある現実。

    あえて会話劇の形をとりながら、ひとつひとつの歴史を直接描かず、
    コトバの陰影だけで世相を描ききっている。

    ただ、何気ない言葉の端々を拾い上げながら、常に想像をめぐらせないといけないので、
    ただなんとなくテレビだけ眺めていればいい状態から
    いきなりこの行間の世界に飛び込むのは、
    なかなか骨が折れるに違いないと思ったり・・(というか眠くなるのでは?

    ちなみに、この作品だけ観ても十分に楽しめるとので、
    観る順番をわざわざ最後に回す必要はないと思われます!

    時間の空いた方は是非!(別に営業ではありませんがこの日は空席が目立ったので、つい(汗

  • 満足度★★★★

    『サンパウロ市民』「時代」そのものがくっきりと姿を現す
    戦争は遠い出来事。
    1939年サンパウロにある商家の1日を切り取り、植民地を支配する側の『ソウル市民』とは、また別の「植民」家族と時代を浮かび上がらせる。

    ネタバレBOX

    「あれっ?」と日にちを間違えたかな、と一瞬思った。
    タコの話に、玄関の修理、そして関取の訪問。

    この作品の舞台は、1939年のサンパウロ。
    『ソウル市民』と同じ文房具商の家族とその周囲の人々のある1日を描く。

    第1作の『ソウル市民』を下敷きにしつつ、この作品以前の4部作の、いくつかのパーツを利用して作った作品。
    と言っても、単なる焼き直しというわけではなく、きちんと当時の状況を調べた上での創作であるから、フォーマットを同じにして作り上げたということは凄いのではないかと思う。

    これは、「コロンブスの卵」ではないだろうか。
    出来上がってしまえば何のことはないかもしれないが、その発想は素晴らしいと思う。
    同じ時代あって、同じような家族たちが、同じようことをしつつも、境遇が違うという面白さ。

    『ソウル市民』自体も、1つの家族の歴史になっているが、フォーマットは同じだったのだ、
    しかし、1つの家族の歴史ということで、気がつかなかったのだが、「同じような家族たちが、同じようなことをしつつも、境遇が違う」という作品であったわけだ。
    もちろん、1家族の大河ドラマというような見方もできるのだか、時代だけが違う4本が並んでいるという見方もできるわけなのだ。

    つまり、5作品を観ることによって、「時代」そのものが、さらにくっきりと姿を現してくるということなのだ。

    『ソウル市民』では、日本の植民地であることが、大きな設定であった。そしてこちらの『サンパウロ市民』では、日本人が「植民」するという点では同じようであるのだが、実態は、労働力としての需要であり、ある意味下層を構成するために、つまり、まるで「植民地の住民」になるために地球の裏側にでかけた、と言ってもいい状況だった。

    この1939年という時期は、自らの手で自分の農地や商店を経営する人もいたようだ。
    しかし、戦争が激化しつつある中で、ブラジルはナショナリズムが台頭しており、日本人学校は閉じられ、日本語も話すことができなくなるのではないか、という状況となっている。

    そういう状況の中での日本人たちの心の拠り所は、「連戦連勝」の日本軍の情報だけである。しかし、短波放送は入りにくく、地元の新聞では日本人たちが思い描くような記事はあまり載っていない。
    情報から遠く、母国への想いがさらに情報を見る目を歪めてしまう。

    日本人たちは、自分の農地を「植民地」と呼ぶことで、日本人の誇り(半島や大陸を手に入れた日本国)を誇示しているようで、哀しい。

    そして、「土人」と呼ぶ原住民たちへの見下し方は、さらに日本人が自らの境遇を語っているようなものである。
    実はブラジル人たちに対しても、日本人の勤勉さと比べ、見下そうとしていることが見てとれる。
    さらに、同じ日本人であっても、「沖縄」の人たちに対しても、「暖かいところの人たちは…」というトーンで、やはり無意識に下に見ている様子がうかがえる。
    この構造を作り上げる感覚は、万国共通ではないだろうか。日本的でもあるが。

    また、家族たちの暮らしも同じである。家長が中心にいて、机に付く席次はとても大切である。
    自分より上の者が現れるとすぐに席を空け、自分は次の席次に着席していくのだ。
    これも無意識。

    沖縄、広島という地名にまつわる戦争の影を見つつ、サンパウロでは、バンザイを叫び、そして歌い踊る。
    前の4作同様に、いや、さらに情報の外にあることで、戦争というものがさらにどこか余所事のような市民たちなのであった。

    前の4作のパーツを利用した作品であるから、「歌」もある。しかも踊り付きで。しかし、これだけは唐突すぎたのではないだろうか。
    サンパウロにいる、という空気感を出すのであれば、ラジオや蓄音機などから、地元の音楽を流しているというような伏線もあったほうがよかったと思うのだ。

    それにしても、『ソウル市民』のフォーマットは、サンパウロで成立するのであれば、日系人の収容所があった『マンザナ市民』や日本人の町があった『サイパン市民』などという設定もあるのではないかと思うのだ。

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