マレーヒルの幻影 公演情報 森崎事務所M&Oplays「マレーヒルの幻影」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    翻案の妙。さすが、岩松了。
    原作の世界をそのまま使わず、在米邦人のコミューンに
    翻案したのが興味深かった。
    自分が最初に宝塚での「華麗なるギャツビー」舞台化に
    求めたのも結局こういう手法だったと思う。
    小池修一郎が菊田一夫賞を受賞した直後で“第二の菊田
    一夫”みたいに注目されていた時期に「ギャツビー」を
    手がけたので、菊田の得意とする日本的な翻案を期待
    したのだが、結果としてそうはならなかった。
    岩松了の「マレーヒルの幻影」のほうが、むしろ菊田の手法に近い。
    菊田はヨーロッパ旅行中に新聞のわずか数行の地元の結婚ニュース
    に興味を持ち、舞台設定はそのままに、ハッピーエンドの記事をまったく違う悲恋物に作り変え、名作「霧深きエルベの辺り」を生んだ。
    舞台や登場人物はヨーロッパだが、うまく日本人の感覚にマッチ
    させた話になっていたのだ。
    映画を観た世代の自分にはやはり、ロバート・レッドフォード
    とミア・ファローのイメージが強く、原作通りなぞると比較して
    違和感を感じてしまっただろう。
    ヒロイン三枝子がデージー単独ではなく、作者の妻ゼルダを重ねて
    いる点も、原作の愛読者には嬉しい。

    ネタバレBOX

    鉄柵状のパテーションをうまく使った舞台美術が印象に残った。
    この柵が橋や家の門や墓地の囲いに変化する。柵は三枝子を抑圧し、
    絡めとろうとする運命の罠にも見えた。そして、この柵が登場人物を
    幻影に見せる効果もあった。
    三枝子(麻生久美子)のデージーのイメージを雛菊(デージー)に託している。冒頭の墓地の場面で「こんな墓地に雛菊が咲いてるなんておかしいだろう」という台詞があった後に三枝子が登場したり、ソトオカが訪ねた
    三枝子の家にも雛菊が飾られ、器が割られて蹂躙される。
    今回はキャスティングが成功した。それぞれ適役だ。
    「われわれはどんな状況-人とうまくコミュニケーション
    できていようが、できなかろうが、基本的によくいつもわからないものに
    対してリアクションしてる」「結局、人は誰とも会話していない」という岩松の考え方がよく出ている芝居だったと思う。
    私などは単純なので、舞台を観る時は当然、人物の会話を追って状況を
    理解しようとする。だが、岩松作品には、それはあまり意味がないようだ。
    登場人物はめいめい勝手に自分の思いを披瀝する。とらえどころのない人物ばかりでてくる。外人俳優3人もしかり。英語が理解できればそれなりに楽しめるだろうが、岩松の手法でいけば、英語の台詞はノイズとして聞き逃されてもかまわないのだろう。言葉のキャッチボールはほとんど成立せず、不協和音をずっと聴かせられるような不安が襲う。しかし、それで岩松作品は成立しているようなところがある。
    そういえば、自作に岩松が出演するとき、彼はそこで交わされる会話以外
    のものに目を向けているような不可思議な笑みをたたえていることが多い
    否、自作に限らず、俳優としての岩松はたいていそんな表情を浮かべており、それがどこか「油断のならない奴」「食えない奴」に見えて印象に残る。
    この芝居で、唯一、キタ(三宅弘城が好演)は必死に会話のボールを正しい方向に投げようと努めている人物に見えた。そして思うようにならぬもどかしさを嘆く。観客がキタに感情移入できるゆえんだろう。
    フジオ(松重豊)は悪魔のような存在だ。性格が悪魔のような男という意味ではなく、役割そのものが悪魔なのである。人間としてはせいぜい底意地の悪い駄目亭主なのだが、結果的にすべてを破滅に追いやってしまう。ソトオカの会社の封筒に入れてスージー(市川実和子)に金を渡すのも、誤解や結末を意図した行為ではなく、自分の中の小さな悪意に過ぎなかったはずだが運命を決めることになる。岩松自身が出演するならフジオ役だろう。
    生活の芯などまるでないかに見えたタナカが最後は怒りから思い切った行動に出る。荒川良々は気のいい純情な役も似合うが、風貌からこういう役もとてもいい。市川は根無し草の雰囲気がよく出ていた。
    ソトオカ(ARATA)は2人を案じて忠告するキタにさえ、三枝子との交際に反対した母親を重ね合わせて反発するが、これもキタと会話しながら、キタとは関係ない社会的な差別に怒りを向けている。
    そしてタナカに撃たれたソトオカに銃弾でとどめを刺すのは三枝子だ。
    愛しているはずなのに、ソトオカの呪縛から逃れようとしている。
    彼女はフジオとの生活に終止符を打ちたいのではなく、だれの愛からも逃れて本当の自由がほしかったのだと思う。

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    2009/12/29 23:04

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