物の所有を学ぶ庭 公演情報 The end of company ジエン社「物の所有を学ぶ庭」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    ジエン社は初めて観たときから好きになったカンパニーだ。
    刺激的でワクワクさせてくれるし、帰り道にいろいろ考える題材をいつもかならず与えてくれる。
    今回も面白かった!

    (以下、かなりの長文になりましたが、ネタバレBOXヘ)

    ネタバレBOX

    会場に入って驚いた。
    「庭」がそこにあった。たぶんコンクリートむき出しだったり、柱が真ん中にあったりするような会場だと思うのだが、それを上手く利用して庭になっていたのだ。

    「魔界の扉」が開き、日本列島は北のほうから森が浸食し始めている。すでに埼玉の北部は森に覆われてしまった。森に入る人間は胞子によって死んでしまう。扉の中からは追われた(?)妖精と呼ばれる人のようにものたちが出てきた。その妖精たちが町で生活できるようにこの庭で教育をしている。この庭には2人の妖精がいて、女性はチロル、男性は鈴守と名づけられた。

    そんなストーリー。
    「魔界」だの「妖精」だのという言葉が出てくるので勘違いしてしまいそうだが、ファンタジー感はゼロの作品である。
    ジエン社らしい、考えさせられる会話劇だ。

    「森」「胞子」は何かと考えると「北から浸食」「触れると死ぬ」ということから、(これは後々違うと思ったが)「放射能」ではないかとすぐに思ったが、というか「ナウシカ」だよね、とも思った。
    いずれにしても「森」という「自然」のカタチをとりながら、文明の歪みによって生まれた禍々しきモノではないかということが推測できたりした。

    舞台上の設定では、「森」は劇場の「入口」のほうにある。すなわち私たち観客はすべてが「森」からやって来たということなのだ。
    これは「現代文明・文化」にまみれた人々が私たちであり、もう一歩進んで読めば、この「演劇作品」と「私たち」は「庭」で交流(学び)をするということで、舞台側(劇団側)から「教育」を受けようといしている、ということを意味しているようにも受け取れる。

    今回の作品はタイトルのままで、妖精たちが物の「所有」を(この)庭で学んでいる設定。
    数作前ではとんでもなく「同時多発的な会話」が進行していた舞台もあったが、今回も同時多発的ではあったが、かなり整理・抑制されていて、きちんとストーリーがつかめるようになっていた。
    「わかりやすくなった」と、一般的な感覚で言ってもいいと思う。

    ジエン社は、同時多発的な会話などが独特の「危うさ」を生み(それを意図し、表現しているのかどうかは知らないが)、それが彼らの持ち味のひとつであったが、今回はテーマに合わせることでそれが整理されいていたように思う。
    何人かの会話の途中で別の誰かが介在し、その結果、別の時間の出来事(シーン)に移行していることがわかるという仕掛けだ(演劇的なリテラシーがないと理解が難しいかもしれないのだが)。

    こういうシーンがレイヤーのように重なった会話のやり取りの中で印象に残っているのは、会話の相手が別のシーンにすでに移動していて、「私は誰に話しているのか」という台詞が発せられたところだ。この感覚が実は表に見えるテーマ「所有」と関係してくる大切な台詞であったことが後にわかってくる。

    庭では妖精たちに元教師たちが町で生活できるための「教育」をしている。妖精たちに一番欠けているのは「所有」という概念だということで、それについてのやり取りが頻繁に行われる。
    私の持っているペンは誰のものなのか。そのペンに名前が書いてなかったら? そのペンから私が離れていたら? どれくらいの距離が離れていたら? どれくらいの時間そこから離れていたら? どうしてそのペンが私のものなのか? 等々が繰り返される。そして「他人の所有物を触ってはいけないのは、なぜですか」の問い。

    「所有」には「パーソナルスペース」などということも関係してくる。男の妖精・鈴守は、女性の教師に何度ダメなのだと言っても触れてしまう。言葉の接触と肉体の接触の違い。

    「所有」を巡るいくつかのエピソードが出てくる。「庭」を所有していると主張しているクルツという女性。彼女は「自分の庭」ということを根拠にして「ここで出すお茶は熱くなくてはならない」と言い続ける。「所有」の概念はそうした行動に関する「規制」のようなものも含むのだ。
    また、別れた男・エムオカを探しに来る女性は、付き合うという「所有」が頭から離れず、「きちんと別れる」ことを求め、さらにその象徴としての2人の住まいに残る2人の「所有していた」荷物のあり方についても繰り返し語る。

    そこで思うのは、「この庭で誰が(所有を)学んでいるのか?」ということなのだ。
    つまり教えている教師たちが一番「所有」について学んでいるのではないか、ということ。
    妖精(特に女の妖精・チロルから)の「なぜ」「なぜ」「なぜ」の繰り返しによって、教師たちは深く考えることになる。

    実は台詞にもそれがあった。すなわち教師・ハリツメから発せられる「考えてみよう」という、妖精に向けられた問いだ。その問いは、実は延々と「妖精の側から発せられていた」ということなのだ。

    さらに言えば、当然、我々観客も「人生」というモノまで含めて「所有」についてあらゆる角度から考えさせられている(学んでいる)。

    そして男の妖精・鈴守からは「所有」から発展した「人と人との距離(感)」を学んでいるのではないか。「空気」とかも含めて。
    「パーソナルスペース」を超えてきてしまう鈴守。そして「言葉(会話)」によるコミュニケーションについても、それは関係してくる。社会に出るための教育をしている元教師が「自分は社会不適合者」であると吐露したりする。
    「ウソでなければつきあえない」みたいな展開になってきたときに、「ああジエン社だ!」と思ったのだが(笑)。

    このように「異文化」が触れあうときに、「文化を伝える」という構造が浮かび上がってくる。

    「これって何かに似ているな」と思った人も多いのではないだろうか。
    昨年公開の映画『メッセージ』だ。ざっくりそのストーリーを紹介すると、異星人が地球を訪れる。主人公である言語学者が彼らの言葉を理解する。「言葉を理解する」とはその言葉で考えることができる、ということであり、それには「文化の理解」が不可欠。それによって主人公は異星人たちの時間の概念を獲得する。

    この作品の中でも「妖精たちは自分たちの言語を持っているのではないか」「異星人たちの文化(文明)」という台詞がそれにつながる。
    それがラストシーンにもつながっていく。

    妖精たちは2人だけでいるときに「歌」を歌っている。それによって「交信」しているようなシーンもあった。
    「歌」が彼らの「言葉(のようなもの)」ではないのか。
    つまり、ラストで元教師のハリツメが「その歌を歌った(言葉を獲得した)」ということは、妖精たちの「文化を理解した」のではないかということなのだ。
    彼女はそれにより「すべてを知った」のではないかということ。

    そう考えると森に入ると胞子によって人は死んでいるのではない、ということが考えられる。したがって「胞子」は「放射能」のメタファーなどではないではないか。そんな気がする。
    森に入って死んだ人々は、自分の持ち物をすべて捨てていく。衣服も脱いで死んでいく。
    それは「所有」を捨てた最後の姿ではないのか。モノだけでなくすべてを捨ててしまった。「命」までも。
    森の深くに入っては戻ってくる、エムオカが死んでいないのも彼がアッチ側の人だからなのかもしれない。

    しかし、それ(所有の概念を捨てること)は理解の一部ではないか、ということもある。一部しか理解できてないものは「所有を捨てて」「死」に至るのだが、すべてを理解した者はそうはならない。
    それがハリツメが見せたラストであり、本当にすべてを理解した者の姿ではないかと思うのだ。
    つまり、ハリツメは時間を掛けて「チロル」と「鈴守」によって「教育」されていたのだから、きちんとすべてが理解できた。単に森に入って行く人々とはそこが違うのだ

    ここで面白いのは町に出たチロルが逆に町(私たちの社会)に浸食されているところだ。
    すでにコートなどを着込んでいるし。ミイラ取りがミイラになったというところか(笑)。

    2つの異文化が接触して、どちらかにどちらかが変わるのではなく、互いが互いに影響・浸食していく。つまり新たな文化の誕生を描いているのが、この作品ではないのか、とも思ったのだ。
    思えば、日本もペリーに「開国シナサーイ」と言われてからこっち、西洋文明・文化を取り入れて独自の文化を作り上げてきたように。
    なので、エムオカが鈴守が蒔いた種を育てようとするのは、そうして「新しい文化・文明」の誕生・育成を彼(ら)が行っていくという姿なのであろう。後ろの席の人は見えなかったかもしれないが、エムオカが水をやると土の中から芽らしきものが姿を現していた。それがハリツメやチロルなのかもしれない。

    役者は妖精・チロルを演じた鶴田理紗さんと同じく妖精・鈴守を演じた上村聡さんの自然さがとても良かった。
    元教師・ハリツメを演じた湯口光穂さんのちょっとした緊迫感の表情もいい。同じく元教師・当麻さんはやっぱり「ジエン社だなあ」と思わせてくれる。クルツを演じた蒲池柚番さんの頑なさもいい。

    妖精の鈴守の命名は「なんとかだけど日本的名前にした」みたいな台詞があったと思うが、その「なんとか」の部分を聞き逃してしまったのが悔しいし、気になっている。

    どうでもいいことだが、終演後、ドリンクチケットを無駄にするのももったいないので、2階のカフェでお茶を注文した。やけどするほど熱かった(私は妖精ではないので普通に熱すぎたのだと思う)ので、妖精気分を味わった。熱すぎて味がわからないので念のため聞いたら「普通の緑茶です」とのこと。緑茶でこの温度はどうかなと思いつつ、会場を後にした。

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    2018/03/07 06:13

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