ピーター・ブルック、マリー=エレーヌ・エティエンヌ[フランス]『驚愕の谷』 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「ピーター・ブルック、マリー=エレーヌ・エティエンヌ[フランス]『驚愕の谷』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    「六根」は「空」である 「五蘊」は「空」である
    『驚愕の谷』の先には、「般若心経」が見えた。



    しかし、「王様は裸」になってしまうかも……は、さすがに言い過ぎか…。

    ネタバレBOX

    タイトルの『驚愕の谷』とは、ペルシャのアッタールの叙事詩『鳥の言葉』から来ているということは、前情報から知っていた。
    ならば、目を通したほうがいいのかもしれない、と思ったのだが、どうやら長い作品らしいので、パスした。

    簡単なストーリーを確認すると、「鳥たちが自分たちの王を探す旅に出る。その旅で7つの苦難(谷)を乗り越えていく。最後の谷が“驚愕の谷”」だという。物語のラストは知らない。
    まあそんな前準備だけで公演に臨んだ。

    キャサリン・ハンターは、前に『THE BEE』で見たが、今回もとても魅力的な女優さんであった。ほかの2人の俳優さんたちももちろんいい。彼らは何役もこなすのだが、さほど大きな変化をつけずに、さらりと別の人格を演じるのだ。白衣1つ、上着1つで。
    そして、2人の演出家には、舞台に観客を惹き付ける力がある。

    導入から展開、客いじりからラストまで、あるときは謎解きのように、またあるときはコメディのように楽しませてくれる。

    物語の軸には、人間の脳(力)があった。

    文字を見て色を感じたり、言葉を聞いて音を感じたりする「共感覚」を持つ人(々)が描かれる。
    主人公は、共感覚を持つことでもの凄い記憶力を発揮する女性である。

    この作品の中で、印象深いのは「無」について語るシーンだ。
    「“無”は“無”」であるということに対して、共感覚を持つ女性は「“無”はある“”」と言う。
    そして、劇中で行われたマジックで、観客に「伏せたトランプを当てろ」というシーンがある。
    マジシャンは「nothing」と観客に言う。観客も何度か迷いながら「nothing」と言い、トランプを指す。
    トランプは何も書いてないものであり、「nothing」であって、「nothing」のトランプは「ある」のだ。

    このとき私の頭の中にあったのは、「空」である。
    「色即是空」の「空」。
    「般若心経」に出てくる「空」。
    さらに「般若心経」には「色即是空」のあとに、びっくりするぐらい「無」が大量に出てくる。

    「空」と「無」。

    お釈迦様はすべてが「空」であると説き、さらにお釈迦様が達した悟りまでも「無」であると「般若心経」で説いたのだ。
    「空」と言ったのは、「五蘊(ごうん)」であって、「六根(ろっこん)」である(と思う)。

    「六根」とは、人の感覚のことを指していて、「目、鼻、舌、耳、身、意」のことを言う。
    ここでこの作品につながったのではないか。

    すなわち、「共感覚」という、「人の感覚」=「六根」が、普通の人とは違う形で働く人々の、その「感覚」も、「空」ではないか、ということなのだ。

    共感覚によって脅威の記憶力を持った女性は、その能力によって苦しめられていく。
    記憶したものが頭の中から消えないのだ。
    彼女は、言葉や数字などを記憶するときに、「映像」に置き換えていく。
    これは、円周率を覚える人が、数字を別の言葉に置き換えてストーリー化していくのにも似ている。なので、劇中でもテクニックではないか、と言われていたりもした。

    しかし、彼女の場合はそうではなかった。
    彼女はその能力によって仕事を失い、さらに窮地に追い込まれていく。
    「A」が「ピンクだ」と言った男も、その感覚によって、孤独感を味わっていた。

    彼らは等しく、その「能力」に振り回されていた(る)と意っていい。
    (唯一異なるのは、舞台の上で演奏しているピアニストだったが)

    共感覚がある彼女は、「無」を「ある」と言った。
    つまり、彼女には「ある」のだ。

    彼女にとっての、最後の試練、つまり「驚愕の谷」は「共感覚」ではなく、「ある」であったのではないか。

    すべてが「空」とするならば、彼女は「驚愕の谷」を超えることができるのではないのだろうか。
    しかし、彼女の「共感覚」が「空」とすればすべてが終わるわけでもない。
    そういう考え方に立つこと、「空」の上に立つことができれば、の話であり、この先は、誰にも説明しようもない境地に達することになるのだろう。

    だから、最後は、「演技」でもなく「台詞」でもない、「横笛の演奏」によって静かに終わる。
    オリエンタルな響きの横笛は、やはり東洋的な「神秘」のようなものを感じざるを得ない。

    この作品の演出は、非常にオーソドックスなものであった。
    しかし、先にも書いたとおりに、静かな展開にもかかわらず、惹き付けるものがあった。

    例えば、敷布の上に、計算されて置かれたイス。
    「内」と「外」(物理的、あるいは意識的な)をうまく分けていた。
    特に冒頭のシーンでは、両端の2脚だけが、敷布と外の両側にかかっていたりした。

    脅威的な記憶力を発揮するシーンもうまい。
    すべての単語を発するわけではなく、そのバランスがいいのだ。

    とは言え、見ながら思ったのは、今の日本の演出家(特に若手の演出家)だったら、これをどう見せただろうかということ。
    つまり、ブラシで床や壁に絵を描いていくシーンでは、照明だけでなく、ビデオプロジェクターで舞台に鮮やかな色彩を見せたのではないだろう。

    あるいは、記憶力抜群の女性が文字にまみれていくシーンを描くときには、ビデオプロジェクターで文字を実際に映し、彼女を文字に埋めたのではないだろうか。特に後半、女性の中から記憶が消えなくなり、黒板の数字も消せなくなったシーンのときは、舞台は映像の文字まみれになったのではないか。
    そのほうが、しっくりきたし、誰にでもわかりやすい。刺激的でもある。

    この作品ではそうはせず、「台詞」と「演技」、そして最小限の「セット」と「照明」だけで、観客のイマジネーションを刺激した。
    何でも具体的に(手軽に)見せてしまうことは果たして良いのだろうか、という問い掛けにも感じた。というわけもはないが。

    もちろん、今の日本の作品には、先に書いたように「文字を溢れ出させる映像的な演出」の少年王者舘やハイバイの『霊感少女ヒドミ』なんていうのもあり、「単に映像で、説明的に見せる」の「先」へ行ってしまっているものもあるのだが。
    ピーター・ブルックさんが、これらを観たらどう感じるのか知りたいところではある。

    そして、「ピーター・ブルック」もまた「空」である。
    (は、面白いから書いただけで、それほど意味はない)

    とは言え、今回の作品を見て思うのは、正直、ピーター・ブルックさんを少し特別視しすぎていること。
    私も、もちろん含めて。なにせ、静岡まで『WHY WHY』を見に行ったクチなのだから。

    確かに、(それなりに)面白いとは思うのだけど、今回の作品で言えば、私は下敷きになっているアッタールの『鳥の言葉』をまったく知らないということ、さらに英語はネイティブではないということ、で作品の中に、うまく入り込めなかったのだ。

    「アッタールの『鳥の言葉』ぐらい前もって読んでおけ」というのではたまらない。
    それを知っていれば、「より楽しめた」ぐらいの作品でないと辛い。
    特に冒頭のシーンと、不死鳥のエピソード、ラストのモノローグは『鳥の言葉』からの引用ではないのだろうか。
    これらと、私のようなレベルの観客とを、もう少しつなげる「何か」の「工夫」がほしい。

    英語だって、字幕があればいいということではない。
    作品に届ける力があれば、その壁はやすやすと乗り越えられるはずだ。
    かつて、台湾の作品で字幕がまったくない舞台を観たことがあったが、十分に伝わった。
    それが誤った受け取り方であったとしても、「伝わった」のだ。

    今回の作品では笑いがたびたび起こった。
    中でもトランプマジックを見せるシーンが一番笑いが大きかった。

    観客の中から3人が次々舞台に上げられ、トランプマジックの相手をさせられるというものだ。
    この笑いの中心は、「英語がよくわからない」ということに尽きてしまう。
    もし、日本語だったら、ああいう形での笑いは起きていないだろう。

    「笑い」を意図していたかどうかは別として、当然「伝わらない(伝わりにくい)」ことは、折り込み済みではないのか。
    だったら、このテーマにおいては、それを作品に生かせる方法はもっとあったと思う。
    役者が、英語が伝わらないことにシビレを切らして、字幕を指さしてしまう、というのは面白いのだが、その「面白さ」の先がほしいのだ。
    そうでなければ、英語の伝わり方が微妙な日本で上演する意味はない。

    非難を恐れずに言ってしまえば、今回の作品は、「西洋人にとって神秘的でオリエンタルな素材(アッタールの『鳥の言葉』)を下敷きにして、人間の脳(力)に触れつつ、客いじりで笑わせて、それらしいモノローグと、オリエンタルな香りのする神秘的な笛の音で、意味ありげに終わらせた」ともいえてしまう。

    演劇人の方たちや、目の肥えた観客の方たち、「『鳥の言葉』ぐらい常識だよ」の方たちは、また違った感想があると思う。
    しかし、私は、この作品が下敷きにしている雰囲気や、投げっぱなしに感じてしまったラスト、つまり、「伝えること」をおざなりにしてしまった(と感じた)ことは好きになれない。

    で、「ピーター・ブルック、また来年来るよ」と言われたら、どうするか。
    私は「行く」と答えてしまうだろう。
    だって、ミーハーだから。

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    2014/11/04 07:53

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