ピーター・ブルック、マリー=エレーヌ・エティエンヌ[フランス]『驚愕の谷』 公演情報 ピーター・ブルック、マリー=エレーヌ・エティエンヌ[フランス]『驚愕の谷』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.0
1-9件 / 9件中
  • 満足度★★★★★

    最終日に当日券で・・
    病院終わってから目の前の電車に乗ったら間に合うことに気づいてしまい・・(苦笑
    6000円払ったけど、ブルックはやっぱり良いなぁ・・インテリではない自分にも(苦笑

  • 自分に自信がなくなる…
    全く何を語り掛けられているのか、或いは、何を表現しているのか理解できなかった。
    集中力を拒絶され、眠りの谷との共存になってしまった。
    「脳の神秘」をたどる云々とあるが、どこにそれがあったのか???
    共感覚とは何なのか?
    取材した作者は了解のうえで書いているのだろうが、劇場にサラの状態で来ている私には皆目何も(全く何も!)得られなかった。
    記憶を捨てられない苦悩だけがドラマらしくはあったが…。
    「さすが!ブルック」という終演後の拍手に、劣等感を抱いてしまった。
    解ってないのは自分だけなのだろうか???

  • 満足度

    ピーターブルック初体験。で、これっすか・・・
    初日以降、明確な意思を持った酷評とぬるい賞賛ばかりが目に入ってきてたんで覚悟はしてたものの、その覚悟のさらに下を行くつまらなさ、どーでもよさ。

    「生ける伝説」ってことになってるらしいピーター・ブルック、観るのはこれが初めて。
    若いころにはとんでもない「最先端」だったんだろうなーってのはなんとなくわかったけど、少なくとも今日の舞台はその手クセをなんも現代の演劇としてアップデートしないで作られたもんなんだろうなーって印象がどうしても。
    あの程度の(「見立て」ですらない)演出、野田秀樹とかの芝居を観てる人間だったら新鮮味もないだろうに。

    「脳」をテーマにしたってことだけど、こんな程度の話、養老先生や鷲田清一先生、アハモジャ茂木センセーの本をブックオフあたりで買って読んでた方がよっぽど面白いし、よっぽど詩的な世界に満ちてると思う。

    せめて字幕見ないでもセリフを理解できるくらいの英語力があれば、「すごい」役者3人の演技を楽しむだけでも5500円分の元は取れた、のかもなあ・・・感はアリ。

  • 満足度★★★★

    完成された世界なれど
    「何もない空間」のピーター・ブルックだけあって、簡素な空間を観客の想像力によって充たす演出は、さすがと思う部分があった。
    観客を巻き込み、舞台全体、劇場全体を演出する力もさすがと思った。

    全体的に、何の落ち度もなく完成度の高い世界なのだが、
    その完成された世界というものに私はあまり興味が持てなかった。

    去年、『ザ・スーツ 』という作品も観たが、まったく同じ印象。

    土取利行さんの音楽が良かった。

  • 満足度★★★★

    平易で深い
    もっと難解なものを覚悟して観にいったのですが
    英語にしても、語られることにしても
    とてもわかりやすかったです。

    その上で、五感とか記憶とか判断とかに縛られない、
    想い感じることの重なりや深遠が
    人の根源にあるもとして、ある種の感慨と共に残りました。

    ネタバレBOX

    日本語のプロンプトがあるので、英語がわからなくても迷うことがなく、
    さらには、少し耳が慣れてくると、
    ほとんど頼らなくても
    会話が理解ができるレベルの英語で構成されているので、
    その分、舞台に描かれるものを
    まどろっこしさを感じることなく受け取ることができました。

    いくつかの異なる概念や感覚の重なり、
    記憶に風景が重なり、たとえば音楽を色で認識することだって
    舞台の語り口だとすっと理解できる。
    その、無意識の領域で行われていることから訪れる
    さりげなさと深遠さの人の思考や表現の可能性と限界が。
    すっと垣間見えたような気がした。

    シンプルな美術や音が醸す奥行きもあり
    楽しんだというのとは少し違うのだけれど、
    あとに自らの心に浮かぶことや、様々な表現に接することについての
    これまでとは異なる視点や視界がさりげなく置かれたような気がします。

  • 満足度★★★

    普通に面白かった
    英語も聴き取り易く分かりやすいし、面白い内容だし、生演奏も良かったし、満足でした。

    特に間の取り方が、日本人と違う。
    音楽のグルーヴと一緒かな。

  • 満足度★★★

    驚愕の3回コール
    3回コールがあったことが驚愕です、2回目出てくるのはえーし。

  • 満足度★★★

    「六根」は「空」である 「五蘊」は「空」である
    『驚愕の谷』の先には、「般若心経」が見えた。



    しかし、「王様は裸」になってしまうかも……は、さすがに言い過ぎか…。

    ネタバレBOX

    タイトルの『驚愕の谷』とは、ペルシャのアッタールの叙事詩『鳥の言葉』から来ているということは、前情報から知っていた。
    ならば、目を通したほうがいいのかもしれない、と思ったのだが、どうやら長い作品らしいので、パスした。

    簡単なストーリーを確認すると、「鳥たちが自分たちの王を探す旅に出る。その旅で7つの苦難(谷)を乗り越えていく。最後の谷が“驚愕の谷”」だという。物語のラストは知らない。
    まあそんな前準備だけで公演に臨んだ。

    キャサリン・ハンターは、前に『THE BEE』で見たが、今回もとても魅力的な女優さんであった。ほかの2人の俳優さんたちももちろんいい。彼らは何役もこなすのだが、さほど大きな変化をつけずに、さらりと別の人格を演じるのだ。白衣1つ、上着1つで。
    そして、2人の演出家には、舞台に観客を惹き付ける力がある。

    導入から展開、客いじりからラストまで、あるときは謎解きのように、またあるときはコメディのように楽しませてくれる。

    物語の軸には、人間の脳(力)があった。

    文字を見て色を感じたり、言葉を聞いて音を感じたりする「共感覚」を持つ人(々)が描かれる。
    主人公は、共感覚を持つことでもの凄い記憶力を発揮する女性である。

    この作品の中で、印象深いのは「無」について語るシーンだ。
    「“無”は“無”」であるということに対して、共感覚を持つ女性は「“無”はある“”」と言う。
    そして、劇中で行われたマジックで、観客に「伏せたトランプを当てろ」というシーンがある。
    マジシャンは「nothing」と観客に言う。観客も何度か迷いながら「nothing」と言い、トランプを指す。
    トランプは何も書いてないものであり、「nothing」であって、「nothing」のトランプは「ある」のだ。

    このとき私の頭の中にあったのは、「空」である。
    「色即是空」の「空」。
    「般若心経」に出てくる「空」。
    さらに「般若心経」には「色即是空」のあとに、びっくりするぐらい「無」が大量に出てくる。

    「空」と「無」。

    お釈迦様はすべてが「空」であると説き、さらにお釈迦様が達した悟りまでも「無」であると「般若心経」で説いたのだ。
    「空」と言ったのは、「五蘊(ごうん)」であって、「六根(ろっこん)」である(と思う)。

    「六根」とは、人の感覚のことを指していて、「目、鼻、舌、耳、身、意」のことを言う。
    ここでこの作品につながったのではないか。

    すなわち、「共感覚」という、「人の感覚」=「六根」が、普通の人とは違う形で働く人々の、その「感覚」も、「空」ではないか、ということなのだ。

    共感覚によって脅威の記憶力を持った女性は、その能力によって苦しめられていく。
    記憶したものが頭の中から消えないのだ。
    彼女は、言葉や数字などを記憶するときに、「映像」に置き換えていく。
    これは、円周率を覚える人が、数字を別の言葉に置き換えてストーリー化していくのにも似ている。なので、劇中でもテクニックではないか、と言われていたりもした。

    しかし、彼女の場合はそうではなかった。
    彼女はその能力によって仕事を失い、さらに窮地に追い込まれていく。
    「A」が「ピンクだ」と言った男も、その感覚によって、孤独感を味わっていた。

    彼らは等しく、その「能力」に振り回されていた(る)と意っていい。
    (唯一異なるのは、舞台の上で演奏しているピアニストだったが)

    共感覚がある彼女は、「無」を「ある」と言った。
    つまり、彼女には「ある」のだ。

    彼女にとっての、最後の試練、つまり「驚愕の谷」は「共感覚」ではなく、「ある」であったのではないか。

    すべてが「空」とするならば、彼女は「驚愕の谷」を超えることができるのではないのだろうか。
    しかし、彼女の「共感覚」が「空」とすればすべてが終わるわけでもない。
    そういう考え方に立つこと、「空」の上に立つことができれば、の話であり、この先は、誰にも説明しようもない境地に達することになるのだろう。

    だから、最後は、「演技」でもなく「台詞」でもない、「横笛の演奏」によって静かに終わる。
    オリエンタルな響きの横笛は、やはり東洋的な「神秘」のようなものを感じざるを得ない。

    この作品の演出は、非常にオーソドックスなものであった。
    しかし、先にも書いたとおりに、静かな展開にもかかわらず、惹き付けるものがあった。

    例えば、敷布の上に、計算されて置かれたイス。
    「内」と「外」(物理的、あるいは意識的な)をうまく分けていた。
    特に冒頭のシーンでは、両端の2脚だけが、敷布と外の両側にかかっていたりした。

    脅威的な記憶力を発揮するシーンもうまい。
    すべての単語を発するわけではなく、そのバランスがいいのだ。

    とは言え、見ながら思ったのは、今の日本の演出家(特に若手の演出家)だったら、これをどう見せただろうかということ。
    つまり、ブラシで床や壁に絵を描いていくシーンでは、照明だけでなく、ビデオプロジェクターで舞台に鮮やかな色彩を見せたのではないだろう。

    あるいは、記憶力抜群の女性が文字にまみれていくシーンを描くときには、ビデオプロジェクターで文字を実際に映し、彼女を文字に埋めたのではないだろうか。特に後半、女性の中から記憶が消えなくなり、黒板の数字も消せなくなったシーンのときは、舞台は映像の文字まみれになったのではないか。
    そのほうが、しっくりきたし、誰にでもわかりやすい。刺激的でもある。

    この作品ではそうはせず、「台詞」と「演技」、そして最小限の「セット」と「照明」だけで、観客のイマジネーションを刺激した。
    何でも具体的に(手軽に)見せてしまうことは果たして良いのだろうか、という問い掛けにも感じた。というわけもはないが。

    もちろん、今の日本の作品には、先に書いたように「文字を溢れ出させる映像的な演出」の少年王者舘やハイバイの『霊感少女ヒドミ』なんていうのもあり、「単に映像で、説明的に見せる」の「先」へ行ってしまっているものもあるのだが。
    ピーター・ブルックさんが、これらを観たらどう感じるのか知りたいところではある。

    そして、「ピーター・ブルック」もまた「空」である。
    (は、面白いから書いただけで、それほど意味はない)

    とは言え、今回の作品を見て思うのは、正直、ピーター・ブルックさんを少し特別視しすぎていること。
    私も、もちろん含めて。なにせ、静岡まで『WHY WHY』を見に行ったクチなのだから。

    確かに、(それなりに)面白いとは思うのだけど、今回の作品で言えば、私は下敷きになっているアッタールの『鳥の言葉』をまったく知らないということ、さらに英語はネイティブではないということ、で作品の中に、うまく入り込めなかったのだ。

    「アッタールの『鳥の言葉』ぐらい前もって読んでおけ」というのではたまらない。
    それを知っていれば、「より楽しめた」ぐらいの作品でないと辛い。
    特に冒頭のシーンと、不死鳥のエピソード、ラストのモノローグは『鳥の言葉』からの引用ではないのだろうか。
    これらと、私のようなレベルの観客とを、もう少しつなげる「何か」の「工夫」がほしい。

    英語だって、字幕があればいいということではない。
    作品に届ける力があれば、その壁はやすやすと乗り越えられるはずだ。
    かつて、台湾の作品で字幕がまったくない舞台を観たことがあったが、十分に伝わった。
    それが誤った受け取り方であったとしても、「伝わった」のだ。

    今回の作品では笑いがたびたび起こった。
    中でもトランプマジックを見せるシーンが一番笑いが大きかった。

    観客の中から3人が次々舞台に上げられ、トランプマジックの相手をさせられるというものだ。
    この笑いの中心は、「英語がよくわからない」ということに尽きてしまう。
    もし、日本語だったら、ああいう形での笑いは起きていないだろう。

    「笑い」を意図していたかどうかは別として、当然「伝わらない(伝わりにくい)」ことは、折り込み済みではないのか。
    だったら、このテーマにおいては、それを作品に生かせる方法はもっとあったと思う。
    役者が、英語が伝わらないことにシビレを切らして、字幕を指さしてしまう、というのは面白いのだが、その「面白さ」の先がほしいのだ。
    そうでなければ、英語の伝わり方が微妙な日本で上演する意味はない。

    非難を恐れずに言ってしまえば、今回の作品は、「西洋人にとって神秘的でオリエンタルな素材(アッタールの『鳥の言葉』)を下敷きにして、人間の脳(力)に触れつつ、客いじりで笑わせて、それらしいモノローグと、オリエンタルな香りのする神秘的な笛の音で、意味ありげに終わらせた」ともいえてしまう。

    演劇人の方たちや、目の肥えた観客の方たち、「『鳥の言葉』ぐらい常識だよ」の方たちは、また違った感想があると思う。
    しかし、私は、この作品が下敷きにしている雰囲気や、投げっぱなしに感じてしまったラスト、つまり、「伝えること」をおざなりにしてしまった(と感じた)ことは好きになれない。

    で、「ピーター・ブルック、また来年来るよ」と言われたら、どうするか。
    私は「行く」と答えてしまうだろう。
    だって、ミーハーだから。
  • 満足度

    はじめての失望
    どうなのだろう。これまでピーター・ブルックの作品はたとえ劇評家が寝ていても、とりあえず見られた。それは見るべきものがあったからだが、今回は眠くなった。芝居の系統としては人間の精神世界の闇をテーマとした「THE MAN WHO」に近いものがある。この作品もすんなりとは入って行けない作品だったが、今回の芝居は入りにくいというよりも入るだけの奥行きを用意していないという感じだった。やたらに時間をとった客いじりをしていたが、それがさして意味のあるものにも思えなかった。ここで大きな疑問を持ったのだが、これは果たしてピーター・ブルックの作品なのだろうか。ピーター・ブルック的ではあるが、決定的に何かが違うような気がする。ひとつだけはっきりと言えるのはこの芝居には以前のピーター・ブルックの作品のような驚きはない。ピーター・ブルック的なものはあったが、そういったスタイルは皮肉にも彼の著書にある退廃演劇に近しいような気がした。それにしても良くないと思ったなら拍手をしなければいいのに戸惑いながら3回もカーテンコールをする日本人はとんでもないお人好しだ。

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