My Journey to the West 公演情報 一徳会/鎌ヶ谷アルトギルド「My Journey to the West」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    実験的演出
    実験的な演出だったが、私にはその実験意図がわからなかった。

    ただ、それがわかる人、感じられる人にとっては、面白い作品なのかもしれない。

    というのは、詳しくはネタバレBOXに書くけれど、確かに何か強い筋の通った論理・意志で世界が構築されていたからだ。

    ネタバレBOX

    そもそも、どこまでが演出意図なのかわからないが、率直な感想を書く。

    台詞やその意味内容が、観客である私の中にまったく入ってこなかった。
    ただし、わざとそうしているんじゃないかと思わせるようなところが随所にある。

    まず、文語体の台詞が多いこと。難解な用語が多様されること。
    そして、書き言葉のような台詞(モノローグや日記文の朗読)が多いこと。
    (これはおそらく中島敦の文章をそのまま使っていたからだろうが、、、書き言葉と話し言葉は違う訳で、、、と私は思ってしまうが、、、難しいところだ)
    そのような台詞を役者が発する際も、敢えて感情移入をさせないような、そんな発語の仕方をしていること。
    ダイアローグの場面でも、お互いは顔を見合わさず、心の有機的な繋がりを敢えて切断しているように見えること。
    など。

    舞台上がそもそも有機性を排する形式なので、必然的に、客席に伝わってくるものも、無機的な言葉ばかり。

    なぜ、敢えてこんなことをしているのか?
    演劇の命(のひとつ)と言っても過言ではない台詞(言葉)の有機性を敢えて異化する意味とは何か?
    役者をオブジェ化するということか?
    人間中心主義(ヒューマニズム)への反逆か?

    この作品のテーマの一つに、西洋から東洋に持ち込まれた「自我」の問題がある。それらは、言語を基にした思考によって生み出されるもの。そのことをこの演出形式で何か観客に問いかけようとしているのだろうか?
    自我の基本である思考、その思考の根本にある言葉のことを。
    でも、そんな感じもしない、、、

    もしそうだとすると、後半の展開がわからなくなる。
    近代的自我の話から始まった物語は、後半になるにつれ、西洋の植民地主義と東洋との関係などに話が敷衍されていく。
    そこまでくると、もはや「自我」「言語」とはテーマが離れてしまう(勿論、根底では繋がっているにしても)。

    それに、深い意味内容の物語を語っているのだから、きちんと観客にその内容は伝達したいはずだ、、、

    または、言語的意味内容よりも大事なことをこの舞台で表象しているというのだろうか?
    確かに、新奇で美的な演出は面白くはあった。それに、役者の身体も鍛え抜かれたものではあった。だが、物語の意味内容を食い破る(取って代わる)だけのものとは思わなかった。

    敢えて観客に、無機的な言葉の海を見せたということか?

    もしくは、敢えてそうしたのではなく、単に衒学的に脚本が書かれいているだけなのだろうか?

    このように、テーマとその方法が重なっているような、重なっていないような、、、

    少なからず、私はこの作品を観ながら、そして見終えた後も、
    ずっと、作品内容よりも、なぜこのような演出が為されているのかが、気になって、気になって、そっちにしか意識が行かなかった。

    東洋の近代受容における西洋の暴力性というようなことは、うっすら考えたけれど、そのことと、この方法に対する「?」は私の中で全くリンクしない。

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    2013/10/16 01:24

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