うれしい悲鳴 公演情報 アマヤドリ「うれしい悲鳴」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    群舞はお見事、しかし……
     得意としているのであろう群舞シーンはお見事だと思いました。本公演のパンフレット(面白かったです)によれば「全員で動く」ことは彼らの重要なメソッドであるらしいので、劇団名をアマヤドリに変えても、今後も何らかの形で継承・発展されていくんでしょう。
     しかし残念ながら物語はわたしには退屈だった。「感度」が今作のテーマとのことだが、登場人物たちの「痛み」が今ひとつ伝わってこない。それは、あるセリフを吐く時の(吐かざるをえない時の)根拠が不足しているせいではないか。もっと逃れようのない場所にまで踏み込めたのではないか。「敵の見えない現代」を描きたいという意志は感じるけども、「自分にしかそれを描けない」というやんごとなきパッションまでは感じられなかった。
     この物語は、いわゆる管理社会型ディストピアSFだけれども(ジョージ・オーウェル『1984年』や、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』、テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』、最近では伊藤計劃『ハーモニー』etc.)、その設定がどうにも幼稚に見えてしまった。例えば「アンカ」という処置執行システムを遂行する「オヨグサカナ」のメンバーの議論には、思想的葛藤や知的蓄積がほとんど感じられず、とてもこの人たちが国家の命運を左右しているエリート官僚だとは思えない。SF的な発想には今後も可能性があると思うし、個人的にも嫌いではないけども、リアリティが必要なところはしっかり描いてほしい。誤解のないように言い添えれば、リアリズム演劇が見たいわけでは全然なく、荒唐無稽で一向に構わないのですが、なまじロジカルな説明によって世界観を構築しようとしているのに、その論理が幼稚なのでは説得力に欠けてしまう。ただ、(小説や映画と違って)演劇でそれをやることの難しさも分からなくはないので、だとしたら思い切って説明的な部分を書かない、とかの英断もアリなのかもしれない。
     演出・演技の面では、肝心の「感じない男」の長ゼリフが魅力的ではなかった。実力ある俳優たちはいたはずなので、個々の場面が生きてくれば、もっと豊かで起伏のある舞台にできたのではないかと思ってしまう。観た回がとりわけ良くなかった、という可能性もあるかもですけど。

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    2012/06/10 17:40

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  •  広田淳一さま。長文の応答をありがとうございます。日々セリフを変えていったというその試行錯誤の感覚や、稽古場での反応など、まざまざと伝わってきました。演劇というものを、ほとんどの場合(仕事上、稽古場見学などをさせていただくケースを除けば)、わたしのような観客はできあがった「公演」ないし「作品」としてしか享受することができないのですが、それは氷山の一角のようなものであり、しかも日によってさまざまに形を変えているのだ、ということをあらためて感じた次第です。
     私事になりますが、わたしが演劇に深くコミットするようになったきっかけは幾つかありまして、その最も忘れがたいものは、「キレなかった14才♥りたーんず」という企画公演にパンフレット(雑誌)の編集者として関わった際に、劇場に毎日張り付いて、そのほとんど全ての公演を観た、という体験です(6演目が、各6回ずつありました。そのうち4〜5回は劇場内や2Fのブースで観て、あとはロビーの映像で観ました)。出来、不出来は回によって違ったし、お客さんの雰囲気も異なりました。そして、それらが演劇をつくっているのだと感じたのです。いや、当時はそう明確に思ったわけではなくて、ただそこで日々生成されていた熱気にシビれていただけですけども。
     わたしは基本的に、いち観客としては、どんな公演であれ、やはり初日に完璧に近い状態に仕上げてほしいと思っています。そこでしか作品に触れられない人もたくさんいるわけですから。とはいえ毎回「反復」されていくことを避けられない演劇にとって、完璧な状態、という発想自体が一種の幻想だとも考えられます。それは常に変化している生き物なのだ、と考えれば、時には試行錯誤を通じて、より面白い状態に持って行けるのかもしれない(リスキーですが)。広田さんの回答を拝読して思ったのですが、『うれしい悲鳴』はそもそもそうした変化の可能性を大きく含んだ戯曲なのかもしれません。テーマがかなり普遍的なものだと思いますから、その時々で、どこにピントを絞っていくかによって、引き出されるものが変わってきうるのではないでしょうか。仮に再演するとして、その時の座組や、広田さんの興味関心や技術の進展度合い等によって、今回消されたようなところが復活したりもするのかも(しないのかも)? いずれにしてもぜひ拝見したいと思っています。
     仰るように、きっと演劇は、意味と無意味、ロジックとパッションといった諸要素がぶつかり合うようなところで成立しているのでしょう。あるいはそうした二項対立的な図式の罠(?)を飛び越えて、そもそもその境界が溶けてしまうようなところに成立しうる演劇もあるのかもしれません。つまり通常の(日常的な)言語感覚や価値体系を改変したりひっくり返してしまうようなたくらみに、演劇は(芸術は)通じているということだと思います。そこに演劇の可能性、楽しさ、そして恐ろしさがある。果たして本当に成立するのかどうか際どいところ、最初から勝算があるわけではないような未踏の領域にこそ、恐るべき芸術の力があり、人を震撼させるものが眠っているのではないかと思っています。刺激的な対話をありがとうございました。またぜひ作品を拝見したいと思います。

    2012/06/16 03:21

    お返事本当にありがとうございました。まずは数ヶ月も前に観た舞台について記憶を頼りにここまで詳細な論述をしていただけたことに本当に驚き、恐れ入りました。「書きすぎた」などということは一切、ございません。すばらしい誠意に満ちた返答をいただきまして、本当にありがたく思っております。そしてまた、藤原さんの側に基本的な誤読があるのではないか、などと疑ってかかった自分の不明を恥じるばかりです。

    一度観ていただいただけで、ここまでこちらの意図したこと、戯曲における問題意識を見通していただけるとは本当に驚きました。10年以上活動してまいりましたが、なかなかこれだけのレベルのまとまった文章に触れる機会はありませんので、藤原さんのこの返信が今回の僕にとっては賞金のようなものとなりました。藤原さんの誠意に、尽きせぬ感謝を捧げます。

    さて、せっかくですから以下、藤原さんのご指摘に対して自分の感じたことを述べていきたいと思います。(さらなるご返信を求める文章ではございませんので、ご安心ください……)

    あの長い議論のシーンが「うれしい悲鳴」のネックだった、というのはまさしくおっしゃるとおりだと思います。確か藤原さんは本番日程の最初の方にご覧いただいたかと思うのですが、実は本番中にどんどん書き換えていったのがあのシーンでした。そんなことは初日までに済ましておかなければいけないことなのですが、あのシーンは僕としても「何を、どこまで、どんな言葉で語るのか?」最後の最後まで試行錯誤をひたすら繰り返したシーンだったのです。毎日のようにセリフを変え、あるいは付け加え、客演の荒井志郎さんをとんでもなく困らせたものでした(笑)。
    「泳ぐ魚」という組織の成立根拠が曖昧なのではないか? というご指摘も大変鋭く、大いに納得できるところでした。そこに関しては僕自身も強い興味をもっていたからです。実は、執筆当初には、なぜ「泳ぐ魚」という組織が誕生するに至ったのか? という疑問に答えるべく、政治劇のようなダイジェストのシーンをほとんど論文のような調子で実際に用意していたのです。そのシーンは国会答弁やら、独裁者の演説やらを交えたかなり固い文章で、貧しいながらも私の政治的な知見を総動員して、かなり踏み込んだ表現で現代日本の政治状況への現状認識と、その社会がいかに「泳ぐ魚」を生み出すに至るか、というプロセスを自分なりに詳述したものでした。

    ある時、実際にその台本を稽古場で俳優達に演じてみてもらったのですが、まあ、なんといいますか、あの時の俳優たちの呆然とした反応は今でも忘れられません。何人かの俳優、特にゲキバカの西川康太郎くんなどは大興奮して「ぜひこのシーンをやりましょう!」なんて言ってくれていたのですが、大半の俳優達はそのあまりに文語的でガチガチの政治話にポカーンとしてしまい、ちっとも実感が持てない様子でした。
    俳優達のリアクションが悪かったというだけで自分の戯曲を引っ込めたわけでもないのですが、そのことは大きな転換点になりました。具体的なことを、リアリティを追求して詳述すればするほどに、大きく観客の想像力は奪われてしまうのではないか? 自分の戯曲に対してそんな葛藤を抱くことになったのです。最終的には、そういった文語的でロジカルな言葉の冒険は、小説という形式でやった方がより面白いような気がしてきてしまって、そのシーンは丸ごとボツとなったのです。

    藤原さんもご指摘のように、私も演劇がSF的、あるいは社会的・政治的なリアリティを駆動するのは、現代においてはとても難しいと感じています。確かに、難しいのです。具体的に語れば語るほど、言わずもがなの想像力つぶしになってしまうし、話し言葉でやる以上、活字ほど複雑な内容のことを大量には詳述できないし……。
    ただ、かといって私は、言語のパフォーマティブな側面ばかりが前面に出なくても、舞台表現として豊穣な言語は成立可能と思うのです。意味のある、筋の通った物語を構築しようとすればするほど事実確認的な言語の使用は必然的に多くなり、いわゆる「説明ゼリフ」のようなものが不可避的に発生してきてしまいます。それでも私は、言語芸術としての側面も強い演劇が真にその力を発揮するのは、ロジックとパッションが両立するような瞬間、長い時間を扱うストーリーと何気ない一瞬が拮抗するような瞬間、あるいは、意味と無意味が同時多発するような瞬間にあると信じているのです。意味を通って、意味を突き抜けていく瞬間をこそ、私は演劇に求めているのだと思います。

    完全に余談ではありますが、千秋楽において我々は、「うれしい悲鳴」の持っているアクチュアリティを最大化することに成功したと思っています。あの日は、少しだけ何かのリアリティを駆動させることに成功したような実感がありました。その日はかつての劇団「ひょっとこ乱舞」の千秋楽、大爆破の日であり、あの3月11日から1年という日であり、福島の劇団「郡山演劇研究会 ほのお」さんが、福島の現在についてのリーディングを我々の上演に先立って行なってくださった日でした。僕は合計で3時間近くに及んだあの千秋楽終わる時に、お客様にとってまた一層大きなインパクトを持って作品が届いたことを感じました。少なくとも、戯曲の持っている力の限界を越えた高みで、上演としての何かが成立しえたのではないかと思ったのです。

    なんだか夢中になって思い出話を語ってしまいましたが、僕はあの戯曲を近い将来、もう一度やることになると思っています。その価値のある戯曲だと確信しているのです。ぜひその際には藤原さんにもう一度観ていただけることを願ってやみません。違う演目であれ、またぜひ我々の作品をご覧いただき、さまざまご指導の言葉をちょうだいしつつ、また再び挑発しあえるような創作者と批評家の関係を築いていければと、切に願っております。

    この度はお忙しいところ、また、本当におつかれのところ全身全霊の返信、誠に、誠に、ありがとうございました。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。

    2012/06/15 15:28

     広田淳一さま。ご丁寧な反論、ありがとうございます。拝読しました。確かに「官僚」との表記は説明不足であったかもしれません。作り手が長い時間と労力をかけてつくりあげた作品に対して、審査であれ劇評であれ、何かを書く以上は責任感が必要だとあらためて感じ、気が引き締まる思いです。ただ、「国家の命運を左右しているエリート官僚」という表現によってわたしが言いたかったのは、なにも「密室である会議室において政策決定をしている人々」のことではありませんでした。そうではなく、「官僚機構(国家的な権力機構)の中にあって、その重要な部分を担う者たちとして選ばれた人々」のことです。近代化以降の現在の日本では、官僚の地位は異様なまでに高く、事実上、政治家を凌駕して国家を運営してきた面もあるわけですが(したがってエラい人だというイメージが否応なくありますが)、官僚というのは基本的には国家権力の歯車の一部であり、国民という主体に奉仕するservantだというふうにわたしは考えています(政治学における官僚論にもこうした見解を見出すことができるはずです)。その意味ではオヨグサカナのメンバーは、選良として、国家権力の機構の中に組み入れられている、という点で「エリート官僚」だと考えて表記しました。ただ「国家の命運を左右する」というところが、国家的な意志決定の主体であるかのような誤解を招きかねなかったとは思いますし、それは広田さんの意図するところと全然逆でしょうから、広田さんの反論はもっともですし、わたしも説明があまりに足りなかったのかなと反省しています。わたしの意図としては、彼らの実行部隊的な行為そのものの蓄積が、国家の命運を(おおむね悪い方に)変えていってしまう、という意味でした。基本的には『うれしい悲鳴』において広田さんが描きたかったのであろう、主体なき権力によって世に悲劇が起きていき、それを誰も止めることができない、といったディストピアについては、理解しているつもりではあります。(そしてその構造は、現在の日本にもかなりの部分通じるものがあるわけですよね……)
     あの長い議論のシーンが、わたしは今作のネックになってしまったのではないかと感じています。もちろん広田さんは、彼らの議論を「浅薄に」描きたかったのだと思います。つまり、彼ら自体は意志決定の主体ではないし、ただの実行部隊にすぎない。上層部から命令されたことに従うだけの、いわば「犬」なのであると。しかも「感じない男」というエモーションに欠けた人物もいるわけだから複雑になるし、あるいは近代文学的な苦悩(という言い方も大雑把ですが)を描くことも広田さんの意図するところではなかったかもしれません。ただそれでも彼らにあるだろう渇いたシリアスさというか、主体なき権力性の中に絡め取られ、なおかつ、その実行部隊として権力の一部分(それもかなり重要な先端部分)を担った人間たちならではの葛藤というものが、あのシーンでは本来もっと表現されるはずだったのかな?、と推察しました。あるいはもっと浅薄でもよかったのかもしれませんが……(時間も短めに)。「思想的葛藤や知的蓄積が感じられず」というのもそういった意味においてです。実行部隊であるとはいえ、やはり彼らは結果的には選ばれた人たちではあり、それなりの年月をその行為に費やしてきていると思うので、それにしては……と。ただ、わたしは彼らをそれなりに知的な選良集団ではあると考えていました。広田さんの中で、もっとそこらへんから寄せ集めてきた愚連隊(?)的なイメージが強かったのだとしたら、そこに読解の齟齬はあったかもしれません。
     もっといえば、そもそもオヨグサカナとアンカの成立根拠ということに疑問がありました。これも広田さんの意図としては、「なぜかそういう組織が出来てしまい、しかも歯止めが効かなくなっている」状態を描きたかったのだとわたしは理解しましたが、だとしたらまずその自動機械的な恐ろしい組織が出来てしまう動機付けが(説明的だったわりには)弱すぎるように感じられました。確かかなり適当にデタラメに政策決定されることになった、という設定だったと思いますが、さすがに人類がその結論に至るまでには相当なディザスターがないと難しいのでは……? 加えて、あのオヨグサカナのリーダーというか、上層部の意向を伝えに来る人がいたと思うのですが(誤解のないように言い添えれば、あれを演じていた俳優さんが悪かったとは全然思っていません)、むしろああいうキャラクターを配する形ではなく、誰からの指令かさえも分からないようなメッセージのみが届く、というひりひりと渇いた形でも良かったのかもしれません。……ここから先は、広田さんの想像力と、それをリアライズしていく創作の領域に踏み込んでしまうことになるので、ここで留まります。とにかくオヨグサカナとアンカを成立させるためのリアリティの不足が、「敵」の見えない社会/時代における「痛み」という今作のテーマの持っている物悲しさを十全に伝えることに対して、足を引っ張ってしまったようにわたしとしては感じています。
     これは完全に余談になりますが、演劇は、小説やマンガや映画やアニメやゲームなどといったジャンルに比べて、そのようなリアリティを構築することが難しいジャンルなのかもしれません。リアルタイムに駆動している時間があり、その中で使える要素もかぎられてくるので。特に90年代以降だと思いますが、どうしても「日常」的な風景を描く芝居が増えていった背景には、そうした理由もあったのかもしれない。しかし、様々な具体的な制約があるからこその演劇の可能性もあるのだと思いますし、それが荒唐無稽な(奔放な)想像力をどのようにリアライズしていきうるのか?、といったことは今後も考えていきたいと思っています。長文失礼いたしました。いただいたご質問・反論を超えて、少し書きすぎたかもしれません。

    2012/06/15 13:49

    コメントありがとうございます。広田淳一です。長文の感想、大変ありがたく、多くのご指摘には納得する部分も多々ございましたので、あれこれと得心しながら拝読いたしました。ただ、藤原さんの作品読解に関して少し違和感を感じる部分もございましたので、僭越ながら補足で説明をさせていただきたく思います。私は、藤原さんがご指摘になった、「『オヨグサカナ』のメンバーの議論には、思想的葛藤や知的蓄積がほとんど感じられず、とてもこの人たちが国家の命運を左右しているエリート官僚だとは思えない。」という部分に関して違和感を覚えました。というのも、そもそも私には「エリート官僚」を描いたつもりが無かったからです。「オヨグサカナ」のメンバーを、私はあくまでもひとつの「実行部隊」として描いたつもりでした。どちらかいえば官僚機構というよりは組織の末端、一兵卒たちとせいぜい中隊長ぐらいまでを描いたつもりだったのです。そのことを明らかにするために、彼らが実行部隊として現場仕事に勤しむシーンも描きましたので、その部隊を指して、「国家の命運を左右しているエリート官僚」を描いたとのご指摘はどうもあたらないように思ってしまったのです。そもそもこの作品の設定は、「権力者たちが国家の運命を左右する主体たることを止めてしまったら?」という想像力、言うなれば、決断を下せないことを「アンカ」という「制度」にまで高めてしまったら? という発想がメインとなって構成されておりましたので、「エリート官僚」たちが「国家の運命を左右する」ような議論をしている様子を、私は最初から描こうとしていなかったのです。いかがでしょう?  ……せっかくご来場いただきました上に貴重なご意見まで賜りましたのに、反論のような形となって恐縮ではございますが、相手が藤原さんということもあり、胸をお借りするような思いで書いてみました。欲張りな望みかもしれませんが、さらなるご意見などいただけましたら幸いです。

    2012/06/14 11:54

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